擦痕の啓示


「太宰幹部殿、目標ターゲットの捕縛成功しました」

し、全員連れてけ。猿轡と薬の確認を忘れるな」

「はっ」

間も無くこの埠頭ふとうは先程までの銃撃音と轟音が幻であったかのような静寂に包まれた。コンテナに囲まれて常夜灯の光も届かない此処は密会場所にうってつけで、そして其れを襲撃するのも造作もないことであった。

「撤退だ」

ポートマフィアに仇なす組織は幾万とおり、それらを潰すための襲撃任務は尽きることがない。今日はとある徒党の密会に奇襲をかけるというもので、相手は警戒を怠っていたのか呆気なく生け捕りにすることができた。この徒党は数年前から存在していて、大きな組織に属さない所謂はぐれ者の異能力者が田舎の不良よろしくつるんでいた地下集団グループであったが、ここのところ規模を拡大し始め、動きが目につくようになったため早いうちに芽は刈り取っておこうという算段であった。

外套コートを翻してこの場を去る。四月だと云うのに夜風は強く、少し冷たい。
風を身に受けながら、太宰は昼間の首領ボスとの会話を思い出していた。

『何を覚えられて何が一生覚えられないのかの線引きは彼女も正確に把握していないみたいなんだ。一般常識や自分のこと、自分の記憶が消えるという事実は忘れないらしい。そして家族や通っていた学校の名前、長く付き合っている人のことも覚えている。先月に高校を卒業して、進学はしないと聞いたから私が此処に呼んだんだ。その交渉中も一度記憶が無くなってしまって難儀だったよ』

『彼女の記憶は紙媒体だ。しかし情報処理能力の高さ故に書かれている内容を理解するのに数分もかからない。だから彼女の仕事に於いて、記憶が無くなるということが大きな弊害にはならないと私は判断したということだ。どうだい?太宰君、君の疑問には答えられたかね?』

若し彼女の存在がマフィアにとって都合が悪くなったときは数日監禁でもなんでもして記憶が白紙に戻るのを待てば此方も余計な手間をかけずに済む。
まり、首領は使いものにならなくなる数分間より彼女の能力と機密性をとったということか。

全く、彼らしい“合理的”な判断だ。

「太宰殿、尋問は如何いかがなさいましょう」

嗚呼ああ、君たちに任せるよ。見張りも疎かにするような連中だ、最下層の伝達事項を暗唱させられたような奴等だろう。問題はその受け渡し先の者の所属。死なせるなよ」

「了解致しました」

彼女を何処で見つけ出したのかは聞かなかったが彼が医師としての顔を合わせ持っていることを考えればおおよそ予想はつく。
あの彼が態々わざわざ買った能力なのだから非凡なものなのは間違いないだろう。

月明かりが太宰を照らしている。彼はにんまりと笑った。

却説さて、お手並み拝見といこうか」

***

「やァ!御機嫌ようなまえちゃん。今日も元気に機械とにらめっこかい?」

大きな音を立てて開いた扉に目を丸くしたなまえは現れた人間に体を硬直させた。

「だ、太宰さん…!こんにちは…その、先日はとんだご無礼を…!」

「うん?君、何か私にしたっけ?解除番号は教えてもらったし資料も手に入った」

覚えていないのか、となまえは思った。
覚えているのか、と太宰は思った。

普通、新参者が幹部である自分のことを認識していなかったら上司は憤慨するだろう。それが暴力の蔓延はびこるポートマフィアなら尚更だ。なまえは太宰からどのような仕打ちを受けるのかと恐々きょうきょうとしていたのだが、彼がそのことを覚えていないようで拍子抜けしてしまった。

首領の話ぶりからは此処に来てからは記憶が無くなったことは未だないようで、そして彼女も「先週から居る」と話していたことからそろそろ約十日経つのではないかと踏んでいた。そのため彼女が自分のことを覚えていることに太宰は予想が外れたか、と思った。

「若しかして私の絵、矢っ張り笑ってたの?」

「いえ!決して!そんなことは!」

「うふふ、そうだよね。ところでなまえちゃんこれを見てくれよ」

そういって太宰は数枚の紙がホチキスで止まっている資料を三部机の上に置いた。なまえは一番上にあるものを手に取ってから太宰を見上げる。

「これは?」

「私が今抱えている案件だ。とある徒党が最近勢力を拡大していて、その背後を追っているのだけれどどうにも行き詰まって仕舞ってね。それで首領直々に勧誘スカウトされたなまえちゃんにたすけを求めに来たんだよ」

太宰は片手を頭に当てて首を振り、溜息を吐いた。
なまえは「なるほど…」と呟いて資料に目を通しはじめ、流し読みをするような早さで紙をめくっていった。
そして椅子に座ったまま下を覗き込み、抽斗ひきだしに収納されていた地図を開いた。

「太宰さんは、何が判らなくて行き詰まっていらっしゃるのですか?」

間も無くして全て資料に目を通したなまえはおずおずと口を開いた。その目には戸惑いの色が浮かんでいる。

「其れは、どういうことかな?」

それを聞いた太宰は目がすっと細めなまえを見つめ、指を口元に持っていった。

彼女は開いていた地図を回して太宰の方に正面を向けた。それは横浜の地図で、細部まで細かく表記されているものだった。

「先ずこの資料のここに書いてある徒党の構成員が頻繁に訪れる港、此処は普通の港ではなく、この街に数多くある港の中でも外つ国との取引船のみが入出航する場所でして、徒党が外つ国の組織と交流していたのは想像に難くありません」

太宰は顎に手を当てて前屈みになり、話を聞いた。然し目線はなまえに向いており地図を見ていなかったが、机上を見ていたため彼女は気づいている様子はない。

「そして此の昨日の密会にて捕らえた外つ国の組織の人から聞き出した情報の報告書にある、彼らの上層部についての質問に『俺たちの上など居ない』と答えたという記述です。普通、人は上の者は誰だと聞かれたら自分の所属する組織の上司を答えるものです。尋問されている場合はその上司について口を閉ざそうとする。然し彼は俺たち・・と云いました。複数人を表す表現をしたということは、“上司を含んだ俺たち”の組織の上に別の人物または組織が存在していた、という所謂いわゆる秘密の暴露をしてしまったのです」

なまえは顔を上げて太宰を見た。前屈みになっていたため顔の近さに通常なら驚くところだが、彼女は気にするそぶりを見せずに話し続けた。

「太宰さん、貴方の部下の方は尋問相手に嘘をつくことを許すような方たちですか?」

「いいや、そんな教え方はしてないよ」

「ならば『上など居ない』ということは事実でしょう。しかし外つ国の組織の上に何者かが存在していたことは尋問時の発言から明らかです。では何が事実なのか。徒党の真の取引先は何者なのか」

なまえは椅子に座りなおした。太宰は背中を真っ直ぐに戻してずれた外套を引っ張ってから腕組みをした。

「『上など居ない』に『上など既に・・居ない』という言葉を付け足すのです。詰まり上層組織は何者かによって解体済みであるということ。徒党の取引先はとある外つ国組織の支部であり、例の港のことから解体させられた上層組織は本国に拠点を置く本部と考えるのが妥当でしょう。そしてこれは私の憶測に過ぎませんが、本部が消滅し拠り所がなくなった日本支部は前々から交流していた小規模組織に身を隠すことにして、密会はその緊急の談判だったのではないでしょうか」

それなら見張りが手薄だったのにも説明できます、と云ってなまえは目を伏せて広げていた地図を閉じて、資料の耳を揃えはじめた。

「では何者が本部を解体させたのかというのが問題になります。しかしそれは太宰さん、貴方が一番良くご存知かと」

なまえは纏まった資料を両手で差し出し、それを太宰は口角を上げながら受け取った。

「緊急の密会が行われたのが昨日、なら本部が襲撃されたのもつい先日でしょう」


《そりゃあ知らないわけだ。私は太宰、太宰治だ。任務で外つ国に居てね、先刻さっき帰ってきたところさ》


「そして丁度一昨日、例の港のある横浜に拠点を持つポートマフィアの外つ国への派遣部隊が帰還。昨日の夜に例の港で目立った動きがあった最近勢力を拡大しつつあった徒党の密会の襲撃を行った」

なまえは太宰を見ていた。
太宰もなまえを見ていた。


「太宰さん、全て判っていらっしゃるんでしょう?」


太宰は満足そうに笑った。

「嗚呼。そして君も全部判っているんだろう?」


なまえは背もたれに身体を預けて大きく息を吐くと疲れたように微笑んだ。

「試されてしまいましたね。久しぶりにこんなに喋りました」

「意地悪しちゃって御免ねなまえちゃん。お詫びに今度昼食ランチでもどうだい?」

ふふ、軟派な方となまえは口元を押さえた。

ぺらぺらと店の紹介をしながら太宰は内心で舌を巻いていた。
彼女は資料を流し読みするだけで此の結論に至った。そしてその推測は全て正解であり、その観察眼と頭脳に素直に驚愕した。
彼は確かな高揚感を感じた。彼女ならば自分の見えているものと違う世界を見せてくれるのではないか、と。
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