朝焼けとレースカーテンと黒
遠くから何かが聞こえてきて意識が徐々に上昇してくる。
それが鳥の声などではなく目覚まし時計だと気づいて、瞼を押し上げろと脳が命令を下す。そしてけたたましく騒ぐ目覚まし時計を止めになんとか身体を起こしてベッドから這い出た。
二度寝防止に少し歩かなければいけないところに目覚まし時計を置いた自分を恨むのは毎朝のことであった。
冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出し、コップに一杯注いで飲むと、寝惚けていた頭が少し冴えてくるのを感じた。
冷蔵庫にはゴミ収集の曜日やスーパーの安売りの日が書かれたメモや数ヶ所にマークがついた周辺地図が貼ってあった。その他にも部屋の壁には至るところにメモが貼ってあるのが見受けられる。
シンクにコップを置き、歩いて光を遮る厚いカーテンを開けると丈の短いレースカーテン越しによく晴れた空が迎えてくれた。
枕元へ戻り先程止めた目覚まし時計の隣に置いてあった手帳を手に取った。それをパラパラとめくり、最後に書かれた
手帳には“忘れた私へ”と左上のあたりに小さく書いてあった。
みょうじなまえの朝はこの行為から始まる。
そして、今日は“その日”ではなかった。
洗面所へ行き顔を洗ってから小さいキッチンで朝ご飯を作る。冷蔵庫を開けると開封済みのベーコンがあったためそれと卵を取り出し、食パンをトースターの中へ入れつまみを回した。やかんに水を入れ火にかけ、フライパンに少量の油を引きベーコン、卵の順で焼く。
ぱちぱちと油が跳ねる音だけが部屋に響いている。
その音を何もせずに立ち竦んで聴きながらなまえは記憶を辿り始めた。
今日は四月の第二火曜日。燃えるごみの日。洗濯物は昨日の分が溜まってる。此処は勤め先が準備してくれた部屋で、最寄駅の場所も判る。そしてその勤め先は、
「ポートマフィア……」
首を左に回すと先程カーテンを開けた窓から大きな、黒い建物が見える。あれはこの街の何処からでも見える、凡ゆる畏怖と闇と威厳の象徴であった。
まさか自分があの組織に入ることになるとは……
チーンという高い音でハッと意識が目の前のことに引き戻された。我に返りパンが焦げてないことに安堵してから白い平皿にのせた。
そしてコンロの火を消し、いい具合に焼けたベーコンと卵を狐色のパンの上にのせるとよくある朝食の完成である。
そして沸いたお湯でお気に入りのマグに入れた珈琲を溶かして
「いただきます」
少し半熟な卵とさくさくのパンが今日も美味しい。一口珈琲を飲む。この時間は毎日忙しない朝でも大切にしている
これから私が
「次会ったら殺されるのかな、私…」
***
「はァ?資料課に手前のことを知らない奴が居たァ?」
「そうなんだよ!幹部を
「図解って何か知ってるか?判りやすい絵を描いて説明することなんだけどよ」
「失礼だな!彼女も『良く特徴を捉えていらっしゃるようで』って言ってたし」
それはきっとお世辞ってやつだぜ…と中也が云っているが彼女もふんふんと聞いてくれてたんだ。お世辞の筈がない。時折咳をしていたけれど。
「それで
「違う。奥の書庫の
「奥の書庫って…其奴ァ」
机に足をのせて椅子で踏ん反り返っている中也ががばりと身体を起こした。ちぇ、椅子から落ちれば面白かったのに。
「そう、幹部しか見れない筈の重要資料ってやつだよ。
「首領が?何でそんな危険なことするんだ」
「そこだよねぇ」
両肘を机に付き顎を乗せて虚空を眺める。が、首領の真意はわからない。
「…この間帰ってきて直ぐ首領に報告に行っただろう?そのとき首領の目がいつもと違ったように感じたんだよ」
「んだそれ。首領が何か企んでるってことか?」
そうではなさそうなんだよなぁ…とあの時を思い起こす。企むというよりは、此方の出方を伺うような、そんな視線だったような気がするが、
「矢っ張り直接聞きに行くしかないか。よし、私は行ってくる」
タンと両手のひらで机を叩いて椅子から立ち上がるといつのまにかまた机の上に足をのせる体制に戻っていた中也に顔を向けた。
「中也はどうする?」
「いや、俺は行かねェよ。資料課の奴と会ったのは手前だしな」
「判った。じゃあ宜しくね」
あてがわれている部屋から出て、首領のいる執務室へ向かう。
途中で大量の紙を抱えた黒服に呼び止められたが、部屋に中也がいると云うと私が歩いてきた道を早歩きしていく。
なんだか面倒なことが来る予感がしたからあのタイミングで部屋を出たのは正解だったとほくそ笑む。
***
「首領、太宰です」
「
彼はいつもこの時間帯はエリスちゃんを追いかけ回していることが多いため、今日は返答が直ぐにきたことに少し驚く。
扉が開かれ机の向う側に座っている彼と向き合うとまた“あの目”をしているのに気づいた。
「来ると思っていたよ。だが一応、要件を聞こうか」
「資料課のみょうじなまえのことです」
そう云うと首領は笑みを深めて近くの椅子を指した。
「紅茶でもどうだい?丁度珍しい茶葉が手に入ったんだよ、それに、少し長くなるかもしれないからね」
そう云われると断ることも出来ず、椅子に腰を掛けた。
紅茶が運ばれてくるまで本題に入るつもりはないのか、その茶葉がどんなに珍しい種なのか話している彼の話を聞き流す。一昨日まで
「
運ばれてきた紅茶を一口飲んでから首領は口火を切った。
「太宰君が不思議に思うのも無理もない。何故重要書類の取り扱いを部外者に任せるのかとね」
私もカップに口をつける。確かに芳醇な香りがして美味しいと思った。
「彼女は特殊な能力を持っていてね。それを利用させて貰っているんだ」
「それは彼女が異能力者だということですか?」
「それが良く判らないのだよ。異能であるという説明が出来ないんだ」
「その、彼女の能力というのは」
首領は焼き菓子を食べ、また紅茶を飲んだ。それが「そう急かすな」と云っているように感じ、自分も紅茶を飲んだ。
「彼女は情報処理がとても得意なんだ。事務作業も驚異的な速さで済ましてしまうし物覚えも早い。資料室に案内して一度ぐるりと回っただけで資料の配置を覚えたくらいだ。とても常人では出来ない」
成る程、そのためあの仕事を任せたということか。それに資料室に常駐することは資料探しに手間取る人の助けになるだろう。
「然し、其れではその情報を外部に流すことも可能でしょう。他に何があるのですか、彼女には」
うん、と頷いた首領は私を見据えてこう云った。
「彼女の記憶はとても儚い」
「彼女は