運命は時として川の如く


ふわりと海の香りが鼻を掠めた。
この街は港街であるから潮の匂いがするのはそう珍しいことではないのだが、今日はいつもより香りが強いような気がした。そこそこ重さのある買い物袋を持ち直してから、横を向くと、歩いている道に沿うように流れている川は、いつもより少し勢いが強いような気がした。

昨日は雨だったのだろうか。

今日は仕事がない日であったため外に出たのは昼下がりだったから地面も乾いていて気がつかなかった。こんなとき常に洗濯物を部屋干しにしておいてよかったと思う。

雨雲が通りすぎたであろう空は、からりと晴れているから気分が良く、ちょっと高めのアイスクリームまで購入してしまった。ビニール袋に詰められた食材たちは、家の冷蔵庫に入るのを今か今かと待ち望んでいる。
それを食べながらゆったりと本を読むのもいいな、と残りの休日の過ごし方を考えていると、自分の足取りが軽くなるのを感じた。

「…あれ、なんだろう…」

自宅に飛んでに帰っていた意識を、一気に川沿いの道にいる自分に引き戻したのは、視界の先に映り込んだ異様な“何か”であった。

見間違えでなければ何かが此方側に流れてきている。
それは岩や枝といった漂流物にしては大きすぎであり、見間違えでなければ仰向けになっている人間の形に似ている。

否、もはや見間違えであってほしい。

「だ、大丈夫ですか!?」

増水した川に人が流れている。私は急いで川のほうへと走り出し、川のすぐそばまで駆け下りた。持っていたものを全て投げ出し、何か使えるものはないかと周りを見渡すと長い木の棒があったため、私はそれを引きずり男性と思しき人が流れてくる先へ、端を握ったまま遠心力を使って投げ入れた。先ほどまでの平穏な帰り道からは考えられない激しい運動に呼吸が辛くなる。

「大丈夫ですか!?掴まってください!」

勢いの良い川の流れに自分も持っていかれないように両手で棒を固定するのに必死だった。あと十メートル、数メートル、と足を踏ん張って流れてくる人が棒に手が届く距離になるまでを固唾を飲んで待つ、然し仰向けに流れてきているため助けの存在に気づくだろうか、と最悪の事態を想像したときだった。

こつん

男性の頭頂部に木の棒が直撃し、この状況に似合わないほど滑稽な音が鳴った。

「うん?」

その音で目が覚めたかのように男性はぱちりと目を開け、音の正体は何か確かめるように頭に当たったままの棒を手に取った。そして棒の先を目で追い、酷い形相をしているであろう私と目が合うとふわりと微笑んで起き上がった。



「…起き上がった?」

その男性は腰のあたりまで川につかっているが棒を持ったまま此方に“歩いてくる”。

「え、なん、ええ!?」

あまりの展開に今まで出したことのないような声を上げてしまうと同時に手から棒が滑り落ちた。流れていた、ということは自力で川から上がれなかったからなのではないのか?
目の前の男性は混乱している私を見て、まるでこの空のように笑った。

「はは、随分な驚きようだ」

ざぶざぶと川から進んで来る男性は何故かとても嬉しそうだ。たっぷり水を含んで重そうなトレンチコートを着ている、背の高い人だった。
よいしょ、と云いながら水から上がって、棒を地に置くと状況把握が間に合わず呆けている私の前に片膝をついてまるで劇のワンシーンかのように綺麗に微笑んだ。


「やあ、君が私を扶けてくれたんだね。丁度善い、今日は天気も良いし一緒に入水自殺でも如何かな美しいお嬢さん」



「…は?」

今彼はなんと云った?入水?天気も善いし入水自殺でもしないか?

「何を云っているんですか?」

「うわぁ、こんな目向けられたの初めて…」

「え、っと、ということは貴方は自らの意思で川に流れていたということで間違いないですか」

「その通り。そして流れ着いた先がこのような女性のもとだったのだからこれは運命に違いない!」

「失礼します」「ちょっとちょっと待ち給え」

飛んでもなく危ない人に関わってしまったと踵を返そうとしたところで腕をぱしりと取られた。確実に危険な思想の人だ。自殺をしていた、とあっけらかんと話すなんて何処か頭のねじが外れているに違いない。

「ああ、すまない。服が濡れてしまったね」

彼の手で掴まれ、手に残っていた水で濡れてしまった腕辺りを見て男性は云った。

「と、まあ冗談は此処までにして、扶けてくれて有難う。全く、こんなに手を赤くして…」

そう云って男性は私の掌を撫でた。木の棒が川の流れに負けないよう力を込めて掴んでいたため擦れて赤くなっており、少し皮も剥けているようだった。まるで子供が転んで作った傷を咎めるかのような口調だ。

俯いている彼の髪の毛からぽたりと水が垂れ、再び私の腕を濡らした。

「あの…これ使ってください」

私は掌をやんわりと引き抜き、ポケットからハンカチを取り出し彼に差し出した。彼は不意を突かれたような顔をしてから、また先ほどまでのように此方が恥ずかしくなるほど綺麗に笑って受け取った。

「有難う…お嬢さん」

そして額と髪の毛の水をとんとんと拭いながら彼は云った。

「いやあ、私は君のお陰で濁流に呑まれずに助かったということだね」

「そうですね。でも貴方は自ら川に飛び込んだのでは…」

自分から濁流に飲み込まれに行った人が何を云っているんだという気持ちもあったが肯定の返事を返しておいた。

「処で、可憐なお嬢さん。宜しければ御名前を伺っても?」

目の前の男性は気障ったらしく胸の前に手を当てて私に尋ねてきた。当人は格好つけているつもりかもしれないが、服も髪もびしょ濡れでおまけに癖のある髪には落ち葉がくっついていてどうにも可笑しい。先ほどまで心中だの自殺だの宣っていた人に名前を教えるのはなんだか抵抗があった。

「私は……山田花子というものです」

ぶはっと大きく噴き出す音がすると同時に彼は腹を抱えて笑いだした。

「はははッ!それ誰の教えだい?いや、正しいね。大いに正しい判断だよ!」

何がそんなに可笑しいのかわからないが彼はひとしきり笑ったあと、はあと大きく呼吸を整えから居住まいを正した。

「確かに素性も判らない、しかも川を流れてきた男に名前を教えるなんて君はそんなことする筈が無いな。すまない、自己紹介が遅れたね」


「私は太宰治だ。そうだね、君に一つ助言を上げよう。今度嘘を付くときは二秒以内で返すようにしたほうが善い。却説、もう一度訪ねようか。君の名前は?」

「…私はみょうじ、なまえです」

「なまえ…嗚呼、素晴らしい響きだ」

私の名前を繰りかえした彼は目を細め眦を下げた。その表情はなんだか泣き出しそうで、そんなに私に感謝してくれているのか、と少し不思議に思った。

小首を傾げて彼を見つめること数秒。


「アイスッ…!忘れてた…!」

視界の端に映り込んだ買い物袋にはっと息を飲んで駆け寄った。

「なんてタイミングだ…」

彼は片手で顔を覆って空を仰いだ。まさかよりにもよってアイスクリームを買った日に川で溺れている人を扶けることになるとは私も思わなかった。

「大丈夫かな…」

袋の中身を確認しながら溜息をついた。生ものも、涼しくなってきたといえど心配だ。
私は袋を一気に持ち上げ、堤防を登りはじめた。

そうだ、と慌てていたため置いてきてしまった彼に何か云わなくてはと振り向くと、「転ぶから前見て歩いて!」と酷く焦った風に云われたため前を向き直した。
先程からまるで母親のようだ。

堤防を登りきり、後ろを向くと、外套コートのポケットに両手を入れて此方を見上げていた。

「あの!もう川に飛び込むのは辞めて下さいね!えっと…」

「太宰!なまえ、私は太宰だから、どうか…覚えていてくれ給え!」

私はその言葉にひとつ頷くと、急いで歩き出した。

望まれていたのかは些か不明だが、人助けをしたからか足取りが軽く、溶けてしまったアイスをいかにして食べるかを鼻歌まじりに考え始めたのだった。
prev   next

back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -