私を忘れないで


扉が開く音でパソコンを叩く手を止めた瞬間、むわりと立ち込んできた強い鉄の匂いに思わず顔をしかめた。

「太宰さん…珍しいですね。外套コートを着ていないの」

如何してそんな匂いを付けてるんですか、とは聞けなかった。彼は下を向いたまま目を合わせず何も答えない。今までにない雰囲気の彼に困惑よりも恐怖を感じた。彼はそのままカウンターを回り、座っている私の背後に立った。

振り向いて下から顔を見上げると、彼の両眼が私を貫いた。右目を常に覆っている包帯が無く露わになっていたことに気づき、思わず手を伸ばした。

「太宰さん…!右目ッ」

「なまえ、前を向き給え」

ぴしゃりと言い放たれた言葉で動きを止めた。私を見る彼の瞳は氷よりも冷たい。


本当に私を見下ろすこの人は太宰さんなのであろうか。


「疾く言うことを聞くんだ」

ショックで固まる私の身体を肩に手を置き無理矢理前に向かせる。言われたことのない口調に何か怒らせてしまったのだろうか、と漸く頭が働いてくる。

「今から私が指示することに従ってくれ。主に私に関するデータの削除や改ざんだ。なまえ、君なら朝飯前だろう?」

「そんな、出来ません…!私は首領ボスに頼まれた仕事しか」


するとトン、と背中に何かが突き立てられる。


ぞわりと脊髄に悪寒が走った。

「だ、ざ」

「余り動かない方が善い。何だと思う?まあ気付かない方が善いことには違いない。世の中はそんなことばかりだ。手荒なことをしてすまないが、頼まれてくれるね?」

太い円状のものが背中に押し付けられ、汗が全身から滲み出てくる。真逆、と思ったが後ろを振り返ることなど勿論出来ない。


信じられない、銃を突き立てられているなんて、それが彼だなんて、信じたく無かった。


呼吸が益々しづらくなっていく。一気に毒を飲んだようだった。


そのとき彼の左腕が後ろから肩に回され、ひゅっと息が詰まった。背中に押し付けられたそれ・・はそのままに身体がそっと引き寄せられ、私の右肩に彼の額が乗せられる。柔らかな髪が首元をくすぐった。

「…頼む…なまえ…」


向き合っていたパソコンの画面がどんどん滲んで朧ろな光になっていく。


私は手をキーボードの上に置いた。

瞬きをすると堪えきれなかった涙が頬を伝い、鮮明に画面が見えるようになった。

肩の重みが無くなり、温かさが遠くに行ってしまう。

「佳し…先ずは幹部としてのデータの改ざんだ」

私は云われた通りに手を動かす。背中の一点がどんどん熱を持っていくように感じてきた。


こんなことをするなら愛おしむように肩を抱かないで欲しい。

そんな声で名前を呼ばないで欲しい。

なんて酷い夢なんだろう。違う、夢だったらどんなに良かっただろう。



目が覚めたときは、貴方が私の側で笑ってくれていますように。


拭うことの出来ない涙が、机の上にしみを作っていった。


***



引き金を引く。重い金属音が二回静かな資料室に響いた。



ぐったりと目を閉じたなまえを片腕で抱きながら、銃弾で液晶が割れ使い物にならなくなったパソコンを見た。

懐に入れていたものを床に落として、代わりに持っていた拳銃をしまった。

工具のドライバーが鈍い音を立てて床に落ちた。先程まで彼女の背中に当てていたそれを軽く蹴飛ばした。ついさっき中也の車に爆弾を仕掛けた際に使った工具のひとつを抜き取ってきたものだ。残りの工具は容れ物ごと車の側に置いて来た。ドライバーの持ち手は銃口に太さが近い上に感覚が鈍い背中に突き立てられても区別など出来ないだろう。もっとも彼女は拳銃など触ったことも無いだろうが。

必要以上に怖がらせてしまったとは思う。然しこうでもしないと己の決断が折れてしまうような気がしたのだ。私に関するマフィアのデータを全て消させてから手刀で気絶をさせた彼女の頬には涙の跡があり、そっと頬を撫でると左胸が軋んだ。

私はポートマフィアを抜けると決めた。
なまえを連れて行くことも考えた。彼女には側にいて欲しかった。

然し、もうこれ以上大切な人はうしないたくは無かった。この部屋に入る前に廊下に脱ぎ捨てて来た外套、それにはつい数時間前まで友の生きた証が染み付いていた。

私は恨まれすぎているのだ。私と来れば彼女を危険に晒すことになるなど明白だろう。

首領ボスは安吾を使い特務課のデータベースに書き加えようとした、詰まり彼は外堀を埋めようとしたのだ。もし他の敵対組織が類稀なる才を持つ彼女のことを見つけたとしても、それが偽りの情報であれ“ポートマフィア所属の異能力者”にはよっぽどの奴で無ければ手を出してこない。咄嗟のことで安吾には訂正をしてしまったが私も首領の意図することは解らなくも無い。

彼は彼女を囲おうとしたのだ。
首領のもとに置いておくことは彼の手駒とすることを許すことになるかもしれない。
だがそれは時に彼女を守る壁となる。マフィアの本拠地の地下一階のあの静かな資料室に居ることが、現状彼女の安全を保障する最大の選択なのだ。



『人を救う側になれ』


「……ッ!」


だから、置いていくのだ。彼女を囲う城壁の中に。
私が、人を救う人間になったときに必ず迎えに来ると誓って。



彼女は云っていた。

《私学生時代に階段から数段落ちたことがあって、頭打ったらしく目が覚めたら当時覚えてた人のこと殆ど記憶から抜け落ちてて、唯一覚えてたの家族だけだった、ってことがあったんですよ》

これは頭を強く打って気絶した衝撃か、恐らく長く眠らされていたことで脳が異常を起こしたのだろう。

それを利用して、せめて首領の思い通りに事を運ばせないために、申し訳ないがなまえの記憶を一掃させて貰う。なまえが理解している異能に関する自分自身のことも消す。もし彼女がマフィア所属の異能力者だと云われようとも証明できる者は今から“居なくなる”。

首領が彼女の手を黒く染めようとした際の安全装置ストッパーは工面しておいた。最優先されるべきは、彼女の安全だ。そこに私の利己主義エゴイズムは介在してはならない。

彼女の才能が異能ではないことも、今までマフィアで起きたことも、私のことも覚えていない方が善い。

そう、それが“最善策”なのだ。

「……判ってはいるんだ」

なのに、心は思い通りにいかない。このまま彼女を連れ去り、誰も知らない異国の地へ逃げてしまいたい。だがそれでは織田作に託された言葉を捨ててしまうのと同義だ。だから私は前に進まなければならない。彼女をここに置いていかねばならない。

「なのに…、なのに如何して…ッ!」

気を失ったままの彼女を抱きしめる。いつもなら控えめに腕を回してくれるのに腕はだらりと垂れたままだ。全部、私がやったことだ。彼と違い温もりがあることが唯一私を安心させてくれるだけだった。


「そうか…当たり前か…」


私は彼女を愛していたのだから。


気絶させる前に呟いた言葉は届いたのだろうか。届いたとしても、今から全てを忘れてしまうのだから意味などないか。

「私の周りが君に危害を与えるものでは無くなり、嫌、そんなときは未来永劫訪れないか。では私が君を一切の危険から守れるようになったとき必ず此処から救い出そう。

そのとき君は私のことを覚えていないだろうね。私が今からそうするからだ。だがそんなことは大した問題では無い。何回忘れたって思い出すって、君は云っただろう?何より私が一日分の記憶たりとも忘れない」

彼女を抱え直し、頬を撫でながら云う。

例えこの出会いが誰かに仕組まれたものであったとしてもそれを運命と受け止めよう。私となまえが互いに惹かれあったのは自らの心によるものだと胸を張って云える。

一旦彼女を椅子に座らせ、机の上に置いてある私物を手に取る。目が覚めたときに無いと彼女が混乱するであろうものを手に取っていく。携帯電話、財布と取った後に手帳を取ろうとして、うっかり滑らせて落としてしまった。

手帳からひらりと小さな長方形の紙が落ちた。それを拾いあげると抑えていた感情がぶわりと胸の奥から湧き上がってきた。

「そういえば私はこの花は君にぴったりだと云ったね。だがそれは間違いだったようだ。この花は私にこそ相応しいじゃないか」


どんなに自分を納得させようとしても、感情は云うことを聞いてくれないのだと初めて知った。全く矛盾していると自嘲する。私は今から真逆のことを自らが決めて行うのだ。然し、私の行いが赦され、願わくば、



可憐な淡い水色の花にそっと唇を落とす。ぽたりと水滴が薄鳶色の栞の上に落ちた。




「…私を、忘れないでくれ」



***


マフィア本拠地、その最上階にそびえる執務室の扉が三回鳴った。

「這入りなさい」

そこには一面窓の前の椅子に腰掛けて街を眺めているこの組織の長が居た。

「首領。みょうじなまえを発見しました」

「ほう、てっきり太宰君が一緒に連れて行ってしまったかと思ったが。何処に居た?」

「幹部用のセーフハウスの一つに。薬で眠らされているようで目覚めた様子はありません」

「灯台下暗しってやつか。そんなところに置いていくとは思わなかったね。まあ安全性は極めて高いか」

彼は紅茶を一口飲み部下の方へ目を向けた。

「直轄の病院へ。四日も眠っているんだ。慎重に扱いなさい」

「はっ」

男は頭を下げて執務室を出て行った。

一人になった空間で彼は頬杖をつき、机を挟んで向かいにある椅子に目をやった。

「最近エリスちゃんは昼下がりはお昼寝をしてしまうんだ。一人で飲む紅茶ほど香りが死ぬものはない。早くあの憩いの時間が戻ってきて欲しいものだ」

意味も無くスプーンでカップの中をかき混ぜ、ぴたりとそれを止めると椅子にもたれ掛かり大きく溜息を吐いた。


「セーフハウス、か。全く怖いねぇ太宰君。君って男は」


上手く乗り切らなかったスプーンがソーサーから滑り、狭い丸机からも落ちていく。


硬い床にスプーンが落ち、執務室の静寂を切り裂くように高い金属の音が鳴り響いた。
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