夕凪のようなひと
『狙撃された。安吾の部屋だ。今狙撃手を追っている。古書通りの向かいにある
歩きながら先程の織田作からの電話の内容を反芻した。敵の逃げ道となり得る箇所に部下を配置し、自らは彼が狙撃手を追い詰めるであろう路地へ向かう。
安吾の部屋が狙撃されたということは敵は安吾を消すつもりであったか、我々が安吾の調査に来ることを予想していたということだ。なんにせよ織田作でなければ狙撃の回避はほぼ出来なかったであろう。遠距離からの狙撃は殺意がスコープ越しであるため気づきにくい。
銃声の音がすぐ傍の脇道から聞こえてきた。部下を率いて急いで角を曲がると織田作が前後を最近よく見る放浪者のような服を着た男に挟まれていた。
「織田作!屈め!」
そう叫ぶのを合図に閃光手榴弾が狭い路地に投げられる。耳を塞ぎ目を閉じてそれを回避し、後ろに控えた部隊に合図を出すとその場は銃弾の嵐となった。生け捕りにしようと試みることすら無駄な連中である。
銃弾が止み連中が地に付したのを確認してから伏せていた織田作に手を差し伸べた。
「君は全く困った男だなあ織田作。君がその気になれば、こいつらなんかひと呼吸のあいだに殺せるだろうに」
殺さずのマフィア。この手の皮の厚い男は、マフィアの中でも屈指の腕を持っているというのに命を狙ってきた相手でさえ殺さない男。彼ほどこの街の暗部に適していて、かつ似合わない人を私は知らない。
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「この男たちは何者だ?」
織田作の質問に先程捕虜から引き出せた唯一の情報を口に出す。
「ミミック」
「ミミック?」
「まだ善く判っていないけど、どうやら欧州の犯罪組織らしい。判っているのはそいつらがなぜか日本に来た事と、ポートマフィアと衝突を起こしている事だ」
ただ起こった事実からしか得られない情報がもどかしい。欧州から態々来るにも目的が掲げられていることであろうが、残念ながら我々マフィアが欧州組織相手に怨みを買う案件など有りすぎて、具体的な組織名に見当もつかない。
「ま、詳しい事は調査中だよ。調査班とは別になまえにも調べて貰ってる。あと数刻したら資料課に行ってみるといい。でも安吾の部屋に狙撃銃を向けていたことから何か判るかもしれないね」
「この金庫を取り戻すためだ」
そう云って彼は私に白い金庫を見せた。鍵が無いというから足元に転がっていたピンを拾い鍵穴を弄る。一秒もしない内に金属がかみ合う音がした。金庫のふたを開くとそこには、
「何故だ」
織田作の声と私の心の声が重なった。安吾がこの銃を持っている理屈が判らないということではない。安吾が敵から奪った可能性、敵が安吾を嵌めようとしている可能性だってある。そう、安吾がマフィアの諜報員として動いた結果手に入れた可能性だっていくらでもあるのだ。
然し。
然し昨日彼は私たちに嘘を吐いた。態々偽装工作までして知られたくない事実があったのだ。
いかなる仮説を立てても嫌な気配が消えてなくならない。行方不明になる直前に安吾は、何をしていたのだ。
憶測は何も生まない。そのことは判っているのだが、悪夢のように形がつかめない何かが背後からじわりじわりと迫ってくる、そんな嫌な予感がした。
***
私は実をいうとこれまで今対峙している扉を開けたことがない。そのため会いに行けと云われて来たはいいが此処であっているか確信はない。マフィアの最下級構成員の中でも、更に地下深くにある収監所に行くことは多くあれど地下一階の資料室に訪れたことのある者はごく少数であろう。このマフィア本部の中で一番豪勢な作りである扉は云うまでもなく最上階の
両開きの右側の扉を開くとそこは何処までも続く整然とした本棚の森のようだった。天井も高く、灯りが切れたとき大変そうだな、とふと思った。
「こんにちは」
左側から凛とした声が聞こえた。入口のすぐ近くのカウンターに一人の女性がおり、ここに来た目的を思い出した。
「間違っていたらすみません。オダサクさん、ですか?」
「そうだ。なまえ………すまない、苗字を知らないことに気づいた」
「太宰さんは名前で呼びますからね。みょうじです。みょうじなまえ」
「俺は織田作之助だ。」
「成程。それで織田作さんなんですね」
彼女のことは一方的に話を太宰から聞いているからか初めて会ったような気がしない。彼女は手元のパソコンに目を落とした。
「頼まれた件について調べてはみたんですけど判らないことが多くて。過去にマフィアと関係があった欧州の組織を振るいましたが“
そう話す彼女の様子は、黙考してから自身の推理を話す太宰によく似ていた。太宰は元々多弁な男であるが、彼女は普段は余り喋らないが状況を確認しつつ語るため必然的に口数が多くなるのだろう。
「考えられるのは母国に
「それは調査対象が広すぎないか」
「はい。ですから候補は金融機関、渡航履歴が見当たらないことから航空会社、防犯カメラから消えることから警備会社、そして考えたくありませんが…当局。まだ時間がかかるので判り次第連絡します。せっかく来てくださったのにすみません」
「そうか判った。太宰には?」
「電話で伝えました。『ならネズミ捕りは金があるところか』とか云ってましたけど何するつもりなのか知ってますか?」
「いや、知らないな」
「あんまりやりすぎないように見ておいてください織田作さん…そうだ、携帯電話お持ちですか?」
今日みたいに
確か太宰の口から初めて彼女の話が出てきたときは、「自分の見えてる世界と違うものを見せてくれるのではないか」と云っていたような覚えがある。随分と高揚した様子で、勢い余ってマスターに消毒液を所望していたくらいだ。目の前の彼女は、成る程、話を聞いていてても解るが怜悧であることは明らかで私とは違うように世界を捉えているのだろう。
然し私は太宰の方がよっぽど底が知れないと、今でも思うのだ。割れて散った鏡の破片からそれの生産場所を特定することさえ出来そうな、僅かな
「死は生きることの延長線にあり、死を知ることで生を知るのだ」と、いつかあいつは云っていた。そんなあいつを少しでも変えたのが、目の前の彼女なのだろう。それは彼が云っていた通り、“違った世界が見えている”からというのもあるに違いない。だが私は、この二人のように頭が切れる訳ではないからかも知れないが、そんなに事は小難しくないのではないかと思うのだ。
あいつは人から愛されたことが恐らく無い。こういう話には理論よりも感情的に考える方が適しているということすら知らないのだから当たり前だ。彼女はただ慈愛を湛えている。太宰はなまえの優しさに救われたのであろう。彼が地獄の底から浅瀬くらいには上がってこれたのもきっと彼女が腕を引いたお陰だ。
彼女に自覚は無いだろう。だからこそ太宰は彼女と共に生きていくことを選べるのだ。
「なまえ」
「はい?」
パソコンと向き合っていた彼女がこちらを向く。その目は濁りの無い、奥底まで見える透明な湖のようだった。
「太宰を、宜しく頼む」
「急にどうしたんですか…織田作さん。私はそんな、大層なことはしていませんよ。こちらこそ太宰さんが無茶しないように見ていてほしいくらいです」
謙遜したように手と首を軽く振る彼女にふっと笑いが溢れた。しかし「でも、」と云うと彼女は眦を下げて、まるで綺麗な涙を流すように笑った。勿論泣いてなどいなかったがそう私には見えたのだ。
「私は太宰さんを扶けられるなら何だってしますよ」
その言葉に私はひとつ頷くと踵を返して資料室を出て行く。扉に手をかけると後ろから「織田作さん」という声が聞こえて動きを止めた。
「太宰さんのこと、お願いしますね」
「ああ、任せてくれ」
振り返らずに声だけで応える。今度こそ扉を開けて部屋を出て廊下を歩き出した。ばたんと重たい扉が閉まる音が静かな地下に響く。もう私はこの音を聞くことは無いのだろうなと直感的に思った。