秘事、かく示されず。
こんこんこん、と控えめに扉を叩く音が響いた。手元の教材に向けていた視線をそちらに向けると、引き戸から揺れた黒髪が覗いた。

「国木田先生いらっしゃい…ました」

静かな声は疑問詞まで続かず、俺の顔を見つけると安心したように和らいだ。曰く、「何度来ても緊張するし、先生が居なかったとき恥ずかしい」から堂々とこの教員準備室の扉を開けることは出来ないらしい。

「どうした、苗字」

一応用事を聞くが、何故彼女がここに来たかなど判りきっている。広げていた教材を閉じ、隣の同僚の椅子を引いた。

「わからないところ、あって」

俺以外の教員が居ないからか、緊張が解けたように教室に入ってくる。片腕に参考書とそれに挟んだペンを纏めて抱えている彼女は、もう片方の腕をさり気なく背中に隠していた。勿論、気づかない筈が無い。

「何かたくらみ事か?」

「え?たくらみ事?…ああ、そんなんじゃないですよ」

こいつは俺が迷惑そうな顔をするのが楽しいようで、何かにつけては生意気なことをしてくる。この新鶴谷学館は個人経営の私塾であるから学校行事のようなものは無いが、体育祭のときは学校で配られたというハチマキを俺に着けてくれと強請ったり、文化祭のときは変な仮装物を付けられていたようで、恥じるべきことに俺は暫くその存在に気づかなかったということもあった。
今度はなんだ、そんなことしている場合ではないだろう、と云いたい気持ちを抑えた。彼女の顔がいつもより沈んでいるように見えたからだ。

俺が引いた椅子に腰を掛けて参考書を開いてから、苗字は椅子を回してこちらを向いた。じっと、見つめるその表情は、至って真剣といったようで、受験本番が近いから不安を感じているのかのか、と勘繰った。

「わからない所があるっていうのも、本当なんですけど、先生に受け取ってほしいものがあって」

「その隠しているものか、変なものなら受け取らんぞ」

「もう、そういうとこ、先生の悪いところですよ」

くすくすと彼女は笑ったが、俺は何故笑われたのかが分からなかった。だがそれをあまり気にすることでもないのも知っていた。彼女はよく笑うのだ。

「はい」

そういって差し出されたのは一輪の白い花だった。てっきり勉強に関する何かだと思っていたから、予想外のものに数度瞬きをした。

「花…?」

「そう、お花。これ、マーガレットです」

俺が受け取るまで彼女はその花を差し出したままであるから、戸惑いの感じながら指先で摘まむ。俺が持ったら、折ってしまいそうだった。
彼女の顔を見ると、やはりいつもより沈んだ表情で、然し眦を下げて微笑んでいた。

「どうしたんだ、突然」

「その…貰ったんです、マーガレットは見頃が過ぎても花びらが散らなくて、額も落ちないから、受験のゲン担ぎに、って応援してくれて」

「だったらお前が持っていることに意味があるのだろう。何故俺に渡す」

「先生に持っていて欲しくて。だってずっと教えてもらってたから、願い叶いそうじゃん」

ふふ、と笑った彼女は、「いいから、あげるの!」と俺の腕を押した。こういうときは聞く耳を持たない、突拍子もないわがままな生徒であるということはこの一年と少し見てきた俺のこいつに対する印象だった。

「その論理の飛躍は減点対象になるぞ」

「そう証明問題なの!やっぱり数学無理ぃ」

「つべこべ云っている暇があれば」「手を動かせ、でしょ!動かしてみても判んないんです!」

俺は机の上を見まわしてから飾り気のない筆立てペンスタンドを引き寄せた。沢山は入っていない中身を全て机の上に出し、白いマーガレットを挿した。
その様子を黙って見ていた苗字は、騒がしいいつもの様子からは想像出来ないほどに、そう、ちょうどこの花のように純粋に微笑んだ。

「嬉しい。ありがと、先生」









懐かしい夢を見た。

身体に染みついた起床時間のせいで、目覚まし時計の音を聞くことはほとんど無くなった。起き上がり、枕元に置いておいた眼鏡をかけた。

あのあと、あの花は、苗字名前は、どうしただろうか。あの年の受験生を担当したあと、俺は私塾を辞め探偵社に入ったため、その後片付けのなかで有耶無耶になってしまったような気がする。ただ、記憶に残っている最後の日も、花びらは落ちていなかったのを覚えている。苗字は無事志望校に合格した。酷い顔で泣きながら私塾に飛び込んできたものだから、まさか、と心臓が縮み上がったが、そのあとに「ぐにぎだぜんぜいー!受かったよー!」と笑ったのだ。最後の最後まであいつには振り回されたものだ。

今は、どうしているであろうか。探偵社に入社して早三年。彼女も大学三年になったのだろう。

手を掛けていた生徒であったから、彼女自身の理想を求めて生きていてほしいと思うのは、短くも教師であったから仕方がないことだろう。

手帳を開く、今日の予定が書かれていた。完璧な理想。ほころびが生まれるとしたら、あの唐変木くらいだろう。懸念すべきは本日の依頼人が確か若い女性であったから、彼奴が心中だのなんだの騒ぎ立てないか、ということだろうか。

「善し」


俺の名は国木田独歩、市民の安寧を守る探偵社員である。今はもう数学教師ではない。





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