ガラリ、扉が開く音がする度身体が強張った。
在りもしない期待と、恐怖に。


彼は、来ない。

そもそも三年生はもう授業などないのだ。
なのに彼は暇を見つけては此処へとやって来ていた。他愛もない話をするために。
自分に会うためだけに。
学生でも同級生でもない自分には見ることの出来ない姿を、知りたいと口にすることすら許されない日常を教えてくれるために。

甘えていた。完全に。

彼の一つきりしかない瞳はあんなに雄弁だったのに。
信じ切ることも出来ず、さりとて拒みきることもせずに。


(酷い女だ―――)


そうして、言葉の上だけの拒絶で気を持たせ、ずるずると過ごさせて来たのだ。残酷な時間を。


(どうして―――)


何故、違う形で出会えなかったのか。
どうして年下の、彼にこんなに惹かれてしまったのか。
どうして―――諦めきれなかったのか―――





(ごめん…なさい―――…)





初めて見たとき、あまりに綺麗な髪色に


『綺麗ね、銀の波濤みたい―――』


そう素直に口をついて零れたあの日から、本当はずっと惹かれていた。

驚いた様に見上げてきた瞳はそれこそ海の色で、授業中だというのに思わず魅入られてしまった様に目が離せなくて。


暫くして、乱暴な風でいて実はとても優しい子だと知りつい目で追うようになり
見返す視線が今度は自分を追っているのに気付いたのは何時だったか。

何彼と用事を見つけては彼が美術室を訪ねて来るようになり、
いけないと知りつつも迎え入れる自身の心は浮き立つばかりで。

表面上は生徒に慕い寄られて嬉しい教師の顔。
しかしその実は。



自由な気風のこの学園。
実際、同じ校内で夫婦関係にある教師もいれば、許婚同士や、実はこっそり付き合っている教師と生徒もいるのだ。

ならば良いではないか。
でも、と名は思う。

学生時代と言う限られた狭い時間と空間で、教師と生徒と言う特殊な環境。

幻想を抱かないとどうして言い切れようか。

やがて彼は此処を巣立つ。
彼ほどの男だ。それこそ“外の世界”でだってどれ程愛され慕われるか。
それが、男だけであるはずもなく。

今までだってそうだった。
下級生同級生、他校生に告白されたと彼の友人や、慕い寄る子分達に囃されてるのを幾度となく聞いている。
己の様に、諦めばかりで大人になって来た女など、すぐに愛想を尽かされてしまうだろう。



夢―――
最初から教師になりたかった訳ではない。

“絵を描く人になりたいの”

長く見ていた夢は、しかし叶うとは思えず。
将来を見据えた時、あっさりと方向を変えた。
それでも好きなことは止められず、今でも時間を作っては描きためている夢の欠片達。

きらきらと―――

眩しいそれは、まるで―――…



(ああ…、そっか………)



諦めきれない。
捨てられるはずもない。
手を伸ばし、掴もうとすることに怯えた―――…




頬に、熱い雫が伝った。
叶わない、そう思い込んで抱きかかえて来た独りぼっちの想い。
叶わないかもしれないけれど、諦めきれない熱い想い。



(ありがとう、元親君……)


気づかせてくれて。



呟いて、名は動き始めた。

卒業式まではあと僅か。
でも、自身の人生はまだまだ始まったばかりなのだ。
やるべきこと、準備も、済ませなければならない事も沢山ある。


(ちゃんと見送ろう)


大切な想いをくれた彼の門出を。
切ないけれど、幸せだった時間をくれた彼を。


心が決まれば色んなものが見えてくる。
名の気持ちは穏やかだった。

凪いだ海の様に―――








:::::::::::::::::::::





無事に式が終わり、毎年の事であるにも関わらず涙腺の弱い名は涙で落ちた化粧を直しに、荷物の置いてある美術準備室へと戻っていた。

今日で最後と、二度と見ることのないであろう元親の姿を、ともすれば教師であることも忘れそうになりながら目に焼き付けた。

愛おしい銀の髪。長身に、頼りがいのありそうな背中。
正面から見つめる事は出来ないけれど、海の色の瞳を。


すん、と小さく鼻を鳴らしながら俯いて美術室への角を曲がった名の視界に飛び込んで来たのは―――



「ぇ…!?」


「……よぉ……」



泣きはらした目を信じられないとばかりに瞬かせた名を、ばりばりっと決まり悪そうに頭を掻いてから見据えて。


「…海、行かねェか…?」


「……っ…」



今日は言葉だけではなく。
そっと、差し出された掌と、思わずその顔を真意を探る様に交互に見て戸惑う名の手を、ついに堪え切れず掴んで引き寄せて。




「なぁ…、いいだろ?行こうぜ…」


抱き締められたことに気付いた次の瞬間には、名の唇は元親のそれに塞がれてしまっていた。







:::::::::::::::::::::





『お友達は、いいの?』と尋ねた名を腕の中から離さないまま、『今日は惚れた女と過ごすっつってきた』と、さらりと告げる元親に体温が上がる。

恥ずかしそうに元親の胸元に手をついて身を離そうとする名を更に強く抱き込んで。


「海、行こうぜ。単車が嫌なら電車でも構わねェからよ」

耳朶に頬に口づけられ…
慣れないバイクの後ろに座り、元親の腰にしがみついて震えながら―――
ようやく二年越しの愛しい男の望みを叶えてやったのだった。





春まだ早い海辺には物好きはいないらしく、元親と名の二人きりだった。

冷たい風から守る様に元親に抱き寄せられながら、まるで夢を見ている様に口づけを受ける。


肩を掴まれ見上げると、真剣な表情で見つめてくる元親と目が合う。


「アンタが好きだ。俺のものになってくれ」


口づけを受けとめ、抱き締められ、こんな場所までついて来たと言うのに…

あまりの誠実さに浮かべた微笑みは涙混じりに歪んでしまう。


「…ありがとう……」


ようやくそれだけ口にして、背伸びをして自ら口づけた。


瞠目し、しかしすぐに次の瞬間噛みつく様な激しさで名の口腔を蹂躙して来た男に応えながら
呼吸の隙間を縫って伝える。



「あなた、の…ものに、して…」



愛されて抱き締められて…
すべて捧げた名を労りながら、家まで送ると言う元親に、『けじめだから』と言い含めて。
送られた駅から、走り去る元親のバイクの後ろ姿を、名は見えなくなるまでじっと見つめていた。












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