「なぁ先生、海行かねぇか」 私が美術講師を勤める学園の三年生・長曾我部元親君は、そんな風に私を誘う。 自由な気風のこの学園はバイクでの通学も許可していて、長曾我部君はかなり大きなそれに跨り通っているらしい。 『バイクは怖いから』と、かわし続けてもうどれ位か。 昨年春から始まり今はもう冬だと言うのに、彼は一向に諦める気配がない。 『兄貴』と呼ばれ、下級生のみならず同級生や付近の他校生達にも慕われる彼。 得手不得手はあるものの頭も良く、何と言ってもその立派な体躯と不似合いな程整った容貌。 多少口は悪いかも知れないけれど、困っている人を放っては置けないその優しさは、知ってしまえば惹かれずにいられないものだった。 (…皆に言ってるの?) などと 教師と言う立場上訊ねることも憚られ。 臆病な自分に出来るのは、変わらず教師の仮面を張り付けた誤魔化しの、困った様な微笑みを見せる事だけだった。 (海――――――) 昔、母方の親戚を訪ねた時に見た瀬戸内海。 彼を見ていると何故かあの海を思い出す。 彼の出身が四国と聞いたせいかもしれないけれど、あのさざめく波濤―――銀色の。優しく包まれるあの海の広大さ、力強さを。 「チッ…、やっぱ車じゃねーとダメかよ…」 立てた髪をぐしゃぐしゃとその大きな手でかき上げて。 ぷいと拗ねた様な口元で横を向く。 それでも真っ直ぐで諦めない彼は、私には眩しすぎて。 誤魔化しても、目を逸らしても、両の掌で懸命に視界を覆っても 大人となるために捨て、仕舞い込んで来た私の中にかつて存在していた“夢”の欠片すらも暴かれてしまう程に。 でも、もうすぐそれも終わりを告げる。 次の春には彼はもう此処には居ないのだから。 「アニキ!」 「ほら、お迎えが来たよ」 「アイツ等…、ったく」 『空気読めよな』と呟きながらも、呼ばれるままに教室の入り口へと向かう元親君。 三年生で、しかもすでに進路も決まっている彼。 次に彼に会えるのは――― そこまで考えて失笑する。 目を反らした所で意味のない、あまりに正直な己の心。 そう。 本当はもうずっと――― この年下の、しかも教え子である彼に自分は。 どきり、心臓が小さく跳ねた。 前を向いていた元親が、不意に肩越しに此方を見たから。 視線に含まれた“熱”に感づかれてしまったのか―――しかし今更反らすのは却って不自然に思えて。 「…何…?どうかした?」 何時もの微笑みを貼り付けて何食わぬ顔で告げたつもりだった。 「―――」 『先行ってろ』 そう仲間達に伝えると、踵を返して。 その体格に見合った長い足では、この狭い教室内などほんの数歩で元居た場所まで戻れてしまう。 「…っ…」 「なぁ――」 「な、に…?」 いつもなら簡単なはずの“教師としての自分”の仮面がなかなか被れない。 年毎に何かを手放し、その代償に上手になってゆく大人の顔が。 すっ…と、元親君の掌が視界を掠める。 「っ!?」 頬に、暖かな感触――― 「ぁ……」 言わなければいけないはずの言葉が出て来ない。 冗談にして、離れてしまえばいいだけ―――この二年近く、ずっとそうして来た様に――― 「なんで、ンな…カオすんだよ?」 「!」 どんな顔してるかなんて、 どうしてなんて聞かないで欲しい。 片側だけ包まれた頬の温もり、まるで抱き締めるかの様な眼差し。 言葉よりともすれば雄弁な。 触れて、その指先で 唇で――― 「…そんな、可笑しな顔してた?」 ようやく意志の力でねじ伏せて、一歩後ろへと退がった。 “浅ましい顔” きっと、欲しくて堪らない そんな顔をしていた。 求めてはいけない相手に、もう少しで縋り付いてしまいそうな。 離れがたい“熱” でも、この手をとるべきのは私じゃないから。 相応しいのは私なんかじゃないはずだから。 中に浮いた掌をゆっくりと下ろし元親君は。 『そうかよ…』と、小さく… 彼に相応しくない頼り無げな呟きだけ残して――― 立ち去る足音。閉まった扉に、ようやく顔を上げる。 室温が一気に下がった様な気がするのも、自分の身体が小さく震えているのも 最後に見た彼の表情が、苛ついた様な、諦めた様な… 悲しみを、堪える様なものだったことも ………風景が滲むのも きっと、気のせいに違いないから。 その日を境に あれほど頻繁に美術室を訪ねて来ていた彼は、ぱたりと姿を現さなくなった。 ← → bookmark? |