海鳴りが聞こえる。
歩いて数分の所に海岸があるのだ。

今はゴールデンウイーク。
海岸にも家族連れや若い恋人同士らしい人影が見られた。

名がいる場所はそんな観光地から少し離れた民家の一隅―――親戚の持ち家だった。
今は誰も住む人もないその家は母方の祖母が最期を迎えた場所で、いずれ自分へ譲られるらしかった。

遠く離れた空と海の境目がきらきらと光っている。
銀色のそれを見る度、もう痛むはずのない下肢が疼くような気がする。


「気のせい、だけどね…」


卒業式の日、
元親と結ばれたはずのあの日、名はすでに辞表を出していた学園からも住んでいたアパートからも去り、携帯も変えてこの地へとやって来ていた。

恋が叶うなんて思いもしなかった。
失ったと思い込んでいた片想いを胸に、本当に大好きな絵を描くために、夢を叶えようと一から出直すつもりだったのだ。

抱き締められて…
幸せだと思った。

でも―――




「ごめん、ね…」



あのままでは違うと思ったのだ。
例え恋が叶っても、自分自身は?
いつまでも自信の持てない、芯の揺らいだ人間のままだ。
いつか、きっと後悔する。
あのまま元親の腕の中にしなだれかかるだけの自分にはきっと満足出来なくなる。
そんなのは嫌だったのだ。
元親が好きだからこそ、余計に―――


(さすがに、今回は許してくれないよね…)


いくら優しいあの男でも。

不器用な自分は、彼の腕の中で溺れてしまう。
あの、広い胸の海で。


『名―――』



愛しげに幾度も幾度も囁かれた名前。
こんなあやふやなままじゃ、あの優しさに甘やかされてダメになってしまう。



「ごめ…ん―――…っ…」



『好きだ』と囁かれ、『私も好き』と照れながら答えると、本当に嬉しそうに笑ってくれた元親。
側にいたかった。側にいたかった。ぐだぐだの下らない女になっても、あの暖かさの傍にいたかったけれど―――

あなたが気づかせてくれたものだから、諦めたくなかった。
何よりも、描かない自分なんて、もう自分ではないから。


「不器用で…ごめんなさい…っ…」


遠くに聞こえる海鳴りと、楽しげなさざめき、葉鳴りと木漏れ日の中、夢を選んだ自分を何時までもきっと苛むのは恋しい男の輝く面影―――











じゃり―――…









庭石を踏む音に顔を上げる。

此処は自分しか住んではいない。
しかし、すぐ近所にはどの程度血が繋がっているのかも分からない親戚や、世話焼きの隣人達がいて。

泣いてる顔など見せてしまえば、酷く心配される所か噂があっという間に広がってしまう。

田舎ならではのそれに怯えて、咄嗟に後ろを向いた。

何と言って話し掛けられるのか、どきどきしていた名の耳に飛び込んで来たのは―――有り得ない、聞こえるはずのない懐かしい声だった。













「なぁ、何で泣いてんだよ?」


瀬戸内の海鳴りが聞かせた幻聴だと、己の両手で耳を覆った。

じゃり――と、再び足音がして、眩しすぎるはずの陽光を影が遮る。

熱い手が、塞いだ名の両手を掴んで離させ、露わにされたそこへ再度有り得ない声が注がれた。



「名、何で泣いてんだよ…、泣きてェのは俺の方だぜ?」


「………っ…」


「なぁ…、顔見せてくれよ…」


厭々と、頑是ない幼子の如く首を俯いたまま振る名の頬に、いつかの様にその掌を添えて。


「な…んで…っ…」


「探したっつーの。…ってか、まぁ―――…


俺にはヒントがあったからな」


「…?」


ぽろぽろ零れ落ちる愛しい女の眦に口づけを落とし、にやりと微笑う元親。

ハッとして、自分がどうして元親の側を離れたのか思い出した名はそんな行為を拒まなければと抗った。
しかし。



「無駄だって。俺からは逃げらんねェよ」


ククク…と笑う元親に、ささやかな抵抗も封じ込められ抱き込まれてしまう。


「駄目、なの…っ…」


『ごめんなさい』『でも側には居られない』
何度もそう繰り返す名の背中を愛おしげに宥める様に軽く叩きながら
元親が打ち明けた“ヒント”とは、名の驚くべきものだった。



「この家の近所に病弱なガキがいたの、覚えてねェか?」

「ぇ…」

「ちっせぇガキで、しかもめそめそよく泣く、よ」


「どうして…元親君が…」


覚えていた。確かに。
幼い頃、祖母の家へ来た自分が遊べる相手はおらず、仕方なく近所を落書き帳片手に歩いていた。
そんな時、出逢ったのだ。彼と―――…

病弱なその子は、親戚の家に預けられているのだと言った。
身体が弱いため家族と離れて独りなのだと。
華奢な身体に銀色の髪
名前は―――…


「“ちーちゃん”…」

「それは俺だ」

「!?う…そ…」

茫然としている名の身体をゆっくりと離し、悪戯っぽく覗き込んだ。



「めそめそ泣いてたガキに、『綺麗な髪…波のきらきらみたい…』、そう言ってその女の子は“ちーちゃん”の友達になってくれた。
毎日遊びに来てくれたよな」


涙で張り付いた前髪を優しく梳きながら。
愛おしげに、本当に愛おしそうに元親は名の瞳を覗き込む。


「婆ちゃんが死んじまって、もう来れなくなるって…そん時気付いたんだよ」

「な、に――…」





「お前ェが、好きだって―――」






そのまま深く口づけられ…
抱き上げられて、気付いた時には部屋の中、名のベッドの上だった。

視界を覆うのは元親と背景に天井、背中に感じる柔らかさと―――…


「!…っん…」



再び唇を塞がれ、全身に触れられる。
息の上がった名の呼吸の隙間を縫って元親は告げた。


「俺の初恋ってヤツだ。お前は……名……」




『逃げられると思うなよ』




甘い束縛の言葉に蕩かされながら、愛しい男に支配される。

幸福過ぎる想いの鎖―――



『勝手に消えた罰だ』と散々鳴かされてから、元親の腕に閉じ込められたままその理由を告げさせられて。


「ンじゃあ…、俺が名の邪魔しなきゃ良いんだよな?」

事も無げに元親は告げた。


「邪魔って言うんじゃ…」


「休みにゃ会いに来る」

「え、」

「メール……電話も駄目か?」

「えっと、…?」



「待ってるからよ」

「!」



「高校で会えて…、もう絶対ェに逃がさねぇって、離すもんかって決めたんだ」

「元親…」


「お前ェは、俺のモンだよな?」



『あん時の言葉は嘘じゃねェよな?』

そんな風に。
繰り返し口づけられながら強請られて…

まだ、自分に自信なんて持てないけれど、
遠距離恋愛なんて高度な真似が自分の様な不器用な人間に可能なのか解らないけれど



「俺のモンだ…」



束縛の言葉を模した求愛に、確かに己の心は応えていて。



その逞しい首に腕を回して、しがみついた。


「うん…、元親の…ものだよ…」




一途な彼に不器用な自分。
先は見えないけれど

どんな人生だって先など見えない航海ならば、ちょっと苦労しそうでも誰より愛しいあなたと共に



「名―――…」




(初恋って実らないものらしいけど…)

どうか それでも







終わらない恋にな








そう願って―――…










101219



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