先輩の情事
今日は、朝っぱらからあたしが入ってる図書委員会の会議の日。先生たちも使ってる会議室を借りてる。そんなみんなで会議するようなことはないんだけど、とりあえず今後入荷する本とか、なかなか返却しない生徒のチェックとか、逆にたくさん本を借りる生徒ランキングとかの、情報整理をした。
ちなみに去年から借りっぱなしのブラックリストには、あのテニス部の切原くんがいて、逆によく借りる生徒ランキングには、同じくテニス部の柳先輩がいた。テニス部にもいろいろいるのね。
会議はそんなに長引かず。朝のHRまで時間もあるから、テニスコートにでも行こうかなって思った。この会議室からは少しだけテニスコートが見える。きっとさとみもいるだろうし、もしさとみが仁王先輩と話してても、あたしは一人でも丸井先輩に話しかけに行くんだ。
こないだの件で、丸井先輩に対しては恥ずかしさもあるけど、より一層大好きになった。ただかっこいいなぁと、明るくて素敵な先輩だなぁと思ってファンだったけど。それだけじゃなくなったから。
あのあと、あの借りたタオルとともに、自分で頑張って作ったクッキーも渡した。丸井先輩は、サンキューって笑ってくれた。
いつもは笑った横顔を見るばかりだったけど。それはあたしだけに向けられた笑顔。
どんどん、好きになってる。
あたしがボケっとテニスコートを見てると、すでに他の図書委員はみんな引き上げていった。…戸締りをあたしに押し付けて。
いけないいけない、あたしもテニスコートに向かわなきゃ、と思ったとき。
その一人になった会議室は静か過ぎたからだろうか。なんか、どこからか話し声のようなものが聞こえてきた。
全然声がくぐもってて、内容はよくわからない。でも、少なくとも二人分、しかも男女の声のようだった。
いいじゃろ、とか。あたしはどっちでもいいけど、とか。そんな声。
……じゃろ?あれっと思って、こんな朝早くからまさか、なんて。もうここの鍵閉めますよ、なんて思って。
その会議室の隣、会議準備室を、開けてしまった。
「…んっ」
「……っ」
あたしは目を疑った。これは果たして現実か、ドラマの撮影現場か。
そこには、あたしの目の前では、男女二人が、
なんとまあ熱烈にキスしていたからである。男は女の制服の中に手も入れているような。
そしてその男のほう。予想通りなのか予想ガイなのか。
銀髪の彼と、目が合った。
「…あ」
その熱烈なキスを止め、二人は一斉にこっちを見た。
あたしはもしかしたら、固まってる以外にも顔が真っ赤だったかもしれない。だって、人様のキス現場なんて普通見ないよ。テレビドラマじゃあるまいし。しかも男はほとんど毎日見る、というか見にいってる先輩である。
おまけに女のほう。こちらも知ってる。
同じクラスの、綾瀬さんだった。
「…えーっと、お前さん、図書委員だったんか?」
凝視しているあたし、というか固まって動けないあたしを見て、若干笑いを含みつつ銀髪男、つまりは仁王先輩は問いかけた。
先輩なんだから。しかもあたしの友達の憧れの人なんだから。返事しなくちゃ。
…そう思っても、なかなか声に出ない。
「仁王先輩、知り合いなの?北川さんと」
「まぁな。…北川さんって言うんか。ちゅうか綾瀬こそ友達か?」
「同じクラス」
「へぇ。そりゃ気まずいのう」
とは言いつつ、全然気まずそうではないではないか先輩よ。綾瀬さんも、ただ一緒にいただけよふうな涼しい顔してる。特に外見のいいこの二人は、その見た目だけじゃなく中身もお似合いだと、薄っすら思ってしまうほど。
「…お、お邪魔しました!」
これで仁王先輩から走って逃げるのは二度目。一度目はあたしの不注意というか失礼極まりない行動だったけど、今回ばかりは仕方ない。
えらいもの見てしまったえらいもの見てしまったえらいもの見てしまったぁぁ…!
あたしの頭の中はそれでいっぱい。
それでも特に行くアテもなく、予定通りテニスコートに行ってしまったのだけは、あたしのせいかもしれない。
「どーしたの、ぼーっとして」
コートに着いてさとみと合流したものの、まさか先ほどの事件を報告するわけにもいかず。
かと言って、さっきのことが情景が頭から離れず、大好きな丸井先輩の素晴らしい妙技も、目に映っては消えていった。
「いや、何でもない!」
「そお?…ていうか、今日先輩休みなのかなー。もうすぐ朝練終わりそうなのに」
「えっ?せ、先輩って…」
「仁王先輩。ずっといないんだよね今日」
「あー…、いや、休み…ではないんではないかもしれないかもかなー…」
「会ったの?仁王先輩に?」
「いや!会ってない!仁王先輩なんか会ってもいない!」
「なんかって、失礼な。…また放課後出直しかなー」
ごめん…ごめんなさい…!
まったくもって、あれはあたしは関係ないわけだけど…!
だからと言って、さとみにバラすなんて、そんなこともできない…。
いや、むしろ言ったほうがいいの?綾瀬さんと付き合ってるみたいだよって。そしたら仁王先輩のこと諦める?
いやいやでも、なんて言うのよ。まさかキスしてたなんて言えないし。そもそもあの二人付き合ってるの?キスしてたらそうなのかもしれないけど…そんな噂聞いたことないし。お互い目立ちすぎな仁王先輩と綾瀬さんならすぐ知れ渡るはずだし。
「あ、結衣」
「へ?」
「あたし、あっち行ってるね〜」
ね〜(はぁと、みたいな声で、さとみは言葉通り離れた。いろいろ考えてただけあって、言われた通りほんとにぼーっとしてたあたし。
でもすぐに、そのさとみの行動の意味がわかった。
丸井先輩が、コートチェンジだかで、あたしの目の前に移動してきたんだ。
「…ま、丸井先輩」
「ん?…おう」
「おはようございます!」
「おはよ。今日も来てたんだな」
「はい!が、頑張ってください!」
「おう。…あー、あと」
普段はふざけたりするらしいけど、ゲーム中はいつも真剣。だからこんなあたしなんかと無駄話してる暇はない。というか、その真剣さにも惚れ惚れしてしまうぐらいだけど。
「クッキー、うまかったぜ」
「…えっ」
「また食いたい」
これは、照れ笑いっていうんだろうか。いつも明るい笑顔の横顔を見てきて。ついこないだは、その明るい笑顔を真っ正面から見させてもらったばかり。
それとは違う、ちょっと気恥ずかしそうな、それもまた素敵な笑顔を丸井先輩は見せてくれた。
「…あ、あ、ありがとうございます!」
「いや、礼言いたいのは俺だって」
「いやいや!うれしいんです!」
「ははっ、そーか。サンキューな」
「また、作ってきます…!」
「おう、シクヨロ!」
そう言ってまた、あの明るい笑顔が咲いた。
結衣、生まれてから最高に幸せな事件、早くも更新しました。丸井先輩にまた、クッキーを作るんだ!
仁王先輩の事件は、…心にとどめておこう。
とはいえ、吐き出さずに抱えているのは精神上とても辛い。さとみの顔を見るのも辛かった。…綾瀬さんは、朝早くいたくせに早退したんだろうか、教室には現れなかった。
昼休み。辛いと思っていたせいか、ほんとに具合が悪くなってきた気がして。さとみには保健室に行くっていいつつ、あたしはあの場所へ向かった。
こないだ、子猫を見つけたあの場所。あのときとまったく変わりもなく、チャコはあの横になったダンボールの中にいた。また牛乳も置かれてた。
「チャコ、元気?」
「にゃー」
「今日ね、丸井先輩とまたお話ししてね、クッキーおいしかったって、言ってくれたんだよ」
こんな猫に話しかけるほどあたしは寂しいわけでもないし、通じるなんて信じてるわけでもない。
でもなんか、やっぱり今朝のことが衝撃的過ぎて。
丸井先輩と仁王先輩は同じテニス部。しかも同じクラス。一緒にいるのを何度も見てる。
あたしは心の中でふと、これがもし丸井先輩だったら、と思ってしまったんだ。
たった一学年違うだけだけど、その差は実際の年月より重くて。
丸井先輩も仁王先輩のように、誰かとあんなことやこんなことしてたりして、なんて。
それぐらい大人に見えた、というか、あたしがまだ入れそうもない世界に見えた。
と、この猫を見ててふと、綾瀬さんの顔を思い出した。いや、顔が似てるわけではないけど。なんとなく雰囲気が、綾瀬さんの雰囲気は、猫に似てる気がする……。
「そこで何をしている!」
突然背後から聞こえた怒鳴り声に、あたしは息が止まりそうだった。
そしてその声は、振り向かなくてもあたしですらよく耳にする声だと気づいた。
テニス部元副部長の、真田先輩…!
やばい見つかった…!もしかしたら先生よりまずい相手かもしれない。こんなところで猫を飼ってたとバレるなんて…いや、あたしが飼い始めたわけじゃないけど!
「ご、ごめんなさい…!」
「ははっ、ビックリしたじゃろ?」
「ははい!とてもビックリ………じゃ、ろ…?」
怖くて顔も見れず、頭を下げながら謝ったものの、今度はその変な方言にビックリ、顔を上げた。
今朝見た先輩、仁王先輩だった。
「に、仁王先輩…!?え、今の声…?」
「おう、似とるじゃろ。真田のモノマネ」
ははっと笑った仁王先輩は、驚き過ぎてまた固まってるあたしの横を通って、ダンボールの中を覗き込んだ。
そしてポケットからビニール袋を出すと、中から何か、マグロフレークみたいなものを出して中にいる猫に与えた。
「…え、それ」
「ん?…よしよし、これは食うんじゃな」
「仁王先輩の猫ですか…?」
「いや、なんか先週ぐらいにここで見つけた」
とりあえず雨除けにダンボールに入れて牛乳やったけど全然飲まんし、今日はエサ持ってきたんじゃと、仁王先輩は言った。
「ここなら見つからんと思ったんじゃけど」
「あ、こないだ散歩してたら、偶然…」
「ふーん。…あ、お前さんも今度エサ何か持ってきてくれんか?」
仁王先輩は猫が好きなんだろうか。チャコを優しく撫でて、その気持ち良さそうなチャコと同じくらい柔らかい表情をしてる。
「エサ、ですか?」
「ああ。なんか子猫でも食えそうなやつ。牛乳は飲まんし、このままじゃ弱っちまうじゃろ」
「…わ、わかりました」
「それと」
仁王先輩は立ち上がり、いまだ体が自由に動かないあたしのすぐそば、真っ正面にきた。
「このことは、俺とお前さんの秘密な」
「…は、はい!」
「今朝のことも」
さっきまでの柔らかい顔から一変。
とても意地悪そうな、さとみが優しいよねって言ってた仁王先輩のよく見る顔とは全然違って。
あたしを脅すような。そんなお顔…!
「そんな怯えなさんな。2年C組吹奏楽部の北川結衣さん?」
綾瀬さんからですかねあたしの個人情報漏れたの。
「じゃあまた今度、ちゅうか明日の昼休み、エサ持ってここ集合な」
はいともいいえとも言えず。
いまだ固まったあたしを笑ったのか、ニヤッとした仁王先輩は、去って行った。
いやね、別にあたしはそんな気はないけど、普通、秘密を知ってしまったほうが脅したり弱味チラつかせたりってなるんじゃないの?
なのになぜかあたしは、仁王先輩に弱味を握られてしまったかのような感覚に陥っていった。恐ろしい先輩だ。
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