少年の知らない世界の断片
部屋を出たところで白廉に呼び止められた。「なあにー?」
振り返ると白廉の手がこっちに伸ばされてきてた。びっくりしてちょっと後ずさる。それに白廉も反応して手を引っ込めた。
「いやな、髪が乱れているぞ。」
「うっそ!」
慌てて頭に手を当てる。
「ああ。簪が落ちかけている。……見慣れない簪だな。どうした、それ。」
「え、ああ簪は昨日誰かさんにもらったんだけど…」
「誰に。」
「いや名前は忘れちゃったんだけど…。」
だって白廉以外あんま興味無いし。っていうか、
「何今日の白廉質問攻めだね。なにヤキモチ?」
「簪、直してやろうか。」
あ、無視された。
んー、魅力的なお誘いではあるけど……。
「いいや。なみ1回お部屋戻るよ。朝急いで着替えてからそのまんまで、ちょっとぐちゃっとしてるから。」
応接間から創始様のお部屋は結構近い。けどなみの部屋は、離れっていうか別の建物にあって遠い。ちょっと急いでいかないと。
「先に行ってて!なみ急ぐ!」
「おい待て!弭間殿、なみについてやってくれ。」
白廉が心配してくれたので、弥鷹さんと一緒になみの部屋に向かった。
「……兄上は、今回の件をどうお考えですか?」
なみに残された私と白廉が創始様の昼の御座へ向かい始め、少しした頃、弟が私に話しかけた。
「どう、とは?」
前を歩いていた私は立ち止まり、後ろから来る白廉を待った。
「怪盗ハーチェスは、私を本当に盗むつもりなのでしょうか。」
白廉は何かを考えているのか、とてもゆっくりと歩いている。
「…さてな。だが犯行予告が来た以上、警戒するしかあるまいて。」
もちろん、悪戯の可能性も無いことはないが、中庭から矢文を打つなどという手の込んだ悪戯が果たしてあるのか、と考えて王族を呼んだのだ。
「斯く言うお前はどうだ。そう言うからにはなにか考えがあるのではないかい?」
白廉が私に追いついたので、私も合わせてゆっくりと歩き出す。
白廉は右斜めしたに俯いている。頭が忙しなく動いている時の、この子の癖だ。
「日本にいた頃、養ってくれた者の強い勧めである小説を読まされました。」
唐突に、白廉はそう話を始めた。
「その本は怪盗を主人公としたものがたりでした。そいつは様々な技術を持っており、特に変装を得意としておりました。そいつは、そういった変装技術などの様々な方法を使い、厳重な警備を掻い潜り、モノを盗み出していました。」
「だが、それは所詮小説の話だろう?現実がそれほどまで完璧な変装をできるとは思えんのだが。」
「私もそう思いました。いやそれどころか私は、そもそも怪盗それ自体がの存在自体を疑っていました。こんな事をできる輩がいるはずがない、と。」
「いや、しかし…」
「そう、しかしどうやら怪盗は実在するらしい。」
話すうちに気づけば白廉の顔は上げられていた。伏せられていた目も上げ、何かを見据えるようだった。
「存在しない者から矢文が放たれるはずがない。ということは、名乗るものが少なくとも存在はする。自分の考えていたことが覆されたのです。」
足取りも、先ほどの気もそぞろなものではなく、いつしかしっかりとしたものに変わっていた。
「ならば、それら全てを覆してみなければ、これ以降考えることはできない。いつまでも自分の考えにしがみつくわけには行きません。考えを変えなければ。」
ここは既に、怪盗を主題とした物語の中だと。
「…ならば今回の怪盗も、完璧な変装をし、ここに忍び込み、お前を盗み出すことができる、というのか?」
「はい、不本意ながら。」
苦々しそうな言葉。しかし意外にも弟の顔はそこまで険しいわけでもなかった。
「もし件の怪盗が変装を得意とするのであれば、関係者全員を疑わなくてはならなくなるのだが…?」
「その通りです。ですから先に、私は鬼でない、と証明しておきます。」
どうやって、と疑問に思い弟の顔を見ると、その目は緋色に光っていた。
緋色。それは間違いなく、私の弟の色であり、創始の色。最高の能力を持つ者の、魂の色だ。
「…なるほどな。」
どんなに姿形を変えようとも、魂とその色までは変えられぬ、ということか。
「ありがとう。それと同じ方法で殆どの皇族は確認できるな。私も青を見せた方が良いか?」
警戒心の強い弟に尋ねる。すると、緋色から黒に戻った顔は意外にも拒否の意を見せた。
「いいえ、結構です。」
その表情からは絶対の自信が見て取れた。
「私はわかりますから。」
弟は、純血の私や父をもってしても到底及ばぬ力を持つ。確か以前、気配だけで私が近づくのがわかると言っていた。おそらく、魂を気配として感じ取っているのだろう。わかる、ということは、その気配を人ごとに判別できるのだろう。
…おや、ということは、
「お前、もしや…」
いいかけた私の口を閉じさせたのは、弟がその自らの口に人差し指をやるその仕草だった。その表情は、先程の自信に加え、悪戯な様子も窺えた。
わかっているのだ。我が弟は既に、誰が鬼かを知り、知った上で泳がせているのだ。
そんな危険なことはやめろ。そういいかけて、口を噤んだ。
私がそれを言う権利があるのか。守るべき者から安息を奪ったこの私が?
それに、この緋色は私よりも遥かに強いではないか。私に何が出来るというのだ?
しかし、いや、だが、せめて一言だけでも。
「…後生だから危ない真似はしないでくれ。」
いつの間にか私の足は止まっていた。
「ええ。出来る限りのことはします。」
そんな私を見て薄く笑い、緋の宮は創始様の昼の御座へ歩いて行った。
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