Passionflower 2






 掴んでいた手に、ぐっと力が籠ったのは俺のマンションを目の前にした時だった。
 それまで何も言わず引っ張られてきたクセに今更何だと思って振り返る。
 すると西は青白い顔をしてマンションの入り口を見つめていた。
「……どうした?」
 思わず問いかけると、西はビクッと肩を揺らしてから俺を見て、首を横に振った。
「別に。……ってか、でも何で俺がこんなトコ来ないといけないんだ」 
 離せよ、と言うのを俺は苦笑しながら見つめる。
「今更だろ。じゃあ何でついてきた?」
「ッ……!」
 睨みつけるようにこちらを見る西の様子に、漸くいつもの調子かと思う。
 生意気な目をして余裕を無くす様を見るのは、心地良い。
 ……と、そこまで考えて僅かな違和感に思考を止めた。
 何故俺が、「いつもの調子」など知っている?
 俺にはこいつと出会った記憶はない。一緒に居た記憶も、ない。
 それなのに、頭のどこかで感覚的に覚えていた。
 一度書きこまれたデータは、消去されても奥底に残されているのと同じように。
「……和泉?」
 訝しげに覗き込まれて、俺は瞬きをした。
 西が、掴まれた手首を上げてゆらゆらと揺らしている。
 離せと言ってから無言でいる俺を、不審に思ったらしい。
「お前、……俺の家に来た事あるか?」
「!」
 手首を離さないまま問いかけると、西は不意を突かれたのか驚いた様に目を見開いた。
 それで、確信する。
「あるんだな?」
「……」
 西は俯いて目を逸らした。
 それでも俺は追い詰めるように言葉を続ける。
「俺が、あの部屋から解放される前だよな? ……過去の俺は、何をしていた」
 俺の曖昧な記憶を重ねた結果、西を抱いたことだけ思い出していた。
 それでこんな事を聞かれるのは相当腹が立つはずで、恨みに思っていればそれを俺にぶつけてくるだろう。
 ……そう、思っていた。
「知らない」
 だが西は目を逸らし顔も背けたままでそう応えた。
「知らない? お前は俺と違って記憶を無くしてないだろ」
 その強情な態度に苛立った。
 舌打ちをして掴んでいた手首を捻り上げると、西が弾かれたように顔を上げる。
 その瞬間、視線が合った。
 僅かな怯えを含んだその瞳に、やはり既視感を覚える。
 俺は自分の記憶を覗き込むように顔を近づけた。
「こうやって、お前を見る度に経験した覚えのない感覚が甦る……」
 折れそうな程細い腕をまとめてシーツに押し付けた記憶、滴る寸前の涙を纏いつかせた睫毛、必死に声を堪えて噛み締めた唇の鬱血した赤色、最後の最後に漸く向けられる赦しを乞うような甘い視線、……断片的に浮かんでくるそれらは確実に自分の目から見た映像だ。
 記憶を消されていて覚えていなくとも、俺がしたこと以外に考えられない。
「お前はもっと鮮明に覚えてるだろ?」
「!!」
「だから俺の手に、……こんなに怯えてる」
 掴んだ手首を離すどころか引っ張って西の身体を抱き寄せると、その腰は驚くほど細かった。
 中学生というのはこんなに華奢なものか?
 自分の昔を思い出そうとしてみるが、家族は遺伝のせいか皆でかいし俺も昔から身長のある方だったから参考にはなりそうになかった。
「来いよ。……恨みごとでも聞いてやるから。俺は、……何があったのか知りたいんだ」
「ちょ、ッ和泉!!」 
 担ぎ上げるようにして西をエントランスへ連れて行く。
 スーツの力がなくとも西の身体は軽く、容易く持ち運びできそうだった。
「軽いな。何食って生きてんだ?」
「……」
「ん?」
「うるさい、……何度も同じ事聞くな」
 へぇ、前の俺も聞いたのか。じゃあ、こうやって運ぶのも初めてじゃないって事だな。
 道理でこの感触も、腕に馴染んでいるはずだ。
 まあ、そんな事口にしたらこいつは余計に機嫌悪くするんだろうが。
 俺は片眉を上げる仕草だけで応え、西を運ぶ事にだけ専念した。








「それで? 何が知りたいんだって?」
 部屋に通すと、西はすぐにソファに腰掛けた。
 手の拘束はもうしていない。玄関の方へは俺の横をすり抜けなければ行けないし、そうしてもすぐに捕まえられる自信があった。
 ソファは、この部屋で唯一の白色をしていた。
 ベッドや机はほぼ黒で、床は濃い色のフローリングだった。
 転校してから一人暮らしをしている俺の家は、極端に物が少ない。
 そんな日用品を揃える事よりも、気を取られていた事があったからだ。
 黒い玉の事とか、玄野の存在だとかに。
「昔の俺はどうだった?」
「ハ?……質問が曖昧過ぎて意味判んないんだけど。ミッションでの事なら、優秀だったんじゃないの。百点取って帰ったくらいだから」
 何を判り切ったことを、という表情をする西を無言で見詰めた。
 それから、堪え切れず吹き出して笑う。
「お前、慌てるとよく喋るな」
「!」
「聞かれたくない事がある、って顔に書いてある」
 ソファに近づくと、西は俺を避けるように端に寄った。
 開いたスペースへ腰を下ろす。二人分の重みで、ソファが揺れて僅かに軋んだ。
「なら、俺が覚えている事から話そうか」
 俺は何気ない仕草で片手を上げ、真横に座っている相手の顎を掴んだ。
 急に触れられて驚いたのか、瞬きをしながら見つめ返してくる。
「……まず、俺はお前を抱いた事がある」
「……、ッは?……」
 一瞬息を飲んでから、意味が判らないという顔を作る西の顎を、片手で引き寄せた。
 逃げられないように肩を掴んで、顔を近づける。
「これは確信してる。……この距離で会話をした記憶もある。こんなに顔近づけて話す事なんて、そうそうないだろ」
「ある、かも……知れない、だろ」
 既に話す吐息さえ触れそうな程の距離になっていた。
 目を逸らせないのか、硬直したように俺を見つめる西の瞳が、また記憶を揺さぶる。
「お前の手を掴んでも、身体を抱き上げても、その感触に酷く馴染んでいる気がする。そうやって、怯えた目で俺を見上げるお前の表情も何度も見た気がして、……」
「お、怯えてなんか、いない!」
 掠れた声で、西が叫んだ。
 俺の手を振り払おうと身体を捩って、後ろへと下がる。
「そうか? 十分震えているように見え……」
「うるさいッ! 黙れ! 黙れ! 言うなッ!」
 ソファの端に身体を縮めて、西が耳を塞いだ。
 叫ぶ声はもう悲鳴に近い。
 あまりの怯えように、こちらが驚く程だった。
 昔の俺は、一体どんなやり方でこいつを抱いたんだろう。
 確実に、同意の上ではなかったという事だけが判る。
「オイ、落ちつけ西……」
 昔の俺は相当酷い事をしたらしい。
 記憶を無くした今は想像もつかないが、自分の性格を考えるに、やりたい事を我慢するような気質ではない。
 こいつに対して抱きたいと思う程の魅力を感じていたのなら、強姦でもなんでもしただろう。
 だが、流石にこの様子を見れば罪悪感も湧く。
 俺は西を宥めようと手を伸ばした。
「触るなッ!」
 パチンッ、と高い音がして俺の手は払い除けられた。
 興奮した猫に引っかかれた位にしか思わなかったが、逆に西の方が俺を見て真っ青な顔をする。
 不審に思って顔を覗き込むと、目を瞑って身体を固くしていた。
 そっと触れて身体を引き寄せても、されるがままだ。
 猫、と思ったのがそう間違いでもないような気がして、そのまま西の華奢な身体を膝の上へと引っ張り上げた。
 これでさっきと同じ興奮状態に陥ったとしても押さえる事が出来る。
「暴れたと思ったら急に大人しいな」
 俺が呟くように言うと、西は目を閉じて俯いたまま俺の方を見なかった。
「……お前が暴れようが叩こうが、別に俺は何もしない。何だ、前の俺はそんな事くらいで腹を立てたか?」
「アンタは、充分短気だった。……声を立てればからかうクセに、堪えると可愛げがないって泣くまで酷くして、……」
 そこまで呟いてから、西はハッとしたように口を噤んだ。
「……オイ、止めるな。それで何だって?」
「……。俺が嫌だというと必ずその道具を使いたがった。この部屋に連れて来られる時は朝まで解放されないし、……次の日は昼まで動けない」
 淡々と話しながらも、西の身体が小刻みに震えているのが判った。
 こんな細い身体でよくそれだけ出来たなと思うが、……いや、過去の俺によくそれだけやれたなというのが正しいか。
「道具?」
「洗面所の下の棚の、水道管の裏に入ってる箱」
「何だそりゃ?」
「お前が記憶をなくす前に処分してなきゃ、まだある」
 西の言葉通り、箱はその場所にあった。
 雑誌が何冊か入りそうな大きさのそれを、半信半疑のまま開けてみる。
「……う、わ」
 思わず声を失う俺に、西は詰めていた息を少しだけ吐いた。
 まるで俺がそれを見て過去の全てを思い出すのを、恐れているかのように。
「これ、全部試したのか?」
 一つを摘まんでみると、奇妙な形をしたバイブだった。
 形状もグロテスクだが半透明でピンク色なのが余計に卑猥だ。
 こんなもの何処で買ったのか、過去の自分に問いかけてみたくなった。
 どうも俺は一つの事にハマると限度というのを忘れる傾向にあるらしい。
 箱いっぱいに詰まった玩具達は、毎日一つづつ集めたのだとしても相当な日数西を苦しめたのだろうと予想させる。
「……全部使ったのかどうかは、知らない」
 固い声で西が答えた。
 ここまできてまだ隠すのかと思って見遣ると、視線からそれが伝わったのか、焦ったように続けた。
「使ってるのなんか見えないんだ、仕方ないだろ……」
「見えない?」
 思わず聞き返した俺に、西は口ごもって目を逸らした。
「いつもベッドにうつ伏せにされて、た、……から」
 成る程。そう考えると、さっきガンツ部屋での行為の後、倒れている裸の西に色気を感じたのも判る。
 ああいう風にうつ伏せになった背中を、俺は見慣れていたわけだ。
「随分な扱いだな」
 思った事を素直に口にしたら、西は複雑そうな顔をして俺を見た。
 まあ、やった本人に言われたらそんな顔にもなるだろう。
「お前の一番嫌いだったやつは?」
「……は?」
「一番辛くて嫌だって思ったやつだよ」
 俺の言葉の意味をはかりかねたのか、西が訝しげな目を向けてきた。
 俺は箱をそちらへ押し遣って、もう一度問いかける。
「……それ」 
 西は警戒した様子のまま、一つのディルドを指差した。
 触るのも嫌なのか、示した指先が少し震えている。
「ふーん、コレか」
 手に取ると思ったよりも重量がある。
 複雑な形をしていて、そもそもデカイ。
 これを押しこんだら狭そうな西の身体なんて簡単にぶっ壊れるんじゃないかと思った。
「こんなモン本当に入ったのか?」
「お前がッ……入れたんだろ、無理矢理ッ!」
 嫌だって言ったのに、と怒りに掠れた声で西が叫ぶ。
 どうやら入ったのはマジらしい。
 つい過去の俺に対して感心してしまってから、そんな事に根気や熱意を向けなくてもな、とも思う。
 西は相当迷惑しただろう。
 まあまあ、と西を宥めながら俺はそれを黒いビニール袋に入れて、ゴミ箱へ投げ捨てた。
 ゴトンッと少し重たい音がする。
 呆気にとられた表情の西を見て、俺は再度箱を傾けた。
「この中で一番お前が好きだったのは?」
「はっ!?……あるわけないだろ」
「ないのか? 使って欲しいって俺にねだったものとか」
「あ、あるわけッ……」
 怒りなんだか羞恥なんだか判らないが、白い頬を薄赤く染めた西は、否定しようとして一瞬だけ箱に視線を落とした。
 それでまた、嘘に気がつく。
 どの言葉がこいつに引っかかったんだろうか。
 好きなものはない、は即言っていた。
 では、使えと言ったものが……あったのか?
「どれだ?」
 追求すると西は戸惑うように視線を彷徨わせた。
 それでも、さっき嫌だという物を捨てた事で安心してきているのか、箱の中に手を入れてそっと一つの道具を拾い上げる。
 それは金色をしたリングだった。
 輪が二重になっていて、中途半端な太さをしている。
 明らかに指輪でも腕輪でもないようだった。
「これ、もしかして」
「……イかせられるのが、一番嫌だったんだ」
 西はリングを俺の方へ差し出すと、小さく呟いた。
「どんな事されても、俺はこんなこと認めてないって言い張りたかったんだよ。だから感じたくなかったし、俺がイクたびにからかうアンタの言葉も嫌で仕方なかった」
 だからこれを、と西はリングを動かして輪を縮めて見せた。
「それって余計に辛くないか。……マゾ?」
「違う! イかされるのがとにかく嫌だったんだ! それにアンタは着けてくれって言えば邪魔にならない限り着けてくれた」
 そりゃあ、こんなに嫌だ嫌だと否定ばかりの西がそれだけは俺にねだるというんなら、やってやりたくもなるだろう。
 そこは何となく理解できた。
 いや、そもそもこいつを抱きたいという気持ちも、記憶を取り戻してはいないが判るようになってきた。
 西が怯える程の酷い行為を繰り返した、その理由も何となく理解している。
 要はこいつを限界まで追い詰めて、その中で行為をねだらせたかったんだろう。
 歪んでいる、と今の俺なら笑ってしまえるが、昔の俺には全く余裕がなかったようだ。
 そこまでこいつに深くハマり込んでいたって事か。
「……西」
「な、……何だよ」
「認めたらもう少し、楽なんじゃねえの」
「ハァ? 何を」
「ただの生理現象を、だな」
 金のリングを指に引っかけて俺は笑った。
 不審そうな顔をした西が俺の笑みの理由を身をもって知るのは、一瞬後のことだった。








2011/05/12

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