二人の秘密 二人が入ったのは生物準備室だった。宮田先生の本拠地じゃないか! 人目につかない場所を選んでまで先ほどの続きをしなければならない理由、そこまでの責任が牧野先生にあるとは俺にはどうしても思えなかった。何より先の言葉を訂正してもらいたい。もし訂正してもらえなくても、せめて牧野先生がしていることは間違っていないということだけは伝えたい。 ムカつくことを言ってくる宮田先生だって、牧野先生を心底憎んでいるはずはないと思う。本当に優しさの感情を持たない人間は誰に対しても同じはずだ、でも宮田先生はそうではない。牧野先生のしていることの意味も本当は分かっているはずなのだ。何らかの理由で今が上手くいっていなくとも、宮田先生のぶっきらぼうの中に本当の感情を持ち合わせていることを知っている。 そっと生物準備室のドアに耳を近付ける。しかしドア一枚を隔てただけなのに声はほとんど聞こえてこない。弱ったなぁ、生物室はどうせ開いていないだろうし、駄目元でノブに手をかけると意外なほどあっけなくドアは開いた。廊下に面するドアとは異なる素材なのだろう、準備室へと続くドアからは向こう側の声がはっきりと聞こえてきた。 「良いことをしたと思っているなら、ほとほとあなたには呆れますよ」 靴が床に擦れるギュッという音がした。 「優しい言葉をかけるだけが生徒のためになると思ってるんですか?」 ギシギシと椅子の軋む音が聞こえる。おそらく自分は専用の椅子に座り、牧野先生は廊下のドア越しにでも立たせているんだろう。密室で怒られ続けるなんて、ここは折檻部屋か。無言でプレッシャーに耐え続ける牧野先生の精神状態が心配になってきた。 「私は……当人の状況によっては優しくすることも…っ、必要だと思いますっ……」 「その結果がこれですか。なるほど、あなたの倫理の教えのなかではそうなのかもしれませんが、ここは社会性を学ぶ場でもあるんですよ。社会の先生がそんなことも分からないんですか。いいですか?必要なのはしつけ、です」 しつけ、と強調された瞬間、ガタッと何かに当たる音がして息をのんだ。このドアの向こうで何が起こってるんだ? 「そ、そんな……っ」 「何度も言わせないでください」 「ひっ……」 宮田先生の声と椅子の音だけが絶え間なく聞こえているのが逆に怖い。牧野先生からは時折怖がっているような声がするだけだ。自分としてはあの宮田先生と同じ空間で向かい合っているだけで喝采ものなのだが、そう悠長なことも言っていられない。もしかすると足を踏まれる以上のことが起こっているかもしれなかった。さすがに殴られてはいないだろうが、何かこう重い物を膝に乗せられるとか、こんな時に江戸時代の拷問を思い出してしまった。 「わ…私はっ……私は…っ」 牧野先生が泣きそうだ、ノブにかけた手が汗で湿ってきた。もう入っていいんじゃないか、もう止めるべきなんじゃないかと頭の中で声がする。 「もういいでしょう、これ以上話しても無意味です。そろそろ終わりにしましょう」 では、と椅子が軋む音が高く響いて、宮田先生が立ち上がった気配がした。駄目だ! 「先生!」 俺は勢いよくドアを開けた、つもりだったのだが、何と牧野先生はドアの正面に立っていて、力いっぱいに開けたドアが背中にぶつかってしまった。 「ひぃっ!」 突然の衝撃に驚いたのか牧野先生は悲鳴を上げてその場に座り込んでしまった。しまった、強く当てすぎたんだ。 「す、すみません!」 へたり込んでいる牧野先生に気をつけてドアの隙間から入り込み、急いで牧野先生の顔をうかがう。顔は赤いけどドアのせい…じゃないよな、多分。汗をかいているのか近づくと牧野先生のにおいがした。……何だか変態みたいな表現だけど。いや、これも宮田先生のせいだから俺は悪くない、冷や汗かかせるほど怒るなんて。 弱っている牧野先生を見ていると宮田先生への恐れが小さくなって、言ってやる!という気持ちが沸き上がってきた。 「須田か」 それなのに宮田先生はいつも通りのクールで、俺の顔を見て少しだけ意外そうな顔をした後は普段の無表情に戻った。 「なんだ、何か用か」 「何か用って、先生いま牧野先生のこといじめてたじゃん!」 「えっ」 声をあげたのは牧野先生だった。俺に見られたくなかったのかもしれない、ごめん先生、でも放っておけなかったんだ。 「牧野先生が優しくしてくれるから頑張れてるヤツもいるじゃないっすか、不登校だった人も牧野先生のおかげで来れるようになったって美耶子も言ってたし、そういうところもちゃんと評価するべきだと思います!」 宮田先生と牧野先生は呆気にとられたみたいで数秒間無言だったが、やがて合点がいったのか宮田先生が「お前、ずっと聞いてたのか」とたしなめるように言った。 ← → back |