02
男が目を覚ますと、そこは薄暗い室内だった。埃っぽいわけでも、荷物が乱雑に積まれているなどでもない。ただ純粋に明かりが点いていないだけで、生活感も漂っている普通の部屋だ。 身じろぐと、思った以上に動けない。未だに靄のかかる頭で状況を一つずつ確認していくと、腕は背中側で拘束され、右足には枷が嵌められていた。枷にはどうやら何か術が施されているらしく、本来の力が出ない。 その上、――恐らくではあるがあの祓い屋に掴まれたときに持って行かれたのだろう、それなら気を失った説明もつく――魔力が根こそぎ尽きてしまっていて、全身を倦怠感が覆っていた。 人間に捕まるなんて何十年ぶりだ、と、彼は久々すぎる屈辱感に、不機嫌窮まりない表情で足枷を睨みつけた。
ガチャリと戸が開く音に、男は顔を上げ、急に明るくなった視界に顔をしかめた。 「おや…起きていたんですか、悪魔さん。」 悪びれる様子など微塵も無くそう言って微笑む払い屋の青年を、男は鋭く睨みつけて口を開く。 「…外せ、コレ。」 低く不機嫌な声音は、表情と相まって、幼い子供が聞いたら泣き出しそうなほど威圧的だった。けれど青年は、ニコニコと笑うばかりで、それがまた男の苛立ちを増幅させる。 「…駄目ですよ、貴方のように力の強い悪魔を、野放しにしておくわけにはいきませんから。」 何を考えているのか全くと言って良いほどわからない青年の表情や態度に、男は盛大に舌打ちしてから唸るように言葉を紡ぐ。 「なら、いっそ殺せ! 生かしておいて何になる…!」 しかし青年は受け流すように息を吐き、ろくに動けない男の前にしゃがみ込んで、笑う。 「それも嫌です、理由は……そうですね、秘密です★」 「てっめ…!」 さらに喚こうとした男の口元に人差し指を翳し、青年は「そんなことより、」と前置きしてから、問い掛けた。 「…僕の名前、緑川護って言うんです。あなたのお名前は?」 急な話題の切り替えに一瞬ついて行けず、男は目を瞬かせる。そして理解した瞬間、また青年を睨めつけた。 「ふ、ざけるな誰が教えるかっ!」 噛み付くように叫びながら、唯一まともに動かせる尾で青年の眼を狙う。ヒュン、と空を裂く音と共にしなった黒は、しかしすんでのところで防がれてしまった。 「無駄ですよ、貴方いま、魔力も殆ど無いんですから……自覚は薄くても、体は相当鈍ってますよ?」 そう言って笑う青年に、男は悔しげに顔を歪めて尾を退こうとした、が。 「おっと、」 「ッ!」 ぱし、と尾を捕らえられて、男の肩が跳ねる。幸か不幸か、青年はその反応を見逃してはくれなかった。 「…もしかして…尻尾、弱いんですか?」 変わらない笑顔の中の瞳に、妖しい光がちらつく。殆ど本能的にそれを察知した男は顔を強張らせた。 「っ…触るな!」 焦った様子で叫ぶ男と、その心情を表すように手の内でもがく尾。それらを眺めながら、青年は笑みを深めた。 「…だって、撫でると震えて、もっと触って欲しそうですよ?」 言いながら彼は男の腰を引き寄せ、自分に寄り掛からせるようにする。抵抗すらままならない男は、ほんの一瞬、その眼に怯えを映し出した。
「あッ、く、っや、めろ…!」 尾を撫でられ、否応なしに背筋に這い上がる感覚に危機感を持ったのか、男は必死で青年の腕から逃れようと身をよじる。 「あまり暴れないでください、悪魔さん。」 「ッひぁ!? …っあ、や、嫌だ…ッ!」 少し強めに握られて思わず漏れた甘い声に、男は羞恥で頬を赤く染め、唇を噛み締める。…それが、青年の嗜虐心を助長するなどとは、想像すらできないでいた。 「話には聞いていましたが…悪魔って、本当に"そう"なんですね。」 くすくすと何処か馬鹿にするように笑いながら、青年は尾を弄る手を止めないまま、意味深にそう言って、また笑う。 「ぁ、ッ…な、にが、だっ…!」 気を抜けば漏れそうになる声を必死に堪えながら、男は青年を睨みつける。睨まれた方はと言えば、特に気にした様子もなく、むしろとても楽しげに笑いながら答えた。 「いえ、悪魔って本当に、…いやらしくてはしたないカラダなんですね、と。」 「ッ、な…っ!」 瞬時に耳まで赤くした男に、青年はまた笑い、そして少しだけ甘い声で囁く。 「…ねぇ、名前…教えてください、悪魔さん。」 そこらの町娘ならば簡単に騙せそうな笑顔で、腕の中でもがく悪魔に笑いかける青年。男は内心、コイツの方が悪魔らしい、と皮肉った。
「ッ、ひ、ァ…ッ!」 青年の指が、一際敏感な尾の先端を掠めた瞬間、強い快感に耐え切れず漏れた声は酷く甘く、自分の声だというのに男の聴覚を確実に犯していく。 いい加減思考すらままならなくなってきた男は、楽しそうに自分を見詰める瞳から逃れるように、青年の肩に額を押し付けた。 「…可愛いなぁ、」 ぽつりと小さく呟かれた言葉は男の耳に届かなかったらしく、彼は必死に黙り込んでいるままだった。
「…ねえ、悪魔さん、」 「ふ、っ…な、んだ…ッ、」 随分と大人しくなった男に、宥めるような穏やかな口調で、やめてほしいですか? と青年が問うと、途切れ途切れに、当たり前だ、と返ってきた。 「じゃぁ、名前教えてください、ね?」 促すように尾を撫で上げ、先端を弄ぶ。 「ア、うぁ、…っわ、かった、…言う、から、ぁッ…!」 男のその言葉を合図に、ようやく青年の手が止まる。すっかり息があがってしまった男は、一度深呼吸をしてから、心底悔しそうに口を開いた。 「……空稀、だ…っ。」 それを聞いた青年は、心底嬉しそうに柔らかく微笑んで、とても優しく男に口づける。 「ありがとうございます、…これからよろしくお願いしますね、空稀さん♪」 突然の行動に硬直する自分を余所にニコニコ笑顔でそう言った青年――緑川を見て、空稀は、心の底から嫌そうに顔を顰めた。
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