特別なことなどなにも無い

 月が綺麗だから、散歩に行こう。
 病み上がりで謹慎を余儀無くされていた譲は、部下であり主治医でもある男の足音が遠ざかるのを確認してから、そう言った。
 いくら夏が近くとも、まだ夜は冷える。自分の体温で主人を寒さから遠ざけることはできないし、ただでさえ病み上がりなのだからとスペードは初め反対した。すると譲は、あからさまに不満そうに眉を寄せ、けち、と呟く。そんな子供っぽい言動すら絵になるのは、整った見目だけでなく、欲目も多分に含まれているからだとは思っている。そこまで自覚していて、流されてはいけないと理性に囁かれながら、それでも結局、スペードは主人の我が儘に弱かった。
 少しくらい良いだろ、とじっと見詰める譲に、スペードは、無条件に頼られるよろこびを噛み殺して、あきれた風を装いながら「少しだけなら」と折れたのだった。
 そんなスペードの見栄すらすべてお見通しなのだろう、譲は満足そうに、「お前のそういうとこ、好きだよ」と微笑んだ。

 月や星を理由にした夜の散歩は、道を歩くよりも屋根を駆けることのほうがおおい。譲はその"散歩"をいたく気に入っているようで、最近の散歩の理由は専ら空に関することだ。
 いつも通り言われるままに民家の屋根を跳び歩き、彼が満足したら屋敷に戻る。帰ってきた屋根の屋根の上で、譲は月を見上げながら、ふと思い付いたように、火が見たいな、と言う。
 ぼぅ、と橙の光源を手のなかに生み出し、これで良いのだろうかとその横顔を伺う。視線だけがこちらに向いていて、動いてもいない心の臓が跳ねた気がした。

 ゆら、ゆら。
 火が揺れて影が揺れて、それが映り込んでいる瞳も揺らぐ。
 主人が散歩の理由にした月が降らせるひかりが、その白い肌を浮かび上がらせていて、まるでその白を舐めて染め上げるように、焔は揺らめく。
 自らの血から生まれた貪欲な焔を見て、うれしそうに目を細める主人は酷くうつくしかった。
 やっぱり、スペードは月が似合うな。形の良い唇から、ほどけるように甘い声が落ちる。おまえの、その、銀の髪も、白い肌も、燃える血も、月のしたで見るのが、俺は一等好きなんだ。
 少しだけ固まってから、我にかえって、それはこちらの台詞だと言うと、譲はぱちぱちとまばたきしてから、そうか、お互い様か、とわらった。そして、ゆったりと伸ばされた手が、腕が、長い後ろ髪を掻き分けるようにして首に回る。
 引き寄せられるままに少しだけ身を屈めれば、掠めるようにくちびるが重なった。





ただのバカップル。
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