すん、と鼻をすませる。
馴染みのある匂いが近付いてくるのを感じ、ミケは方向を転換した。
自室へ向かっていた足を止め、やってくる人物を待ち構える。
いつも通り、なにを考えているのやらまるで読めない無表情さでその人物は足を止めた。
思っていた通りの人物――ナナシだ。
立ち止まっていたのがミケだと分かると、怪訝そうに首が傾げられる。
「どうかしたか…?」
「104期の首席と揉めたという話を聞いた。本当か?」
「ああ…あれか」
この様子では、本当にあったらしい。
その話を初めて耳にした時は、まるで想像出来ない状況だったのだが。
ナナシは誰かと衝突するようなタイプではない。
揉める、という段階まで行くのはせいぜいリヴァイが相手な時くらいだった。
エルヴィンには面倒事を押し付ける事はあっても、突っ掛かるような事は絶対にしない。
そう言えばハンジと一緒にいる姿はよく見掛けるが、言い合っているような所は見た事がない。いつも一方的にハンジが騒いでナナシはそれを楽しげに聞いている、という印象だ。
ナナシはあっさりと頷くと、その瞳に苦笑を滲ませる。
「ただのタイミングの悪さだ。アッカーマンにも俺にも、確執は無い」
…アッカーマン。
あのナナシが、名前を覚えている。
それに、その暖かさを宿した瞳。
驚きを隠せずに見やれば、こちらの視線に気付いたナナシは僅かに半眼になった後、溜め息を吐き出した。
「みんなして驚く事か…?俺をなんだと思っているんだ」
「仕方ないだろう。イメージの問題だ」
「そうか…」
簡単に告げれば、どうやら諦めたようだった。
それ以上反論してこないところをみれば、少しは自覚があるのかもしれない。
聞きたかった事は聞けた。そろそろ自室に戻ろうか、と思ったところで、ナナシの方からも声を掛けられる。
「ミケ。一度聞いてみたかったんだが…」
少し、言い淀む。
純粋な好奇心を宿した声音だった。
意を決したように…そしてどこか恐れるように、続きが発せられる。
「初対面の時、リヴァイの事も…その…嗅いだのか…?」
「……ふっ」
何を聞かれるのかと思えば。
そんな事だった。
鼻で笑ってみせれば、ナナシの頬が引き釣る。
リヴァイ…ではなく、ナナシとの初対面の時を思い出す。
何事かを話し込んでいたナナシに無遠慮に背後から近づき、すんすん、と少しばかり下の位置にある首筋を嗅いでみたのだ。
すると思い切りビクつき、手のひらでうなじを押さえながら凄まじい速度で振り返ってきた。
あの時のナナシはドン引き、と言っていい表情をしていた。
…そんな初対面だったせいで、その後普通に話せるようになるまで長い時間を要する事になったのだが。
そう、あの時は今よりずっと分かりやすく、周囲に変化を見せていたのだ。
今では滅多に見られないその顔に満足して、ミケはそのまま立ち去る事にしたのだった。
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