書類


 ………あれ?お母さんの料理の匂い?

 ああ、よかった。やっぱりすぐに帰れたんだ。ここは自分の家で、リビングで。
 私はリビングのソファでうたた寝していたんだ。

 こわかったぁ、と一言だけ自分の口から滑り出た。
 まだ始まりすら読んでいないお話の世界って、あんなに怖いんだ。首に当てられたナイフの感覚がまだ残っている気がする。

 そっと自分の首に手を当てて、ほぅっと一つ安堵のため息。

 今日のこと日記に書いてから、お母さんの料理の手伝いをしよう。


 体を起こして、ソファから降りる。そしてふと気がついた。
 さっきは、自分の部屋にいたはずで、そこであの本の世界にいって、いつもなら、傍に読んでいた本もあるはずで、戻ってくるのも読んでいた場所。

 なのに、本もないし、ここはリビング。

 矛盾に気がつき首をかしげた瞬間に、ぐにゃり、と世界が歪む。


 キッチンからお母さんの姿が現れたけど。そのお母さんも世界と一緒に歪んでいた。


 崩れていく世界を呆然としながら眺めて、訳も分からずに必死に口を開いた。



「……お…かあ、さん…っ」

「おい、起きろ」

聞き慣れない男性の声と、べしんっ。という音。それと額の痛みに驚いて体が跳ねた。ひりひりとやってくる額への痛みを抑える為に反射的に手を額にやる。
目の前には、ソファで横になっている私を見下ろしている……雪咲さん。体を預けているのは高級な黒革。場所は自宅のリビングとは全く似ない部屋。

自分の世界に戻れていない。という現実が一気に突きつけられて、少しの涙と一緒にため息が溢れた。

「……母親の夢でも見てたのか」
「えっ、あ、えっと…は、い……っ」

突然私の夢を当てられて目が点になった。私、寝言でも言っていたのかな……。
雪咲さんはさほど興味なさげに「そうか」と一言だけ言った。それから、ソファの横を過ぎて棚前で足を止めた。そこから紙を数枚取り出して、再び私の前に戻って来た。私はソファに寝転んでいた体勢から慌てて体を起こして、雪咲さんが持ってきた紙を受け取った。

「この学園の校則と寮でのルール。それと風紀委員会の規則だ。目を通しておけ」
「え…、えっと……。そ、の……風紀委員会……って…」
「お前はこの学園にいる間風紀委員に所属させる。その方が色々とやりやすいんだよ」
「は、はぁ……」

簡単にそんなことを決めれるなんて、彼は委員長か何かなんだろうか……。と、あまり雪咲さんが言っている意味について行けていない頭で考える。
雪咲さんが風紀委員長だとしたら、ナイフなんか持っていて良いのだろうか。それこそ風紀を乱してないのかな……。と考えたけど、この世界ではきっとそれでも大丈夫なんだろう。なんて勝手に自己解決した。

質問したいけど、やっぱり雪咲さん怖いし……。

何か聞くのは、一旦この書類を読んでからにしよう。そう思いながら文字の羅列に目を通していたら「それと」と雪咲さんが呟いた。声のした方に目をやると、彼はいつの間にか奥にある黒革の椅子の腰掛けていた。

「お前は寮で生活してもらう。部屋の準備が出来たらメイドが迎えにくるから、それまでその書類でも読んでろ」
「は、はい……」
「俺は仕事しているから、何か聞くなら最小限にしろよ。めんどくせぇし」
「し、ごと……」

一つの単語をぽつり、と復唱する。あまり気にしていなかったけれど、執務机には積み重なっている紙が結構な量で置いてある。あれを一人でどうにかするのだろうか。もしかして、見ず知らずの私に気を遣ってくれたせいで、仕事が増えてしまったとかあるのだろうか。
そう思うと、何だかいてもたってもいられなくなってきた。

この人は言動とか雰囲気とか、……ナイフ持っているとか。怖いところはたくさんあるけれど、やっぱり優しい人……だと、思うし。そんな人の手間を増やしてしまったと思うと、心が痛む。

「……あ、の雪咲…さん……」
「……何だ」

最小限にしろっつったのに、と言いたげな声色が突き刺さる。ううう…っ!やっぱり優しい人って思っても怖いのは怖いよ……!!
泣きそうになるのをぐっと抑えて、頑張って口を開いた。

「…あ、の……。何か、お、お手伝い……できること…あれば……」

視線を宙に泳がせながら、しどろもどろにいう。私の中での精一杯の勇気だ……!
は?と一瞬呆れたような声が返ってきた。め、迷惑だったかな。と思って一気に気分が沈む。仕事って言ってるし、大事そうな書類だし。よく考えなくてもこんな得体の知れない人間なんかにお手伝いなんて任せれるわけ無いよね……っ。

「じゃあそこにある積み重なってる書類を3枚ずつホッチキスでまとめろ」
「………え?」
「……手伝うっつったのお前だろ」

また呆れた声が返ってきた。しかもため息付で。それにようやく反応してソファから体を降ろし、指定された書類を抱えて長机の上に置いた。結構な量で、重い。運ぶときに転ばなかったことが自分では少し奇跡な気がした。
ホッチキス、と呟いてから辺りをきょろりと見渡した。どこにもない。雪咲さん、と声をかけた瞬間何かが弧を描きながら飛んできた。

「ぶっ!?」
「…………」

飛んできたのはホッチキスだったけど、見事に顔面でキャッチ。当たった場所がひりひりと痛む。それを見た雪咲さんは、呆れたというか驚いたというか。そんなものも取れないのか、お前。と言いたげな顔をしていた。
ごめんなさい私運動神経皆無だし、反射神経も無いんです……!!そういう意味を込めて、「ご、めんなさい……!」と一言謝るだけだった。

そこから会話はなく、ぱちんっ、ぱちんっ、とホッチキスの音が鳴るだけだった。






「ほぁ……」

自分でも分かるぐらいのアホな声が溢れた。

書類整理の手伝いを初めて数十分してから、雪咲さんが言っていたようにメイドさんが来た。そして、寮まで案内された、けど……。
自宅住まいだった私にとっては、寮の一人部屋という空間は何か新鮮だった。それに、これ多分私の世界にある普通の寮の部屋よりも大きいんだろうなぁ……。

案内してくれたメイドさんは、一礼してそのまま部屋を出て行ってしまった。寮の部屋に呆然としていたから、ちゃんとお礼を言えてないことに気付いた。けれど既に遅くメイドさんはどこか去って行っていた。

人に迷惑しかかけられないのか、私は。と自己嫌悪に襲われて深くため息をついた。

とにかく、長くても三日ぐらいだろうけどここに住むんだしものの場所を把握しておこう。



「………あ、」

トイレや風呂場の構造を見てから、タンスの中身などを調べていた。その時に、勉強机の引き出しからあるものを発見した。

「…日記帳……」

表紙はたった一つの英単語で「diary」と綴られているだけだった。シンプルな物だけど、表紙は固くしっかりとした生地で作られていた。
椅子を引いて、机に向かって座る。日記を付けたところで元の世界に持って帰れる訳じゃないけど、やっぱり習慣は続けなきゃな。

これを書いたら雪咲さんが渡してくれた校則とかの書類を読んで、寝よう。



(何を書こうかな………)(『今回の本の世界で、初めにあった雪咲氷雨さんは怖い人だった。けど、きっと優しい人なんだろうなぁ。』)

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