開け放した窓から吹き込む風がふわふわとカーテンを踊らせる。放課後の保健室は希に部活中に怪我をした生徒が訪れるくらいで、正直言って暇だった。

まあ、そんな時間が嫌いではない。活字を追っていた目が最後の行に辿り着き、ぺらりとページを捲る。運動部の喧騒をBGMに読書に耽っていためのうを、程なく引戸の開く音が現実に引き戻した。

「あれ、ディーノさん。」

顔を上げて、そこにいた来訪者に少し驚く。“新任英語教師”の彼も、めのうと同じく少し驚いたようだ。

「めのう、まだ帰らないのか?もう授業終わってるだろ。」

言いながら後ろ手に引き戸を締める。どうやら用事があって保健室に来たらしい。

「運動部の活動時間が終わるまで仕事なんです。わたし保健委員だから。」

「へぇ、偉いな。」

ディーノはいつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。こうして見ると、どこから見ても教師にしか見えない。最も、彼の素性を知っているめのうにとっては、マフィアのボスである彼と校内で顔を合わせること自体が違和感以外の何物でもないのだが。

「ディーノさんは何で保健室に?」

「あぁ、そうだ。さっき転んじまった時に手首捻ったみたいで…」

僅かだが違和感を感じる手首を振りながら答えると、めのうは眉を寄せてそこに視線を注いだ。

「捻ったって…大丈夫ですか?」

内心は“転んだって…またですか?”と尋ねたい気分だった。口には出さないが。まあ彼は、よく転ぶ。酷い時には自分で自分の足を踏んで転ぶ。いっそ奇跡的なほどに、奇跡的な理由で転ぶのだ。以前周りに部下がいないとへたれる体質なのだとリボーンに聞いた。

「そんな大袈裟な怪我じゃないんだけどな。念のため湿布でも貰っとこうかと…」

「大袈裟くらいで丁度いいです。いつバトルがあるかわからないんでしょう。変に痛めてて、襲われた時に鞭奮えなかったら大変ですよ。」

「う…、」

図星だった。そもそも教師と偽って校内に潜入したのも、いつ始まるかわからない変則的なバトルに対応し、ツナ達の力になる為だ。それがそんな下らない理由で戦えないとなれば、本末転倒も甚だしい。

「そこ座って下さい。手当てしますから。」

言われるままに、ディーノはめのうが指差した丸椅子に腰掛けた。めのうは棚を漁り、てきぱきと湿布と包帯、サージカルテープを準備していく。

「手、出して。」

差し出された手を取ると、めのうは丁寧に湿布を貼り、黙々と包帯を巻き始めた。目元に少し掛かるくらいで切り揃えられた前髪から覗く、伏し目がちな黒の眼差し。真剣な表情を浮かべるめのうを一頻りまじまじと見つめた後、ディーノは着々と手当てされていく自分の手をぼんやりと眺めた。

「手際いいな。」

「伊達に保健委員長やってないですからね。はい、完了です。」

「へぇ…、ロマーリオとは大違いだ。」

綺麗に巻かれた包帯を見てディーノは感嘆の声を上げる。ロマーリオのそれは、処置こそ的確で素早いが、男の治療と言うだけあってどうにも見た目が雑過ぎるのだ。それに比べ、めのうの処置は手慣れた上に見た目も綺麗に整っていた。

「なぁ。どうだ、めのう。卒業したらキャッバローネの医療班に就職ってのは?」

「…流石にマフィアの医療班は、流血沙汰絶えなさそうで私の手に負えないです。」

突然の勧誘に目を瞬かせた後、めのうは包帯の切れ端や湿布のフィルムを片しながら苦笑を浮かべる。いくらマフィアの知り合いが何人もいるとは言え、自分も裏社会の一員になるつもりはない。

「そうか。なら、俺専属の医療班ってことでどうだ?」

「……は?」

めのうの手が一瞬止まった。意味を取りかねて言葉を失ったらしい様子に、ディーノが小さく吹き出した。

「からかいましたね。」

「ははっ、本気にしたか?」

「しません。教師が生徒を裏社会に勧誘してどうするんですか、ディーノ先生。」

「だな。」

立ち上がり様、ぽんと頭に手を置かれ、くしゃくしゃと撫でられた。普段からボディータッチが多い人なので、そう大して驚くこともない。だが、今日は違った。気が付けば耳に吐息が掛かりそうなほど近くにディーノが顔を寄せていて、それに驚く暇もなく、聞き慣れた、それでいて聞き覚えのない甘い声色が囁いた。

「けど、俺は本気だぜ。」

その瞬間、何だかぞわぞわとした、よくわからない感覚が走り抜けた。よくわからないが、決して嫌な感覚ではない。心臓を掴まれたような、膝から力が抜けてしまいそうな。

思わず耳を押さえて茫然とするめのうを残し、ディーノは肩越しに包帯の巻かれていない方の手をひらひらと振る。

「Grazie. ありがとな、めのう。」

ご丁寧に去り際にウィンクを残して。保健室を出ていく後ろ姿がドアに阻まれて見えなくなるまで、めのうは何故かディーノから目が離せなかった。

再び静けさの戻った保健室で、一人大きく息を吐く。

イタリア人は見境なく女の人を口説くというのは本当だったのか。まさか、ディーノさんまで生粋のイタリア男だったなんて。いや、疑いようもなくイタリア人だけれども。何となくそんな人ではないような気がしていた。

違う、そんなことはどうでもいい。

「あ、あれ…?」

何だろう、何だこれ。おかしい。尋常じゃなく頬が熱い。頭を撫でられた感覚がまだ残っている。囁かれた耳が擽ったい。心臓がバクバク言って煩い。

「…どうしよ。」

ほんのついさっきまで、マフィアのボスでツナの兄弟子の、ちょっとドジで陽気なお兄さんくらいにしか思ってなかった筈なのに。





あぁ、神様。どうやら不覚にも、
心を奪われてしまったようです。



20120513



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