抱き締めたクッションに顔を埋め、オニキスはもう何度目かわからない溜息をついた。目を閉じても瞼に焼き付いたあの眩しい金色が離れなくて、力任せにクッションを床に投げつける。
「…あぁ、もう!」
彼が軍人である以上、恋人よりも任務を優先する。それは当たり前のことだ。その傾向は四年前、彼の顔に深い傷を残したあの戦いの後から更に拍車を掛けている。最早グラハムにとって、宙を駆けることは、生きることそのものになっていると言っていい。
「そんなことわかってる…。」
彼から宙を奪う権利はあたしにはない。宙に代われるような存在になれるとも思えない。
「わかってるけど…」
やはり約束を反故にされれば傷つくし、落ち込みもする。苛立ちもする。憤りを声に乗せてもむしゃくしゃした気持ちは収まらず、オニキスは頭を抱えてソファに沈み込んだ。
ケータイの電源を切ってから、既に一週間が過ぎている。自分から手段を絶っているのだから連絡が来る筈もない。それなのに、会いたい気持ちは日増しに募る一方で、こうして始終彼のことばかり考えている自分に、我ながら呆れるしかなかった。
「オニキス。」
「………え?」
聞こえる筈のない声がした。耳を疑い、顔を上げる。軍事施設にいる彼が、こんな街中のアパートを訪ねてくる訳がない。
「オニキス、開けてくれないか?」
こんこん、と今度は遠慮がちなノックの音がそれに伴った。空耳ではない。そう判断した瞬間、口が勝手に言葉を紡ぐ。
「………………嫌。」
本当は会いたくて会いたくて仕方がないのに、素直でないあたしは片意地を張ってそう答える。
「会いたくない、帰って。」
程なくして返ってきた扉越しの拒絶に、グラハムは苦笑を浮かべた。だが、これで帰るつもりなど毛頭ない。それならば、と扉の横にある電子ロックの認証キーに手を伸ばす。
「どう言っても開けてはくれない、か。ならば…」
数字を打ち込む音に続いて、玄関のロックが解除される音。閉ざされていた扉が開く。迫り来る夕闇が侵食し始めていた室内に、一筋の光が差し込んだ。
「邪魔するぞ?オニキス。」
「グラ…ハム…」
オニキスはただ茫然とグラハムを見つめた。教えた覚えのないドアロックのパスワードを知り、何食わぬ顔でそこに立つ彼に呆気に取られている間に距離を詰められる。
「うそ。あたしパスワード教えてない…」
「愛の力のなせる技だ。」
「ただの不法侵入よ、馬鹿。」
「何とでも言うがいいさ。」
どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべると、グラハムはソファに座るオニキスの腕を引き強引に抱き締めた。
「すまなかった。」
普段の尊大な物言いとは一転して、まるで心臓をきゅう、と掴まれるような、沈痛な色を帯びた静かな声だった。
「は…、離して…」
「断る。」
ぐいぐいと胸板を押し返してくるオニキスを、グラハムは放すまいと腕の中に閉じ籠める。暫くそのままでいると、やがて諦めたのか抵抗する力は徐々に弱まっていった。
「何で…、何しに来たのよ…」
「天の岩戸を抉じ開けに。君がいないと、私の空は曇ったままだからな。」
俯いて顔を伏せたオニキスの頬に優しく指先が触れる。誘われるように顔を上げると同時に、視界が霞んでいく。溢れた滴が頬を伝うのに然程時間は掛からなかった。
「……ごめ…、なさ…」
虚勢が剥がれ落ちる。みっともないのを承知で、久々に触れた温もりにしがみついて子供みたいに泣きじゃくる。グラハムはそんなあたしに黙って胸を貸してくれた。
「謝るのは私の方だ、オニキス。君にはいつも辛い思いをさせてばかりだな。」
「そ…なこと…、ない…っ」
身を焦がす愛しさも、会えない悲しみも、全てはグラハムが与えてくれる感情なのだ。どれだけ辛いと感じても、結局はあたしがどれだけ彼を愛しているかということの証明に他ならないのに。残念ながら普段のあたしには、そんな気持ちを認める余裕なんてない。
傷付いて、傷付いて、それを上回る幸せさえも忘れてしまうくらいに傷付くほど、愛しているのだ。このグラハム・エーカーという男を。
言葉に出来ないその想いを、彼を抱き締める両の腕に籠めた。
「もう君を悲しませないと言えたならば格好もつくのだろうが…、生憎私は嘘が嫌いでな。この先も、何度約束を違えることになるかわからない。」
きっとここで軽々しく君を悲しませないと言うような男なら、あたしはここまで彼に惚れたりはしなかったんだろう。ゆっくりと髪を撫でてくれる手のひらに、ただ黙って身体を委ねる。
「だが、たとえそうであったとしても…。オニキス、私の空を照らす太陽は、君であって欲しい。」
戦禍の激しさを物語る傷痕を残してなお、くすむことはない意志の煌めき。真っ直ぐにオニキスを見つめるその眼差しは、快晴の空を思い起こさせる、碧く澄み渡ったコバルトブルーをしていた。
アマテラス20100108
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