日が暮れたアイルランドの市街地。待ち合わせ場所は大抵決まって、表通りから少し裏道に入った先にある寂れた門構えのパブだった。年季の入ったドアを開けば蝶番が軋みを上げ、店外に漏れ聞こえていた喧騒が音量を増して耳に飛び込んでくる。

奥に歩を進めるとすぐ、いつものように落ち着いた色合いのロングコートを羽織り、カウンター席の片隅で一人煙草を蒸かしている彼を見付けた。

「ライル。」

「よぉ、オニキス。」

とん、と灰皿に煙草を落し付け、ライルは傍らの席をオニキスに勧めた。水滴の浮いた飲みかけのグラスの横には、電話番号とおぼしき数字の羅列が記されたコースターが幾枚か折り重なって置かれている。それに目を留め、オニキスは眉を潜めた。

「…女?」

「彼女と待ち合わせしてるって言っても聞きやしねえ。」

肩を竦めるライルの言葉に、オニキスは小さく溜め息をつく。この容姿で、この年頃の男が夜の酒場で一人酒を飲んでいれば、女に声を掛けられるだろうことくらい容易に想像出来る。

「絡まれるのが嫌なら、こんなに早く来なければいいじゃない。」

「まぁ、そう言うなって。」

壁に掛かった振り子時計の針は、まだ待ち合わせの時刻に到達していない。にも拘らず、オニキスが店に着く頃には必ず、ライルは既にこの席に座っていた。隣に腰を降ろし、拗ねたように呟いたオニキスの肩を抱くと、ライルは宥めるようにその唇を重ねる。

「…ん」

「お前を一人で待たせて、変な男に絡まれる方が危険だろ。」

「そんなこと言って、本当はまんざらでもないんじゃないの?声掛けられるの。」

「まぁ悪い気はしねぇけど、いちいち断んのは流石にめんどうだよな。」

ライルはそう言って苦笑を浮かべた。彼が浮気性でないことはこれまでの付き合いで重々承知している。だが、こういった場面を目の当たりにすると流石に不安になった。

浮気現場を目撃するのとはまた違う。いつか自分より彼の好みに合った女が現れて、彼が自分から離れていってしまったら。

「私は、悪い気しかしないわ。」

「…だよな。」

付き合っているとは言え、それは彼が自分の物で、自分が彼の物だと言うに足る確固とした関係性ではない。終わりを告げられてしまえば、ただの他人に戻る。彼を失う一片の可能性、それがどうしようもなく怖かった。

「なぁ、オニキス。」

表情を暗くしたオニキスを暫く眺め、ライルが思い立ったように口を開いた。妙に神妙な面持ちを浮かべ、突然態度を改めたライルを訝しみながら視線を合わせる。

「何よ。」

「もう終わりにしないか、こういう関係。」

「…え?」

言葉の意味を上手く把握するより早く、彼は無造作に片手でコートのポケットを探り、もう片方の手でオニキスの左手を取った。そして何気ない仕草で薬指に細い銀色の指輪をはめ――、それはさも初めからそこにあったかのように、ピッタリとオニキスの指に収まった。

「ライル、これ…」

「俺だけの物になってくれ。」

真剣な眼差しは、その言葉が嘘や冗談の類いではないことを如実に物語っていた。指輪を見つめ茫然と瞬きを繰り返すオニキスに、ライルが改めて言葉を重ねる。

「結婚しようぜ、オニキス。」

燻るスモークの香り、仄かな照明、酔客達が交わす談話の声。彼が発したたったの一言でそれら全てが遠ざかり、まるでそこだけが世界から切り離されたかのような。そんな錯覚すら覚えた。

「返事は?」

聞かれるまでもない。断るはずがない。
シルバーリングが輝く手を、真っ直ぐに彼に伸ばす。





6月のンゲージ

『そんなの、イエスに決まってる…!』



抱き竦められた腕の中は、欲して止まない自分だけの居場所だった。









20100615



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