■ 愁いからの日々

 あの日から、あの時からどれくらい経ったのだろう。思い出すのは地下世界へと続く穴に堕ちそうな相棒の魔術師の腕を必死に掴んでいた光景。幼いころよりずっと一緒にいた存在を見捨てられる筈がなかった。だから、離すものかと懸命にあの腕を。

――大丈夫だよ。必ず、戻ってくるから。

 しかし、彼は。あの魔術師は何か考えがあってなのか、静かに微笑むと、妙な約束を取り付けて、自分には出来るはずのない、難しい魔法で繋がれていたものを無理やり離して。一人、闇へと続く世界へ行ってしまった。全てが、勝手な行動。自分は何もできず、ただ離された手がゆっくりと沈んでいくのを、悲観に引き千切られそうになりながら見ているだけしかできなかった。

「……勝手だよな。アイツは」

 人の気も知らないで、一人で背負いこんで。残された此方の身にもなってみろと、問い質したいが、生憎当の本人はこの場にはいない。

「……っ!」

 イルファーナは掴んでいた感触のある方の腕を顔の前に当てる。やるせない気持ちで一杯だった。せめて傍にいてほしかった。民衆から呼ばれる忌み名なんて気にせず、相棒として、家族として一緒にいたかった。何も出来ない自分が悔しい。
 未だ世界から魔物が途絶えたわけではない。が、これ以上は負担になるため、アナギから直接教会に休職願いを出してもらった。そうしてもらえただけでイルファーナの心が少しでも落ち着くようにとの配慮だった。実際イルファーナの心は僅かずつだが落ち着いてきている。あの日から半年の間、人格が壊れてしまったように毎日自分を責め立てては泣いていた。慰めようにも周りの言葉が届かないのか、一向に改善されなかった。休職を戴いたことで、何とかなりつつあるのだが、完全とまではいかない。体の方の傷は癒えても、心は、長い時間をかけないといけないのだ。
 成人の儀を迎えた後も、以前のような元気はなかった。あれほどやっていた罠の考案も、 あの日を境にしなくなった。部屋に籠ってばかりで、誰にも会おうとはしなかった。
 今日も、朝食を食べず部屋に籠っていた。数日前から双子が心配だとお見舞いに訪れていたが、会う気にはなれなかった。今は、一人になって考え事をしたいのだ。
なるべくあの日のことを考えずにしようとするも、どうしても思い出してしまう。忘れることなど到底不可能。
 あの日から大分時間が経っていると思うのだが、今のイルファーナには時間の感覚なんてありはしない。
 変わってしまったのだろう、そう考えるのも笑えてしまうほどに。
 一日中外をぼんやりと眺めていると、部屋の壁時計が鳴り響いた。見ると、夕刻を指しており、気づけば空も橙から紺へと変わりつつある。
 コンコン、と誰かが扉を叩いた。アナギにさえろくに会おうとは思わなかったが、食事時には必ず持ってきてくれていた。おそらく、その人だろうと思った。

「……どうぞ」

 入るよう促す。音もなく開いた扉の向こうから現れたのは銀髪の長い髪。

「お前は……」
「イルさん、ご無沙汰してます」
「ああ」

 トアは、数年前に国内の噴水広場で出会い、瓜二つの姉と意気投合したのがきっかけで、何度か屋敷に訪れたことがある。その頃のイルファーナは悪戯好きで、事あるごとに姉と一緒になって罠を仕掛けていた。迷惑ではあったが、楽しかったと思う。イルファーナの元気が無くなったと聞いたときは、心底落ち着かず、すぐにでも駆けつけたかった。できなかったのは、当時は自分にはそんな慰められるような言葉があっても、蟠りを取り除いてあげる自信がなかったのだ。あの日、というのは彼にとって人生を変えてしまった。

「夕食、出来てますけど、食べれますか?」

 食力はなくとも日に数回は空腹になるので、パンの一つや二つくらいは口に入れている。とりあえず頷く。トアは両手に抱えていた食事をテーブルに置き、イルファーナの向かい側になるようにソファーに腰かけた。イルファーナは目の前に置かれた食事を少しずつ手を付ける。全てを食べ終えると、疲れたようにソファーの背もたれに項垂れた。

「大丈夫……では、なさそうですね」
「やっぱり、そう見えるか」
「貴方らしくはないので」

 イルファーナは困ったように笑う。

「アイツが……セナがいなくなってから、俺は変わったって……そう言われた」
「……」
「誰かを失うことが怖いんだ…」

 だから、誰とも合わずに長い間引き篭もっていた。恐怖から逃れるために。
 トアは何も言わない。代わりにティーカップにお茶を入れる。アナギが愛用している種類のものだ。心を落ち着かせる成分のある果実の果汁が入っている。云わば薬膳茶という。二人分を注いだ後、片方をイルファーナに、もう片方を自分の手元に寄せる。お茶を飲んでいる間、二人の間には静寂が流れた。

「トア、少しだけ、聞きたいことがある」

 最初に口を開いたのは、イルファーナだった。

「なんでしょうか」

 トアは、思い詰めている彼の表情に耐える。声だけ聴いても苦しそうにしているのは解る。本来ならこの場にいなくてはならないのは自分ではなく、この人の相方なのだと思えてしまう。
 イルファーナは口を開いたところで、いやしかしと、本当に言っていいのかどうか。迷惑をかけてしまうのではないかと、暫しの間自問自答していた。数分の後、ようやく決心がついたのか、改めてトアを見る。

「ずっと悩んでた。何かの幸せを掴もうとすることで、新たな不幸が来るのではないかと。誰かを傷つけてしまうのではないかと思って、大切なものを奪ってしまうのでは……。俺はそのことが嫌で、逃げてきたんだと思う。自分でも時間を忘れるほどにな。でも、それももうやめようと思うんだ。セナが残してきたものを、少しでも役立てられるように……。前を歩いて行こうと。それにはアナギさんや教会の人たちだけじゃなく、もっと他の手助けが必要なんだ。だから、えっと……」

 あの、その、と言葉をまとめるのが難しいのか、イルファーナは一番言いたいことを口に出せないでいた。

「俺がこれから行く道を、お前に……トアに、付いてきてほしいんだ」

 苦労して言葉にしたそれは、何を表しているのか多少考えたが、トアには分かった。本人は、断られるのではないかと不安になっているようだが、トアの答えは決まっている。此方から切り出しても良かったのだが、現在の彼の状態を考えると気を使うばかりでタイミングを逃してしまっていた。もう一つの理由として、言えば彼の心を再び傷付けてしまうのではないかと恐れていた。
 しかし、そんな不安もなくなった。
 今ならこの想いを伝えられる。

「抱えてばかりでは何も始まりません。私は、イルさんの手助けが少しでもできるように、姉のイルと話し合いました。イルさんの傍にいたい……そのことが貴方にとって迷惑になろうとも。ずっと考えていました」
「……いいのか、それで」

 戸惑った様子でイルファーナは聞くと、トアは「はい」と優しく微笑んだ。その時イルファーナは初めて気づいたが、トアは以前と比べて女性らしく、かつしっかりした面立ちになっていた。姉もそうなのだろうと思うと、やはり双子だなと考えては何故か安心できた。
 少しだけ、心に溜まっていた蟠りが取れたような気がする。

「じゃあ、宜しく頼む……」
「こちらこそ、宜しくお願いしますね」

 頭を掻きながらあらぬ方向を見て言うイルファーナは、視界の端で再び彼女が笑うのを見かけると、なんだか釣られて笑ってしまった。

――どうやら、お前がいなくてもやっていけそうだよ、セナ……。

 勿論、まだ本職である弓術者の仕事には復帰できそうにはない。しかし、彼女が居てくれたら、耐えていられそうかもしれない。

 穏やかな夕暮れの陽射しが、二人のいる室内に風と共に差し込んでいた。






(その苦しみの先にあるものは――)

【愁いからの日々】

お借りしました!
◆猫凪さん…トアちゃん


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