【29,腹が減ってはなんとやら】
「逃げたぞ!あれは本物だ!」
「うおおー!女より美人とかそりゃメシより大事だろー!」
「待てー!王崎!…じゃねぇ!王崎先生ー!」
野太い声が群れを成し追いかけて来る。今日から2、3学年も登校しているのだ。1限の始めは新任紹介を含めた始業式も行っており、暁斗の顔は言うなれば全校生徒に知れ渡っていた。
捕まれば命はない……とは言い過ぎだが、若干貞操が危ないのは彼らの興奮度で分かる。17前後の男子は興味も性欲盛んな時期だ。そんな彼らに囲まれてしまえばいったい何が起こるか……男でありながら暁斗は嫌な予感を覚えてしまう。
"基なる魂"の力をも使う覚悟で学園内を逃げ回る。力を使わない通常時でも彼らより脚は速く、なおかつジャージ姿と動きやすかった為徐々に距離を取ることに成功した。未だ粘る生徒達の声を耳に暁斗は素早く横道の階段へと身を潜める。
階下で通り過ぎて行く集団を見送り、ホッと息をついた。ジャージなんて今日初めて着たが、本当に動きやすい服だ。これならもう数着司貴に用意させても損はしないだろう。
「……学校とはこんなに怖いものだったのか…」
げんなりと気力をふらつかせ、暁斗はとりあえず周りを見渡した。めちゃくちゃに走って来た為、ここがどこだかまったくわからない。
非常にまずい。午後は担当場所が変わり、暁斗はグラウンドでシャトルランや幅跳びの測定をしなくてはいけないのだ。
一か八かで窓を見るが、その景色に校庭は見当たらない。とにかく現在地を確認しようと暁斗は階段を登った。屋上から見渡せばここが何の校舎かくらい検討がつくはず。
……しかし。
「……む。立ち入り禁止か」
屋上に繋がる扉には「屋上、上がるべからず」の貼り紙が。生徒の安全を配慮したのだろうが、まさかそう来るとは思わなかった。
案を破られ意気消沈する。しばらくそこで立ち竦んでいると、不意に階下から階段を登る足音が響き始めた。
こんなところにいたらきっと誤解されてしまう。新任としてあるまじき失態だ。しかしそう頭で考えたものの、逃げ道はどこにも見当たらない。
暁斗は咄嗟にドアノブを握った。そして願いを込めてそれを捻る。
開いた…!
運の良いことに鍵は掛かっていなかった。優等生が多い学園だ、あまりこういった事態を予測していなかったのだろう。
屋上に出ると白昼の日差しが体に降り注ぐ。辺りを見回し、とりあえずタンクの裏に身を潜めた。あまりこういうことはしたくないが、場合が場合だ。仕方ないが良識には目を瞑ってもらおう。
しばらくして屋上に繋がる扉が開かれた。おそらく先ほどの足音はこの人物のものだ。コツコツと革靴がコンクリートを叩く。生徒か、教師か。音だけではよく分からない。
……ん?
そこで暁斗は気付いた。ここは屋上だ。扉には立ち入り禁止の貼り紙がされ、誰も上がれないようになっている。
ということは、だ。
今屋上にいる暁斗ともう1人は、明らかにその貼り紙を無視し意図的にここにいる、ということになる。
「おい!ここは立ち入り禁止だぞ!」
自分のことは棚に上げ、つい口を出してしまう。いきなりタンク裏から現れた暁斗にその人物は驚き固まった。
「生徒は速やかにここを立ち去……、ん?」
どこかで見たような顔に目を凝らす。確かこいつは1学年の生徒だ。聴力検査で顔を見た覚えがある。
眞壁ほどではないが背が高く、体付きは細身でも筋肉質でもない、ちょうど中間辺り。どこか大人びた雰囲気があり、同い年の生徒に囲まれていると突出して落ち着いた印象を与える。
彼は暁斗のクラスではない。ということは1−AかCのどちらかだろう。それを証明するように彼のジャージには「古賀」と刺繍が施されていた。出席名簿にはなかった名字だ。
「……王崎先生」
容姿同様落ち着いた、そしてどこか喉に籠もる声で名前を呼ばれる。
「……先生は、どうしてここにいる?」
ごもっともな台詞に暁斗は言葉を詰まらせた。しかし古賀は寡黙な質なのか、それ以上深くは尋ねて来ない。
「わ……私は、迷い込んだんだ」
「……じゃあ、俺も」
「なんだ、その"じゃあ"とは」
「…………」
無言のまま、食べかけだった焼きそばパンに食らいつく。そのまま何も言わずに食事を再開した彼を暁斗は呆れたように眺めた。
1人が好きなのだろう。先ほどの御堂とは違い、本当に好んで1人になりたがっている。そういう雰囲気が彼にはあった。
まぁとりあえずは同罪だ。暁斗も彼を強く叱ることは出来ない。
「…ここが何校舎か分かるか?」
フェンスに寄りかかっている彼から少し離れた位置に歩み、問いかける。編み目越しに見えるのは中庭でランチをする数人の生徒と桜だけ。向かい側にはこことは違った形の建物があり、それさえ気にしなければ静かでとても良い場所と言えた。
「……実習舎」
少しして返って来た返事は短く、簡潔で。むしろ暁斗に潔い印象を与える。
「そうか、感謝する。それと…、食事の邪魔をしてすまなかった」
フェンスから離れ、校内地図を広げる。ここが実習舎なら前にあるあれは部室棟だ。近くにグラウンドがあることを確認し、ふぅ、と安堵のため息を付く。
「………」
「…ん?これか?」
視線を感じ彼を見れば、その目は暁斗が持っていた袋を見つめていた。
「昨日のレクリエーションで約束したデザートだ。チーズケーキを用意して…」
ハッと気が付いた。確か2つほど切り分けたものが余まっていたはず。袋の中を確かめれば確かにケーキが2つ、少々型くずれしているがそこに鎮座していた。これを食事として換算すれば昼食を諦め不機嫌だったお腹も機嫌を直してくれるだろう。
袋を置き、中から下紙とケーキを取り出す。余ったフォークを手に取り、暁斗は周りを見回した。
普段こんなところで食事をする機会はなく、どこで食べたら良いのか分からない。イスもないしテーブルもない。仕方なく立食することにし、ケーキをフォークで口に運んだ。
流石司貴。あれだけの量を作ったというのに何も手を抜いていない。濃厚でほろ甘い味が口に広がり、暁斗は自然と顔をほころばせた。こう見えて甘党でもある暁斗。コーヒーは習慣で欠かせないが昔からなぜか甘いものにも目がなかった。
「……うまそうに食う」
ふと横から聞こえた呟きに目を向けると、古賀がこちらをじっと見つめていた。その手にはすでに焼きそばパンはなく、代わりに丸めたラップが摘まれている。
そして腹の虫が鳴った。暁斗のものではない。育ち盛りの彼のものだ。
「…食べるか?」
どこか物欲しそうなその瞳に思わず尋ねてみる。本当は2つとも食べたいところだが、生徒が飢えているとなれば話は別だ。
コク、と彼が頷いた。初めて暁斗のもとに自分から寄って来る。
「口を開けろ」
フォークを片手に癖で命じる。昔からよくこうして乃暁に分けていた。彼は暁斗にこうされると喜んで食べる。わざわざ暁斗がおやつを取る時間を狙い現れることもあるくらいだ。
彼は一瞬戸惑ったものの、またコクリと頷き素直に口を開けた。暁斗より背の高い彼の口にケーキを運ぶ。
もくもくと無言で咀嚼する彼だがその瞳はどことなく美味しいと言っているようで。僅かに目尻が下がっている。
「悪くないだろう?なんならもう一口分けてやってもいいぞ」
嬉しそうにされるとこちらまで嬉しくなる。いつの間にか柔らかく笑みを浮かべていた暁斗を彼はふと固まり、凝視した。返事のない彼を見上げ、何事かと首を傾げる。
「どうした、下紙でも混じっていたのか?」
ぎこちなく首を振る彼を確認し、もう一度ケーキをすくう。そして先ほどと同じように彼の口元へそれを差し出した。
弟に分けている時のように、柔らかな笑みを浮かべながら。
「ほら、口を開けろ。…あーん、だ」
今度も同じように口を開く…ことはなく、彼はなぜかその言葉に一歩後ろへ後退った。
どうしてか鼻を押さえている。まるで鼻血が出ることを抑えるように。
「む…。なんだ、いらないならいらないと言え。紛らわしい奴め」
眉間にシワを寄せ、あむ、とそのケーキを己の口に運び直す。やはり司貴の作ったケーキは美味しく、すぐに顔がほころんでしまう。
「…いる」
短く訂正が入った。何かを決心したような顔つき。まさに真剣そのものだ。そんなにもう一口欲しかったのだろうか。
「なら早く口を開けろ。もう昼休みは時間がないんだ」
再びケーキをフォークに乗せ、彼に向ける。その喉で喉仏がゴクリと上下した。よほどお腹が空いているらしい。ケーキだけで足りるのかこちらの方が不安になってしまう。
──ぱくり。
ケーキを口に含み、至近距離で見下ろされる。なかなかフォークを離さない彼に暁斗は目をしばたかせた。首を傾げ、もう一度彼の名を呼ぶ。
「…古賀?」
「っ…!」
「お、おい!フォークは返せ!古賀!古賀ーっ!」
鼻を押さえ全力で去って行く彼にそう慌てて叫ぶも、すでに屋上に姿はなく。
代わりに点々としたものが彼の進んだ道に色濃く残されていた。
「……血?」
まだ凝固していない赤は明らかに彼のもので。怪我でもしていたのかと心配になる。
鈍さというのは、時として凶器にもなるということだ。
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