彼と彼女の三日間戦争B




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【二日目】
 酷い目覚めだった。歯を磨きながら入間は顔をしかめる。今朝、王馬がフライパンを叩きながら起こしにきて、あまりにうるさいので布団から飛び出したら、下着姿で寝ていたことをすっかり忘れていて恥ずかしい思いをした。結局そのままふて寝をして時刻はもはや十時を回ろうとしている。王馬は出来心でやった、後悔はしていないなどと一向に折れる気配がなく、入間が何故か謝る羽目になったことも苛立ちの要因だった。
 身支度を済ませリビングに行くと、遅い朝食の用意がされていた。トーストにベーコンエッグ、インスタントのスープは粉末が入った状態で置いてある。キッチンのカウンターから王馬が顔を出して言った。
「おはよう。コーヒー飲む?」
「ん」
 王馬が出してくれた熱いコーヒーを飲む。脳みそが徐々に覚醒し、ひとまずはとスープカップにお湯を注ぐ王馬に頭を下げた。
「これ、ありがとな。昨日も作らせちまったし」
「いいよ別に。あとで百倍くらいにして返してもらうから」
 聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がしたが、入間は聞かなかったことにした。食事は活力だ。エネルギーの源だ。特に朝食に関して入間はそう思う。空腹が満たされていくと、覚醒しきらなかった脳もしっかりと稼働し始める。
「入間ちゃん。ちょっと聞いてほしいんだけどさ」
「なんだよ」
 脳が覚醒すると共に再度目覚めた今朝の怒りを入間は露にする。
「あらら。もしかして朝のこと怒ってるの?」
「怒ってるよ」
「入間ちゃんのことだから下着なんて見られ慣れてると思ったんだけど。あー。それは申し訳ないことをしたな」  
「あ、当たり前だろ!……仕方ねーから、許してやるよ」
「さすがー。百戦錬磨の入間ちゃんは心が広いね」
 事故とはいえ異性にあんな姿を見られることは初めてだったとは口が裂けても言えない。入間はわざとらしく咳ばらいをして王馬に尋ねた。
「それで、何なんだよ」
「人生ゲームをしよう」
「はぁ?なんでだよ」
 突然の提案に困惑に満ちた表情を浮かべてしまう。
「人生の縮図とも言える人生ゲームで散々な目に遭っていれば不幸の耐性がつくんじゃないかと思って」
「馬鹿にしてんのか!」
「オレは真剣だよ。それに、せっかくの夏休みなんだから遊ぼうよ。未来の事は結局分からないんだし」
 もっともらしい意見に、一理あると入間は頷き、人生ゲームに興じることになったのである。
 王馬が用意したのは地獄のデスロードと呼ばれる、ブラック企業・サラ金での借金など現代社会の闇から抜け出して億万長者を目指すという珍しいタイプの人生ゲームだった。二人でプレイするのも寂しいので、いくつか駒を用意し、クラスメイトの名前をつけてプレイを開始した。そんな名前がついているだけあって、二人は序盤から散々な人生を歩むことになった。入間は社会人一年目で株に手を出し借金地獄、王馬は大学で麻雀にハマり絶賛留年中だ。勿論勝手に用意したクラスメイトの駒も散々な人生を送っている。
「オレ様の番だな。おっ、科学者としての才能が芽生える。発明品が飛ぶように売れ年商一億に。ひゃっひゃっひゃ!まさにオレ様の人生だな!」
 駒を進め、おもちゃの札束を抱えて笑う入間の姿はどこか狂気じみている。王馬はちくしょうと顔をしかめたが、ふと手を止め口を開いた。
「ねぇ、入間ちゃんは卒業したらどうするの」
「何だよ、急に」
「いや、入間ちゃんみたいな豚便器が人間社会で生きていけるのかなって」
「ひぐぅっ。ぶ、豚便器……生物扱いすらしてもらえないなんてひどいよぉ」
 眉根を下げて今にも泣きそうな顔をしても王馬は謝る素振りすら見せない。卒業後のことをきちんと考えたことはなかった。これまでと同じように発明をして、暮らしていくのだという漠然とした考えだけはあるが、確かに社会の中で生きて行かなくてはいけないのだ。
「卒業後なぁ。全然分かんねーよ。だって、あと一年あるんだぜ?まぁオレ様が世紀の大発明を生産し続けるのは確定事項だけどな」
 世紀の大発明。その言葉を口にした途端、入間の中にずっと息づいている願いを王馬に伝えたくなった。多分きっと、この才能が芽生えた瞬間から本能的に望んでいることを。
「先の事は何も分からねーんだけどさ。叶えたいことがあって」
 声が震える。自分の夢を口に出すことがこれほど恥ずかしい事とは。乾いた唇を舐めて、再び口を開く。
「……オレ様は自分の発明で世界中を幸せにしてーんだ」
「随分ロマンチストなんだね」
 その静かな波のような穏やかな口調で、決してからかっているわけではないのが分かった。
「いいか。オレ様の発明品はな魔法みてーなもんなんだよ。修行も苦痛もなしに、願いが叶う優れものなんだ。寝ながらシリーズなんか特にそうだけどよ、寝たきりのジジイ共でも好きなことが出来るんだぜ。最高だろ?」
 ただ黙って頷きながら聞いてくれる王馬に、ほとばしる思いをぶつけてしまう。
「でも、いつかその魔法が当たり前になったらもっといい。オレ様の発明品が世の中に出回って、それこそ酸素みたいに浸透して、どんな立場でもどんな境遇でも誰もが平等に幸せを享受できる世界にしてーんだよ」
 そう言い切ってじっと王馬を見つめる。真剣そのものだった彼の頬が徐々に緩み、にやにや笑いを堪えるように両手で口を抑えている。
「わ、笑いやがったな」
「いや、ごめん。ただ入間ちゃんってホントに不器用なんだなって。そういうことをテレビで話せばよかったのに」
「は、恥ずかしいだろ」
「キミの普段の行動の方が恥ずかしいことを自覚しなよ」
 そうだろうかと首を傾げていると、王馬が薄く微笑んだ。
「入間ちゃんはえらいねぇ」
 子供に捧げるような、どこか慈愛に近いものを感じさせる物言いだった。入間はそれを素直に受け止められず、つっけんどんな返答をしてしまう。
「才能を持つ者の使命だからな!凡人には真似できねーよ!」
 それは強がりではなく本心でもあった。だからこそ、自分の身に何かあったらと思うとたまらなく恐ろしいのだ。恐ろしい想像を振り切るように入間は王馬に尋ねた。
「オメーは卒業したらどうすんだよ」
「オレ?夢はでっかく世界征服かな。まぁ、人生はゲームみたいに上手くいくとは限らないけどね!えっと、五。命を賭けたゲームで敗北する。代償として指を切断される。たはー、むしろゲームの方が上手くいかないみたいだね。さぁ次は入間ちゃんの番だよ」
 自分の本心ばかりが引き出されているようで不本意だったが、何を聞いても王馬にはぐらかされているような気がして入間は深く追求しなかった。入間は結局その日は人生ゲームに始まり、チェス・オセロ・バトルラインなどのボードゲームをやり続けた。王馬の部屋にはこの手のゲームが山ほどあり、食事もそこそこに勝負に次ぐ勝負を重ね、気が付けば夜も深い時間だった。だから夜中に、入間が空腹で目が覚めてしまったのは当然のことだった。
 一時を回ったというのにリビングからは灯りが漏れている。そっと開けると、王馬が険しい顔をしてノートパソコンと向かい合っていた。入間に気が付くとそうプログラミングされた機械のように、微笑みを浮かべた。
「入間ちゃん。どうしたの?眠れない?」
「腹減った」
「あぁ、ご飯テキトーにしちゃったもんね。何か食べる?卑しい豚が食べられるようなものあったかな……」
「……やっぱ寝るわ。オメーの邪魔になるだろうし」
 罵倒にも反応せず入間はその場で踵を返した。王馬には王馬の時間があるのだということをつい忘れがちになる。自室へと戻ろうとした時、背後からはブーイングが飛んできた。
「え。つれないなぁ。じゃあオレも寝よっと」
「なんだよ。忙しいんじゃねーのかよ」
「オレの組織のモットーは毎日がノー残業デーからね。嘘だけど!」
 慌ただしくパソコンを閉じる王馬の姿を見て、もし彼が許すのならばもう少しだけ話していたいと思った。入間は断られる覚悟で、言葉を紡いた。
「オメーの部屋、行ってもいいか」
「やだっ。襲うつもりね!ケダモノ!」
「襲うかよ」
「ホントかなぁ。お腹すいてオレのこと物理的に食べちゃうんじゃないの。そしたら人肉レポートを書いてよ!天国から一〇〇いいねあげちゃう!」
「気持ちわりーこと言ってんなって」
「エログロのグロの部分は苦手なんだね。よし、じゃあ今夜はオレの部屋で一晩中世界各地の猟奇事件の本を読み聞かせてあげるよ」
「うわ。めんどくせー野郎だな。あ?一晩中?」
「うん。部屋、来るんでしょ?」
 承諾の仕方が分かりづらいにもほどがある。大人しく部屋で寝た方が得策だった気がすると入間は早くも後悔をし始めていた。しかし、部屋には王馬が言ったような猟奇的な類の本はなく、漫画にファッション雑誌、小説やボードゲームなどが置いてあるだけだ。高校生らしい部分もあるのだなと感心していると、王馬が黒いカーテンを開けた。
「ここからも夜景見えるよ」
「うお。すげー」
 深夜帯独特のひっそりとした灯りが敷き詰められた街に歓声を上げる。
「こうしてると人の営みが目に見える気がして、感慨深いよね」
「夜の営みかぁ。夜景見てそんな想像するなんて変態だな」
「情緒ってものを知らないのかいキミは」
 情緒を知って何の得があるんだよと笑いながら、入間は駆けてベッドへとダイブした。入間が借りた部屋のものよりも広い、キングサイズのベッドだ。その広さのせいか、開放的な気分になりケラケラと笑いながら転がる。
「ちょっと、オレのベッドを汚さないで」
「汚してねーよ」
「存在が汚物なのに?」
 ピタリと動きを止め、なんだよとぼやく。王馬は何も続けなかった。カーテンを閉じる音を聞き、胎児のようにぎゅっと身を縮め王馬の動きを待つ。しかし、普段王馬が眠っている場所で目を閉じ、呼吸をすると突然自分のしていることが恥ずかしく感じられた。恋人でもない人間のベッドでこんなことは馬鹿らしい。起き上がろうとすると王馬が寄り添ってくる気配を感じた。
「な、な、何だよ!」
「え?修学旅行っぽくない?」
 予想外の言葉に王馬の方を向く。思いの外顔が近くわずかに距離を取った。
「修学旅行……あ、そういうプレイか?いきなりイメプはちょっとどうかと思うぜ!」
「そういう方向に持っていくのもどうかと思うよ」
 そのまま沈黙が続く。それを破ったのは王馬だった。
「消すよ?」
 ベッドサイドにあったリモコンを取り、灯りを消した。暗闇が二人を包む。暗闇はきっと人を大胆にさせる力があると入間は思った。知らず知らずの内に、隣にあるはずの体に手を伸ばしていたから。王馬の細い腕に触れる。骨ばっていると思っていたが意外と筋肉のある腕だ。そのまま腕を辿るようにして、手のひらに触れた。
「手ぇ冷た」
 王馬の声が耳元で聞こえる。
「オメーはあったけな。子供体温ってやつか」
 きっと自分の声も耳元で聞こえている。
「……不安?」
「少し」
「あの占い信じてるの」
「まぁ」
「大丈夫。一週間、何事もなく過ぎて、思い出として処理できるよ」
「そう祈っとく」
 そうであってほしかった。後で笑い飛ばせるような思い出になってほしかった。それでも、入間はこれだけは言っておこうと思った。
「神様は確かにいねーけど、それを恨んだりはしねーよ。オレ様は神様のいねー人生を肯定してやる」
「うん」
「ストーカーにつけ回されて最悪だったけど、だからこそ王馬とこうしていられる。それで良かった。そう思えるよ。そう思うことにする」
「え。やばい。ロマンス始まっちゃうじゃん」
「始まらねーから」
 小さな笑い声が暗闇に響く。
「王馬」
「なに」
「手、握って」
 王馬は無言で手を握ってくれた。その暖かい手を握り返し、入間は心地よい気分で目を閉じた。まどろみの中に落ちていくために。
 入間は、そして王馬も油断をしていた。きっと無事に一週間がすぎるのだと信じていた。あの占い師の予言はただの虚言に過ぎなかったと笑い飛ばせると願っていた。それでも祈りは虚しく。神様はどこにもいない。
三日目の夕方、それは起こった。


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