02


「おかえりゼロス」
「おう、帰ったぜ〜」

女物の香水の残り香を漂わせながら、ゼロスは夕方に帰宅した。そして私の側にきて、そっとキスをする。

―――他の女とキスをした、その唇で、私の唇を塞ぐ。

どれだけ祈っても、どれだけ叫んでも、もう彼が私だけを選ばないことを分かってしまっている。そんなことを理解してしまうこの脳味噌をかき回してぐちゃぐちゃに潰したくなった。それが分からないほどに夢をみていられたなら、それが分からないほどにバカな女だったら、どれだけ良かっただろう。

唇を離したゼロスに向かって、私は言った。

「今日は珍しく早かったのね」
「あぁ、急なパーティーに呼ばれてな。準備もあるし戻ったっつーわけ」
「パーティー?」
「そ。向かいの貴族のお嬢様がこないだ二十歳になったから、それを祝うパーティー。お前も来いよ」
「…私も行くの?」
「そんな堅っ苦しいパーティーじゃねぇって〜。わりとゆるーい感じのカジュアルなパーティーらしいし、お前もたまには外に出ろよ」

いつからだっただろう、ゼロスが私を名前で呼んでくれなくなったのは。

「いいよ、ゼロス一人で行ってきて。私、留守番してるから」
「ダーメ。今日はお前を連れてくって決めちゃってんの、俺さま」
「拒否権は?」
「ない」
「…珍しいね、ゼロスがそんなこと言うの」
「そんな気分だからな」
「…分かった、用意するわ」

諦めたように私がそういうと、ゼロスは笑ってまた後で迎えに来るとだけ告げて部屋を出て行った。ゼロスが出て行った後、私はクローゼットから紺色のシックなミニスカートのドレスワンピを取り出した。襟元には金の装飾がエスニック調に施されているから、地味になりすぎない。

これは私の20歳の誕生日のとき、ゼロスが私に買ってくれたもの。絶対似合う!と決め込んでこれを私にくれたんだけど、なんとなく恥ずかしくって1度しか着ていなかった。

今日は絶対、これを着よう。

黒いヒールのサンダルを履いて、髪はシンプルだけどお洒落に見えるよう一つに束ねる。メイクはパーティーだからしっかりと、だけど主張しすぎないように。服の装飾に合わせて、金色で大ぶりのピアスを着け、深く濃いマスタード色のストールを羽織った。

鏡で全身を確認する。特におかしなところはない…と思う。久しぶりの外出がパーティーだなんて、なんだか緊張するな。

でもこれがきっと、ゼロスと過ごす最後の夜。

軽く深呼吸をした。それと同時に、扉をノックする音。

「用意できたか〜?」
「うん、今出来たとこ」
「入るぞ」
「どうぞ」

扉の向こう側にいたゼロスが、赤い髪をなびかせながら部屋に入って来た。正装はしているものの、確かにいつもより随分と砕けている。あぁやっぱりかっこいいなあ、なんてぼんやりと思った。ゼロスはそんな私を呆然と見つめている。やはり変だっただろうか。

「…変、かな?」
「いや…別に」
「…やっぱり、行かないほうがいい?」
「なんでそうなる」
「あんまり変な格好で、パーティーなんて行きたくないし」
「誰が変なんだよ」
「私」
「どこが」

ゼロスは鼻で笑うと、つかつかと私に歩み寄った。品定めするかのように、私を上から下まで舐めるように見つめる。しばらくその行為を繰り返すと、ゼロスは満足したようで、しっかりと一度頷いた。

「よし、行くぜ」
「私も?」
「当たり前でしょーが」

ゼロスはしなやかで無駄のない動作で私の手を取ると、パーティー会場に向かって歩き出した。どうやら、お嬢様のお屋敷がその会場らしい。お祝いのパーティーだから当然か、となんとなく考える。

そんなくだらないことを思いながら、私の右側にある憎らしいほどに整った横顔を見つめる。切れ長の目から見えるアイスブルーの瞳が、綺麗で、大好きだった。長くてふわふわでさらさらな紅い髪も、匂いも、笑顔も、ぜんぶぜんぶ、大好きだった。

きっとこの先も、私はずっと、大好きなんだろうな、と思う。

見つめていると、アイスブルーの瞳と私の真っ黒な瞳がぶつかった。背の高い私は、ヒールを履くとゼロスとあまり身長が変わらない。

「俺さまの顔、なんかついてる?」
「別に、なにも」
「いくら俺さまが美しすぎるからって横ばっか見て歩いてたら、いつかずっこけるぜぇ〜?」
「そうだね、綺麗だもんね」

しっかりとそう答えれば、ゼロスは返答に困っているようだった。

「綺麗よ、ゼロス。すっごい綺麗」

今日は、今日くらいは素直に、思ったことを言ってやろうと思う。真っ直ぐに目を見ながら、普段言わないことも言ってやるの。そう、だって最後だから。

「今日のお前、なんか珍しいな」
「突然私を連れ出すゼロスだって十分珍しいでしょう?」

ほんとは私なんかいらないくせに。

「まあ最近あまりにも外出するとこ見てないから、ぱーっとやって元気になればいいと思ったわけよ〜」
「そっか、ありがと。そういうとこ、大好き」
「…ほんと、なんか調子狂う」
「ふふふ」

他愛もない話をしながら、私たちは会場に着いた。ワイルダー邸には当然及ばないものの、立派なお屋敷だ。会場に着くと早々に、私の手を優しくとっていたゼロスの手が離され、彼の周りに女たちが集まる。昼間に見かけたあの人も、いつかに見かけたあの人も、みんな遠慮なくゼロスに群がる。

「はいストップストーップ!俺さま体一つしかないのよ〜?順番順番!」

えらく楽しそうなゼロスに溜め息をついて、私はひとり会場内を彷徨った。

ふらふら、ふらふら。
ふらふら、ふらふら。

何かに手を付けるわけでも酒を飲むわけでもなく、まるで行き先を忘れた旅人のように、私はうろついた。どんなに見ないでおこうとしても、必ず視界に入ってくる、鮮烈な紅。

私が世界で一番、大好きな色。

きっと私は弱いから、彼を嫌いになれないまま、時間だけがゆるゆると流れていくんだろうということは何となく読めてしまう。そう、嫌いじゃない、嫌いになんてなれない、だから私は、綺麗な思い出だけを抱えて生きていきたいのだ。貴方のいない道の先で、強くあるために、笑っているために。

歩きつかれた私は壁にもたれて運ばれてきたワインに口をつける。視界の端で、相変わらず私の恋人は知らない女に囲まれている。5年もの歳月が、まるで無駄に感じた。パーティーに誘われ来てみても、結局私はひとりぼっち。

一度くらい、誰かの前で、貴方の隣に堂々と立ってみたかったよ。

私はワインを飲み干すと、静かに会場を後にした。視界の端で最後に見た私の恋人は、いつものように、薄っぺらい笑顔を貼り付けていた。



夜風が冷たかった。ストールを体に巻きつけて、自分の体を抱きしめるようにしてワイルダー邸に戻る。一階の大広間にセバスチャンがいた。ゼロスと共に出て行ったはずの私が一人で戻ってきたからか、不思議な顔で私を見つめる。

「ケイさま、どうなさいました?一人で夜道を歩かれると、ゼロスさまに叱られますよ」
「ん、ちょっと忘れ物」
「そうしたら私めがお届けに上がりましたのに…」
「ううん、そうじゃなくて、忘れ物を、残しにきたの」
「残しに?」

頭にハテナマークを浮かべて、さらに不思議そうな顔をするセバスチャンに曖昧に笑いかけると、私は二階のゼロスの私室に向かった。鍵を開け、扉を開ければ、懐かしい香りが私の鼻を擽り、私の決意をゆらゆらとゆらす。でも、ここで私が大人にならなければ、きっと先へは進めない。私は部屋の真ん中にある机の元まで歩き、その上に二つの金属をカチャっと音を立てながら置いた。

一つは、私だけが持つことを許されたゼロスの私室の鍵。もう一つは、今まで私とゼロスを縛り付けていた、シルバーリング。

こんなものがあったから、私は心のどこかで期待をしてしまってた。だけどもう、それもおしまい。私から全て手放すから、私から全部、終わりにするから。

スッと懐から一枚の写真を出した。すっかり色も褪せてしまっているけれど、この5年間、鍵と指輪と同じように、肌身離さず持ち続けていたもの。くしゃくしゃでぼろぼろで、褪せた写真の中で笑う、まだあどけない、あの日の二人。少なくとも、今よりは幸せそうに笑っている赤毛の少年にキスをして、私は写真を机に置いた。

これで本当に、全部おしまい。

私は名残惜しくゼロスの部屋を出た。階段を降りると、一階でセバスチャンが待っていた。

「ケイさま、会場までお送りいたします」
「ううん、大丈夫」
「しかし…」
「久々の外出だし、夜空でも見ながら一人で歩きたい気分なの。お願い」

両手を合わせてお願いすれば、少し渋ってはいたが、セバスチャンは了承してくれた。心から、礼を言った。今までお世話になった分も込めて心から、たくさん、たくさん。

ワイルダー邸を出て、私は迷うことなくメルトキオの街の方へ向かった。振り返るもんか、そう心に決めて。華やかな貴族街を抜けて階段を下りれば、そこはまだ少しだけ夜の賑わいを残したメルトキオの城下町。何度かゼロスと、ここで二人で買い物したな。

優しい思い出を振り返る。もう二度と来ない、あの優しい時間をかみ締める。

ぎゅっと目を瞑り、そして開く。優しくて温かい思い出だけを、心に宿して、私は歩き出した。

一人、精霊研究所に向かって。

 

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