17


総督府は大変な騒ぎになっていた。ロイドくんたちから面倒を見るように頼まれていた、ミトスくんがいなくなったらしい。総督府の中だけでなく、パルマコスタ全域に捜索活動を広げたものの、それらしい姿は見当たらない。きっとニールさんが私に手を焼いている間に、隙を見て逃げ出したのだろう。申し訳ない気持ちで一杯になった。危険が付きまとう彼らの後と追って行ったのだとしたら、その身に何があってもおかしくはない。もしかすると、命に関わる出来事に巻き込まれるかもしれないのだ。

罪悪感から、私も捜索を手伝うと買って出たのだが、あくまで私も彼らから預かった大切な客人と同等の扱いのようで、結局捜索活動の手伝いはおろか、いつもの部屋から外出することさえ禁止されてしまった。当然だろう、もしも私までいなくなったら、それこそ大問題になる。ここはニールさんの顔を立てて私が引くのが一番いい。


仕方なく部屋に戻った私は、ここへ流されてきてからずっと過ごしてきた部屋をぐるりと見渡した。何も持たずに流れ着いたとき、私のすべてはここから始まったことを思い出す。からっぽの部屋に、毎日少しずつ自分のものが増えて行って、ここが私の帰り着く場所なんだと強く思った。記憶のない私が最後に縋りつけるのはこの部屋で、夜にはゼロスの後ろ姿を思い出して、自分の薬指にキスをした。記憶を取り戻すべきか、取り戻さない方がいいのかと葛藤した日々さえ、今は懐かしい。

私は部屋の掃除と片づけをすることにした。せめてお世話になった気持ちも込めて、長いようで短い間使い続けたこの部屋を、綺麗にしておこう。


そうして片づけを始めてからしばらくしたとき、ふと思う。ゼロスは迎えに来てくれると言ったけれど、それが今日だとは限らない。ただ一言、すぐには来れないと、そう言われただけなのだ。明日なのか明後日なのか、危険な旅の途中だ、もしかすると1年先なのかもしれない。果たして私は、その日を待ち続けることは出来るのだろうか。

不安が胸を突き刺す。信じてもいいのだと、ゼロスは言った。そして私は、信じると言った。なら私は、ただ信じて待つことしか出来ない。例えそれが、10年先でも、それより先になるのだとしても。


考えれば考えるほど、どんどん気持ちが重くなる。ゼロスが裏切りを重ねた数だけ心を閉ざし、とうとう見放そうとまでしたのに、結局私はゼロスを手放すことなど出来なかった。ここで彼を待ち続けることは正解なのか不正解なのか、その答えは、10年後の自分に問いかける他ないのだけれど、未来の自分に尋ねられるわけもない。現実はいつだって、そう甘くはないことを知らしめる。

信じたいと願う心と、信じられないと疑う心が反発しあう。私の心はいつからこんなに忙しなく働くようになったのだろう。それとも完全に死んでしまっていた心が、記憶を取り戻したことで蘇っただけなのだろうか。


ふと、再び薬指にはめられたシルバーリングを見つめる。今までと変わらぬ輝きを放つそれは、私の波立った心をスッと静めていく。

ゼロスの心が欲しかった。5年前のあの日からずっと、それが私だけのものになればいいと、心の奥底で本当は思っていた。なんて見苦しくて重たい感情なんだろう。そう分かってはいるのに、心は次第に余裕を失っていく。ゼロスが平気な顔をして見知らぬ女を口説き、唇を塞ぎ、その腕で抱くたび、心の奥では何度も泣いていた。それでもそばに居られたらなんてバカみたいに耐え続けて、先に壊れたのは私の方。

もう二度とは戻れないと思っていたのに、今この指輪は私の手元で輝いている。ただいまとおかえりが一緒になって、今ここにあるような気がした。


大丈夫、大丈夫よ私。


言い聞かせて、何度か深呼吸をする。いつものように指輪にキスをすれば、不思議と寂しさは込み上げなかった。ゼロスも同じように、ここに唇を落としてくれたからだろうか。


『…やっと、見つけた』

『もう、ケイだけだ』

『キス、していいか?』

『迎えに来る、絶対に』

『信じて』


再会してからのゼロスの言葉を、次々に思い出す。今まで一度も、こんな言葉言わなかったくせに、今になって使うだなんて、本当にずるい男。そしてそんな言葉にほだされる私も、呆れるくらい単純で簡単な女だ。

でも確かに分かるのは、そこかしこに振りまく間に合わせの愛情なら、彼はきっとこんな言葉は使わないということ。

大丈夫、信じていよう。彼が一歩踏み出してくれたのなら、私も一歩踏み出して、強くならなければいけない。裏切りを許すのはきっと容易いことではないけれど、私の時間はまだこんなにも残されている。

一人になると不安が巡って、信じようとする気持ちはあっさりと揺らいでしまうけれど、私は信じると決めたのだ。


ふと思い出して、私は慌てて部屋のクローゼットを開け、奥の方を手当たり次第に漁る。あれこれとニールさんが買い与えてくれた服の一番奥に埋もれるようにして、それは片付けられていた。

手に取ったのは、あの日、私が来ていた紺色のドレスワンピ。もちろん、パルマコスタに流れ着いてからは、一度も袖を通したことなどない。海に流されて金の装飾は少し取れてしまっていたけれど、問題なく着れる状態で存在していた。

記憶をなくしてからの数日間、私はただただ恐ろしかった。だって自分が知らない自分のことを、このドレスは知っているんだから。

昨日よりも以前の自分を、今日から始まる自分は一切知らない。それがどれほど苦しいことかなんて、きっと誰にも分かってもらえない。愛されてきた記憶も、両親のことも、友人のことも、楽しかったこと、笑い合った人、抱いていたはずの夢、目覚めたときにそれら全てを失っているだなんて、一体誰が想像しただろう。

それらすべてを語るのは、あの日着ていた、このドレスだけだった。知らないことは悲しくなかった。けれど、自分が自分の素性を知らない中で、目の前に手がかりがあるのに何も思い出せない苦悩が、精神的に私を追い詰めた。

それが苦しくて、私はこれを見えない場所に閉じ込めた。捨てる勇気もない、思い出せるきっかけにもならない。


だったらいっそ、忘れてしまえ。


そう思った私は、クローゼットの奥底にドレスを閉じ込めて、知らない自分を知らないままにしていたから、過去のことを思い出し始めるその日まで笑っていられた。穏やかで、優しい気持ちで、日々を生きてくことができた。

でももう、それもおしまい。

すべてを思い出した今、このドレスを隠しておく必要はない。だってゼロスが私にくれた、大切なドレスなんだから。


ドレスを抱きしめて、窓から空を見上げる。この空が続く先には必ず彼がいるのだから、心配なんていらない。

言い聞かせて、私は静かに祈った。
ゼロスがどうか、無事に帰って来てくれますようにと。

 

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