16


翌日、まだ昇りきらない朝日がカーテンの隙間から覗く部屋の中でゆるゆると目覚めれば、隣りには安らかな顔で寝息を立てているニールさんがいる。覚醒しきらない頭はぼんやりとしていて、まぶたが妙に重たい。そこで昨夜散々泣きはらしたことを思い出した。私を包み込むようにして回されたニールさんの腕は、まるで大切なものを守っているかのようで、それが分かってしまった途端、例えようのないほどの罪悪感に襲われた。

―――ゼロス。

目の前にいる彼をすり抜けて、私の心はもう赤い髪の神子ばかりを想う。別れを告げたのは私のくせに、どうして今更彼を想うのだろう。散々裏切られて、心は確かに疲れきっていたはずなのに、過去を捨てて新しい幸せを掴みたいと願っていたはずなのに、今目の前で眠っているニールさんの顔を見ていると、泣きたくなるほど切なくなった。


何を信じればいいのか分からないだなんて、嘘だ。
ゼロスが私を求めてくれた。世界を飛び越えて、私を探してくれていた。その事実が私の寂れた気持ちを優しく痺れさせて、止まってしまった感覚を取り戻させる。足りなかった感情はあっという間に満たされて、こんなにも嬉しさを感じている。眠ってしまえばこんなにも冷静に全てを受け入れられるくせに、どうして昨夜、私はニールさんに手を伸ばしたのだろう。

少し考えてみれば簡単なことだ。自分自身が苦しいとき、自分が大切に思う人に縋りつくのは、自分自身を苦しめることにもなる。大切だからつらい思いをさせたくない、大切だから迷惑だってかけたくない、自分のせいでつらい思いをさせてしまう、そう思ってしまうと、どうしても一歩が踏み出せない。そんなとき、自ら救いの手を差し伸べてくれる人間がいれば、軽い気持ちで縋ってしまえるのだろう。私がニールさんに救いを求めたように。結局その選択が、自分自身だけでなくすべての人たちを傷つけることになると知るのは、いつだって間違った後だ。

本当はゼロスも、こんな気持ちだったのかな。

そこまで思って、やめた。
まるでゼロスが5年前からずっと私を愛していたのだということを、あっさりと認めてしまうみたいで、バカらしい。私から突き放しておいて、今更ゼロスの甘い愛の言葉にほだされて、結局私は何がしたいんだろう。

ゼロスの女遊びに口は出さない、そう決めたから、自分でも嫌になるほどに汚いこの感情を閉じ込めたはずなのに。ゼロスは私が大切だから手を出せなかったなんて、心の奥底でそうあってほしいと私が願っているだけだ。彼が私だけを求めない理由を、そう思い込むことで無理矢理こじつけているだけだ。もしかすると私の存在そのものがゼロスの重荷になっていたのかもしれないなんて、そんなことを考えたくないだけだ。


そうして私の中で出来上がったの二人の人格が、ゆらゆらと揺らめく。ゼロスと私をつなぐ楔を解放してお互い自由になりたいと叫ぶ自分と、ゼロスに縋りついてもう一度一緒に歩いていきたいと願う自分。私の中で生まれてしまった二人の気持ちを天秤に掛ければ、どちらが傾くかなんてことも分かりきっている自分が悔しい。天秤に掛けたその瞬間、選ばれなかった私の中の私は死んでゆく。

結局私は、ゼロスがいないとこんなにも腐敗していくのだ。

まだ眠るニールさんの腕を音もなくすり抜けて、人気のない総督府をぺたぺたと歩く。素足から伝わる床の温度が、ひどく冷たいように感じた。ふらふらと覚束ない足が目指すのは、まだ動き始めていないパルマコスタの街の中。寝起きでこんなにひどい顔をして、よく働かない頭を引き連れて、それでも彼に会いたかった。



パルマコスタの入り口で、見慣れた赤を見つけた。見つけたところで、今の私は声なんてかけることも出来ないのに。ただどうすることも出来ずに、少し離れた場所から今にも街を出ようとする彼らの背中を見つめた。今ここで駆け出してゼロスに抱きつく強さも、置いていかないでと訴える強さも、残念ながら私は持ち合わせていない。


ゼロス


声は声にならずに、乾いた唇だけが彼の名前を辿る。
届くわけがない、届くはずなんてないのに、

ゼロスが、振り返った。

大好きなアイスブルーの瞳が真っ直ぐに私を射抜くと、ゼロスは驚いたように私を見つめた。歩み始めていた彼の足が止まり、そして気付く。

あぁやっぱり、私が存在することで、私は彼の進むべき道を塞いでいる。

そう思ってしまうと、やはり私がゼロスを選ぶことは間違っているような気がして、どうしようもない喪失感が背筋を這い上がる。ゼロスを手放そうと決めたあの夜の私は、一体どこへ行ってしまったのだろう。こんなにも醜い私を晒して、ゼロスが私を受け入れるわけがない。

もう帰ろう。きっと私が帰るべき場所はここじゃない。そう思ってゼロスに背中を向けようとすると、ずっと求めていた声が私を呼んだ。

「ケイ!」

そしてあっさりと、私の足は動くのをやめる。金縛りにかけられたみたいにピクリとも動かない体と、名前を呼ばれたことで妙にはっきりとしている頭。どうにも出来ずに固まったまま、私は静かにゼロスを見つめた。

「悪いロイド、ちょーっと待っててくれや」

飄々とした口ぶりでそう言ったゼロスは、足早に私の傍まで来ると、間髪いれずに私を抱きしめた。苦しいほど強く私を抱きしめるゼロスの腕の中は、不思議とちっともつらくはなくて、安心感だけが私を包み込む。湧き上がった喪失感は、ゼロスに包まれた瞬間に消え去ってしまった。


ゼロス


もう一度、声にならない声で彼の名前を紡ぐ。聞こえてるはずなんてないのに、優しい声でゼロスは言った。

「大丈夫、ここにいる」

その言葉は驚くほど自然に私の中に染み込んで、ごちゃごちゃと私を支配していたはずの思考がみるみるうちに晴れていく。それはまるで、霧の立ち込めた暗い森に、光が差すように。

込み上げる涙を我慢することなんて出来なくて、ぼろぼろと瞳から溢れ出すそれらを止めることもできないまま、震える腕でゼロスの背中にしがみついた。なぜかゼロスは嬉しそうに少しだけ笑うと、ほんの少しだけ腕の力を強める。


あのね、ゼロス。


言いたいことは、伝えたいことは、こんなにも溢れているのに、私の声は肝心なときに何の役にも立たない。ありがとうも、ごめんねも、ゼロスの好きなとこも嫌いなとこも、つらかった日々も、私はまだ何一つ、彼の心に届けていない。必死に声を出そうと足掻くけれど、ゼロスはそんな私をやんわりと制するだけだ。

「無理しなくていいって言ったろ、ケイ」
「―――!」
「だーいじょうぶだって」

ゼロスは明るくそう言って腕の力を緩めると、私の額にキスをした。思わず硬直する私のことなどお構いなしに、ゼロスは続いて私の髪にキスをする。そんなゼロスと目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。

「迎えに来る、絶対に」
「…」
「どーも今から面倒なことになりそうで、すぐには迎えに来てやれねぇんだけどな」
「…」
「待ってて、くれるか?」

いつも自信満々のゼロスが、少しだけ声に不安を乗せている。綺麗な瞳をじっと見つめれば、真っ直ぐに私を見つめ返してくるそこに、嘘は見えなかった。


―――もう一度、信じてもいい?


唇だけでそう告げれば、ゼロスは私の額に自分の額をコツンと合わせて、まるで祈るように、ともすれば縋るように続けた。

「信じて」

言葉に出来ない思いはなぜかちゃんとゼロスには伝わっていて、それだけで単純な私は満たされる。あぁ、私は、何も知らない子どものように、あなたを信じてもいいのだろうか。

「都合のいい話だってのは分かってる。でも、信じてくれ」

5年前、幼かった私は残酷な未来など知ることもなく、ずっと笑っていた。幸せな日々が続くとあの頃は思っていて、こんな風に悲しみを押し殺す日々が私を食いつぶすなんて思ってもいなかった。崩壊した夢のような日々はもう二度と戻らないのだと諦めて、心を痛めるだけの日常を繰り返しながら、私はあの頃の気持ちをセピア色に染めた。

だけど今、ずっと求めていた人が私の目の前で、私に向かって、私を求めてくれている。もう終わりにしようと誓ったのに、そして昨夜は彼の言葉を信じられなくてあんなに泣きじゃくったのに、見たことのないくらい真っ直ぐなゼロスの瞳と決意を秘めた声に、呆気なく流される。胸が詰まって、なんだか息をするのも精一杯だ。私にはもう、頷いて彼を受け入れるという選択肢しか残されていない。

もう一度だけ、信じよう。
傍から見ればこれはただの依存なのかもしれない。けれど、私の心は確かにゼロスを愛しているんだと訴える。それは誤魔化しきれないくらいに確かな思いで、自分で抑えきれるほど生温いものではない。

ゼロスは私が頷いたのを見ると、ほっとしたように笑って、そっと体を離す。

「ありがとな」
「…」
「ほら、もう戻れ。そんな格好でウロウロしてたら風邪ひいちまうぜ?」
「…、…」

離された体がひどく寂しくて、求めてしまいそうになる自分をぐっと制する。迎えに来てくれると、ゼロスは言ったのだ。せめてゼロスの邪魔をしてはいけない。

そんな私の葛藤を知ってか知らずか、ゼロスは私の左手を取って、指輪にそっと唇を預ける。帰ってくると、約束してくれているようにも見えた。

名残惜しそうに唇を離したゼロスは、ポツリと呟いた。

「…お迎えだ」
「?」

そう言って私の体をくるりと反転させる。すると目の前には、表情を強張らせたニールさんが立っていた。きっと私がいなくなって、慌てて迎えに来てくれたのだろう。

「つーわけで」

さっきまでのゼロスは嘘のようにいなくなって、いつものおちゃらけたゼロスが現れる。

「コイツ、俺さまのだから。手ぇ出すなよ」
「…」
「俺さまが迎えに来るまでちゃ〜んと面倒みとけよ?」
「…あぁ」

軽い溜め息をつくと、ニールさんは肩をすくめて少しだけ寂しそうに笑ってみせた。それがどういう意味か、分からないほど鈍くはない。ニールさんが私を手放したのだ。

それがやっぱり申し訳なくて、つい私の表情も暗くなってしまう。俯く私の脳天に軽い打撃がお見舞いされて反射的に顔を上げると、ゼロスがムスッとした表情で私を見下ろしている。

「俺さまのこと選んだろーそんな顔すんなよ」

それはなんだか拗ねた子どもみたいで、そんなゼロスを見たのも初めてで、私は思わずポカンとするばかりだ。私たち二人の光景がどんな風に写っていたのかはわからないが、突然ニールさんがクククッと声を上げて笑った。

「心配しなくても彼女はちゃんと守っておきますよ、責任を持って」
「…頼みたくはねぇけどな」
「そのかわり、ケイが心変わりしたときは門前払いですよ」

ニールさんはそう言いながら私の手を引っ張ってゼロスと私を遠ざける。より一層不機嫌そうに眉間にしわをよせたゼロスは、つまらなさそうに答えた。

「お前性格悪ぃな〜」
「あなただって」
「…ま、いいか。ケイ、いい子で待ってろよ」

そう言ってゼロスは手を振って仲間たちの元へと去っていく。ゼロスたちが見えなくなるまで見送ると、ニールさんが私を呼んだ。見上げれば、やっぱり少しだけ寂しそうにニールさんが笑っている。私は彼を、選ばなかった。

「帰ろう、そんな格好じゃ風邪をひいてしまう」
「…」
「風邪なんてひかせると俺が怒られるからな」

そう言って私の手を取ってゆっくりと歩き出した。私も彼の少し後ろをゆっくりと着いていく。繋がれた手からこれで最後だという想いが伝わってきた途端に、涙が溢れて止まらない。

ごめんなさい。

そう言いたいのに、声は出ない。私が泣いていることには気付いているはずなのに、ニールさんは私を振り返らなかった。それは紛れもなく、ニールさんの優しさ。あえて突き放すのは、私がこれ以上迷って苦しまないように。

たくさんのありがとうを、伝えられなくてごめんなさい。

いつまでも届かない声は、朝焼けの空に消えた。

 

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