天正六年、冬。
始まりは、静かに雪の降る寒い日だった。


零、日陰の村


『呪いの山』、人々はこの山をそう呼んでいた。
整備されていない急な山道、地上まで根を轟かせる密集した大木、日の光が差し込まないその山には雑草と毒草ばかりが生い茂り、更には異様な数の毒蛇が住みついている。危険で陰鬱なその山に立ち入る者はそういないが、好奇心で踏み入った者や迷い込んだものは、例外なく神隠しに合うという。

山麓の村々はこの山を恐れ、悪しき神や悪霊の類が住んでいるのだと口を揃えて云う様になり、やがて『呪いの山』と呼称を変えた。麓の村の長たちは、この山を決して立ち入ってはならぬ地だと定め、唯一山へ踏み入ることが出来る小さな獣道の入口に頑丈なしめ縄をつけた。山の入口を封じるやけに大きなしめ縄と、優雅に揺れる紙垂があまりにも不気味で、たちまち人々は寄り付かなくなった。


そんな『呪いの山』の中に、その村は在った。
山の中腹は濃い霧が立ち込め、麓よりも更に強い毒性を持った毒草が生い茂っている。それをもう少し進んでやっと、陰鬱な気配に守られたその村は姿を現すのだ。

『日陰の村』―――麓の村の住人ですら存在を知らないその村は、太陽の光があまり差し込まず、作物も多くは実らない。外部から完全に遮断された、貧しく孤独で静かな村だ。それでもその村の住人達は、不便さに不平や不満を感じる事もなければ、より豊かな生活を望む事もない。息を殺すようにひっそりとその場所で暮らしながら日々を数えて、ただじっと"その時"が来るのを待っていた。


 ● ●


その日、日陰の村にはしんしんと雪が降り積もっていた。元々日の差さない村ではあるが、雪の影響でいつもよりも薄暗く、日中だというのに数歩先を見るのがやっとだ。
そんな足場の悪い山道を慣れた様子で、それでいてふらふらと背の高い女は歩いていた。血の気の少ない顔は青白く、骨ばった体は枝のように細い。その細さのせいで、寒さを凌ぐ蓑が随分大きく見えた。長身を隠すようにして背中を丸めながら、蓑に着られた不格好な姿の女は、薬草を積んだ籠を背に担いで歩を進めている。

女がやってきたのは、村からほんの少し外れた処にある小さな小屋だった。小屋に入った女は真っ先に囲炉裏に火をくべて室内の暖を取ると、ようやく重々しい蓑を脱いだ。囲炉裏の傍に雪で湿気た薬草を並べ、乾くのを待ちながら質素な食事の準備に取り掛かる。鍋に水と野菜と味噌を加え、火が通るのを無言で待った。

そうして野菜に火が通った頃、突然ガタガタと乱暴な音を立てて小屋の扉が開く。

「ヒイィィィ!?」

余りに突然の出来事に、女の体は盛大に跳ねた。危うく鍋ごと引っくり返す勢いで飛び上がった女は、上ずった情けない叫び声を上げて、今にも口から飛び出しそうな喧しい心臓を押さえつける。
扉の目の前には、随分体格のしっかりした見ず知らずの男が立っていた。浅黒い肌は血に塗れていて、高い位置で一つに束ねられた黒く長い髪は、雪と血液で乱雑に絡み合っている。

「イヤァァァァ!?なっ、なっ…何!?」

女は物凄い勢いで後ずさりすると、あっさりと背中を壁に打ち付けた。腰が抜けてしまい、もう震える事しか出来ない。これまでの短い人生で経験したことのない状況に混乱した女は、盛大に声を上げて発狂した。

「誰!?何!?帰って!!!早く何処かに行って!!!!」

女がそう叫んだ時、男はずしりと重い足取りで一歩近付いた。咄嗟に女は死期を悟る。こんなにも突然死は訪れるのか、と思うと、もう声も出なかった。祈るように両手を握り、力強く目を瞑る。
死の間際まで自身の血を憎みながら体を強張らせた瞬間、べしゃりと嫌な音を立てて何かが倒れた。同時に地面が揺れて、女も肩を大きく揺らした。それからどれだけ待ってみても、痛みや苦しみはやって来ない。女は恐る恐る、ゆっくりと目を開けて男の方へ視線を寄越す。

そこに男は立っていなかった。立っていない代わりに、目の前でぴくりとも動かず倒れている。どうやら足を前に出した際にそのまま倒れこんだらしい。腰の抜けたままの女はそのまましばらく動けなかったが、必死に数回深い呼吸をしながら息を整えると、覚束ない体を引きずるようにそうっと男に近付いた。

ある程度距離を保ったまま、女は震える指で数回男を突いてみる。それでも動かないので、今度は手のひらで数回男を軽く揺すってみたが、やっぱり動く気配はない。女は震えて動かない体をどうにか動かして蓑を手に取ると、何とか立ち上がろうと試みる。早く逃げなければ、と脳は必死に警鐘を鳴らしていた。

「…ぐっ…」

女が立ち上がろうとした瞬間、男は小さく呻き声を上げた。その声に驚いた女は、また腰を抜かして座り込んでしまう。いっそ座ったままでも逃げよう、と思い至った女は、男の脇をずるずると抜けていく。動かない大男を横目でちらちらと確認していた女は、その脇腹を見てヒュッっを息を零した。

男の手のひらで抑えられていた傷は、思いの外深く刺された傷があった。よくよく見れば、血塗れなのは返り血だけではないようで、そこかしこに酷い怪我を負っている。

その傷を見て、女は瞬時に思考を巡らせた。
此処で逃げれば恐らく自分の命は助かる。けれど、この男は間違いなく此処で死ぬだろう。ましてや此処は『日陰の村』、余所者であるこの男に村の事を知られてしまっては、生かしておくわけにはいかない。此処で死んでいくのを待つのが最善だ。

けれど―――

女はぎゅっと唇を噛むと、震える足にこれ以上ない力を込めて立ち上がり、冷たい空気が入らぬよう玄関の扉を閉めた。小屋の奥から大きな薬箱を引っ張り出すと、急いで湯を沸かす。男の衣服をどうにか脱がせて傷を見ながら、女は数回息を吐く。

女はこの村でたった一人の医師だった。といっても、普段は薬師の真似事のような事しかしていない。こんな大掛かりな傷の処置は本でしか読んだ事がなく、実践するのも生まれて初めてだった。

脳内に収めた医学の知識を必死に引っ張り出し、女は腹を括る。この男を助けて仮に殺されたら、その時はその時だ。これ以上自分に流れる呪われた血に縛られずに済むということだ、と必死に心に云い訳をして、女は未だ震える手で処置を始めるのだった。


 ● ●


遠くの方から、緩やかに穏やかに、意識が戻っていく。薬品と薬草の香りが鼻を刺激したところで、男は重い瞼をようやくこじ開けた。まだ覚醒しきらないぼやけた視界を慣らすように何度か瞬きをし、最初に目に入ったのは見慣れない天井だった。周囲を見渡そうにも、顔を動かすのも億劫なほど体が重い。そういえば、全身酷い痛みで満ちている。

余り思考も上手く働かず、男は天井を見つめたままぼんやりとしていたが、結局考える事も億劫になりそのうち疲れて再び目を閉じた。するとしばらくして、そっと額にひやりとした感覚が触れ、男はゆっくりと目を開く。目の前に広がったのは、美しい柔らかな金色だった。まるで琥珀を薄めたようなそれはやけにきらきらと輝いていて、男は思わず視界を奪われる。それからようやく、赤い瞳と目が合った。

赤い瞳は驚いたように目を丸くして男を見つめたまま固まってしまった。その瞳の持ち主を、男は静かに観察する。
ウサギのような赤い瞳の三白眼、青白い肌、薄い唇、そして琥珀を薄めたような美しい金色の髪―――目の前にいるこの世のものとは思えない女の、冷たく細い手のひらが遠慮がちに自身の額に触れている。それが妙に温かかった。


「―――綺麗だ」


男は女の赤い瞳を見つめながら、真っ先にその言葉を呟いた。女は何も言えずに固まったままで動かない。

男は不思議と目の前の女に触れたくなった。本当にこの世のものであるかどうか、確かめたくなったのかもしれない。いつになく重い腕を持ち上げて目の前の女の髪に触れると、女はびくりと体を震わせて、少し怯えた瞳を男を見つめる。それでも男はお構いなしに、女の細い金糸を梳いた。不揃いに切り添えられた肩かかる程度の髪は、毛先に向かって波打つようにくるくると遊んでいる。

男はそのまま女の顔に触れた。女は体を強張らせてぎゅっと強く目を閉じてしまうが、それでも男はぼんやりとしたまま、目の前にいる女から手を放そうとはしない。冷たい、肉のない頬だった。その感覚を確かめながら、男は小さく口を開く。

「…名前」
「……え?」

男からの突然の言葉に、女はたっぷりと間を開けた後で気の抜けた声を上げた。思わず目を見開く。男の黒い瞳は、真っ直ぐに女を見つめていた。

「あんたの名前は?」

抑揚のない低く響く声だったが、不思議と恐怖は感じられなかった。だが緊張が解けたわけではない。女は少し声を詰まらせてから、小さな声で答えた。

「みっ、御影…」

女の回答を確かめるように、男は『みかげ』と云った女の名前を小さく何度か繰り返す。まるで此処にいる事を確かめるかのように。

思わぬ男の反応に、女は―――御影は戸惑いを隠せずにいた。つい先程まで本当に殺されると思っていただけに、目の前の男の反応は余りにも斜め上過ぎたのだ。何を話す事が正解なのか、何を訊ねる事が正解なのか、もう御影にも分からない。

御影は男に倣って、恐る恐るその左頬を青白い手で包み込んだ。男は眉一つ動かさず、じっと御影の顔を見つめたままだ。居たたまれなくなった御影は、男の左頬にある古傷をそっとなぞってみる。それでも男の表情は変わらない。

「〜〜〜あっ、あの!」

その空気に耐えられなくなって、御影は思わず声を上げた。引っくり返ってやけに変な声が飛び出てしまい途端に恥ずかしくなったが、勢いづいてしまった言葉は取り消せない。

「貴方の名前は…!?」

目を泳がせてしどろもどろになりながら飛び出した言葉は、体を気遣うでも此処へ来た目的を訊ねるでもないものだった。全力で悔やんで肩を落とす御影を見つめたまま、男は静かに口を開く。

「………小太郎」
「…へ?」
「俺は、小太郎。あんたの忍だ」
「え、あ、私の…って、えぇぇ!?」

突然の告白に訳も分からず御影は叫ぶと、勢いのまま後ずさった。小太郎と名乗った男はそんな御影の事などお構いなしに、ふっと笑みを零して続けた。


「決めた、あんたを俺の主君にする」


勝手に決められても!と御影は心の中で精一杯叫んだものの、それが伝わるはずもない。顔を赤くしたり青くしたりしながら口をパクパクさせたままの御影などお構いなしで、小太郎は幸せそうに眼を閉じると、あっさりと眠りについてしまった。

結局何も大切な事を話すことも聞くことも出来ずに、この日を境に二人の主従関係は一方的に結ばれてしまったのであった。


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