天正七年、春。
山を覆った雪が解け、日陰の村にも春の陽気が舞い込んだ。

日の差さない薄暗い村にもぽつぽつと花が咲き、厳しい冬を耐え抜いた作物が実る。静かに穏やかに年を越し、ようやく訪れた暖かい季節を迎え"誰も失うことなく日々を生きられた事実"に人々はいつも胸を撫でおろす。幾年過ぎても変わらない、仄暗い村の静かな春。

しかし、今年の春は全く違っていた。


一、歪な主従


荒れた山道は、山道と呼べるような道ではない。人が歩くには過酷な道だ。その道を、御影は慣れた様子で進んでいく。歩く度に揺れる卵色の髪から覗く顔は青白く、いつも通り不健康な顔をしていた。細く骨ばった体に背負った籠には、薬草がたっぷりと詰められている。

村から少し離れた小屋に到着すると、御影はそこに腰を下ろして一息ついた。此処は彼女が構える診療所だ。

といっても、御影の医学の知識は独学で、やっている事といえば薬師の真似事のような事だけだ。毎日薬草を摘んで薬を調合し、時々巻木綿を作る。作った薬は村に持ち帰り、村の中にある共有の保管庫にしまっている。また、家庭によっては毎日必要な薬や数日に一度だけ必要な薬もあるため、保管庫の中に置かれている各家庭専用の箱へそれぞれの薬を分配するのも御影の役目だった。

御影は名目上診療所を構えてはいるが、人は殆ど寄り付かない。年に一度か二度、大きな怪我や急な病人が出た時にだけ、思い出したように利用される。御影自身、それでいいと思っていた。

御影はその見た目から鬼の子と恐れられ、村の中では異端な存在だった。生まれた時から忌み嫌われ、実の父母にも邪険にされ、ぞんざいに扱われてきた。幼少期には石を投げられ、理不尽な暴力を受けた事も少なくない。

ある程度成長すると急激に背が伸び、今では女でありながら五尺を超える長身に成長したこともあって暴力の類はなくなったが、それがより一層気味悪がられることとなり、人々は御影を避けるようになった。

それでも、御影は愛されたかった。少しでも自分という存在を認めてもらいたかった。この小さな村でお役目と掟に縛られ、外の世界に逃げる事も許されない現状を耐えうるだけの暮らしは、頼れる者がいない御影にとっては過酷過ぎたのだ。

そこで御影は医学の知識を身に着ける事にした。村には医者と呼べるような人間はいない。過去には医者のような立場の者もいたが、皆年老いて亡くなってしまい、それ以降医学に興味を持つ者は現れなかった。少しでも村の役に立てるようになれば、きっと皆は愛してくれる。その思いだけが御影を動かしたのだ。

先人が残した村にある医術書を血眼になりながら何度も何度も読み漁り、記された全ての内容を記憶した。更には記憶だけでは役立てぬと考え、自身の体で毒と薬を繰り返し試し、わざと自身の体に傷をつけて縫合の練習まで行った。新たな薬の開発にも成功し、本に記されていないものを書にまとめて村長に献上もした。

全ては愛されるため。
誰かにほんの少しでも頼られ、感謝され、笑顔を向けて欲しかったから。

しかしそんな御影の思いも空しく、村に保管庫を設置され、そこに必要な薬を置いておくよう指示されただけだった。診療所としてあてがわれたこの小屋も、以前村で医師をしていた老人が同じように薬を作るために使っていた場所だ。結局村人達は、御影の作る薬だけを必要とし、御影自身を受け入れることはなかった。

そしてとうとう、御影も愛されることを諦めた。愛されたい、大切にされたい、認められない、そう思うことに疲れてしまったのだ。
欲を出すことに疲れてしまった心では、現状を受け入れて考える事を放棄する方がずっと楽だ。村で薬師は自分だけなのだから、同じ毎日を繰り返していれば暴力は振るわれない。人に関わらない生活をひっそり続けていれば、自分に向けられる悪意に怯えることもない。そうして御影は、自分の心を閉ざして分厚い鍵をかけた。

生まれてから十八年、そんな暮らしを強いられてきたお陰で、御影は人と関わる事を恐れるようになってしまった。人の顔色ばかり窺うくせに、目を見て会話する事が出来ず、上手く言葉を発せない。他者と関わる事も物事を伝える事も苦手な上、表情も乏しい。気付いた時には、自身を愛する事の出来ない、卑屈でひねくれた人間が出来上がっていた。

人間は嫌いだ。
関わったって、碌なことがない。

逃げることも許されず、過ぎ行く毎日はいつも静かで仄暗い。寂しさにも、もう慣れてしまった。そんな日々が過ぎるのを待って、いつか来る運命の日に、この血の役目を果たすだけだ。どれほど自身の血を呪おうと、この小さな世界から飛び立つことは叶わないのだから。


―――なんて、そう思っていたのに。


「御影様!!!」
「ヒィィィ!?」

何の前触れもなく唐突に、ガターンという大きな音を響かせて診療所の扉が開かれる。それと同時に、扉はバキンと音を立ててあっという間に壊れてしまった。一体どれ程の力で扉を開ければ、バキバキと扉を壊すことが出来るというのだろうか。
扉を開けた張本人は、その壊れた扉をきょとんとした顔で見つめた後、すぐに御影に顔を向けて少年のように屈託なく笑った。その笑顔は余りにも眩しい。

「すみません御影様、またやってしまいました!」

浅黒い肌に悪意のない表情を浮かべながら元気にそう言ったのは、以前御影が助けた男、小太郎だった。その片手には、大きな体に似合わない兎をぶら下げている。

「あああ貴方…一体何度目だと思ってるの!」
「これで五度目です!」
「早く直して!」
「はい!でも先に飯にしましょう!兎を捕ってきました!」
「肉は嫌いと云ったでしょう!?」
「御影様は偏食過ぎます!肉も食いましょう!」
「要らないったら!」
「俺が捌きます!食べやすいように小さく切るので安心してください!」
「だから要らない!」
「そうと決まればさっさと捌いてきますね!」
「話を聞いて頂戴!」

鼻歌を歌いながら小屋の外に出た小太郎は、その脇でさっさと兎を捌き始めてしまった。御影はげんなりしながら盛大な溜息を吐き出す。小太郎を助けたあの日から、何故か小太郎は御影を自分の主君だといって着いて回るようになったのだ。

小太郎は、元は伊賀の忍らしいのだが、伊賀を抜けて御影に仕えながらこの村で暮らすといって聞かなかった。しかし日陰の村は、掟として余所者の介入を強く禁じている。当然、御影は何度も小太郎を突き放したものの、小太郎は全く気にも留めない様子で居座り続けた。

そしてある日、とうとう痺れを切らした村の男衆に殺されそうになったのだが、あっという間に返り討ちに合わせてしまって今に至る。まさに力づくだ。あの日、死人が出なかったのは不幸中の幸いだろう。

それ以降、小太郎は常に御影の傍を離れなかった。そのせいで村の人々は、より一層御影と距離を置くようになってしまったのである。

御影の静かで小さな世界は、小太郎の登場で瞬く間に消え去った。小太郎は毎日飽きもせずくだらないことをべらべらとよく喋り、偏食で食の細い御影の世話を甲斐甲斐しく焼く。とにかく御影の役に立ちたい一心で、あれやこれやと口を出し、何でもかんでも手を出そうとするらしい。

他者とはしっかりと距離を保ちたい御影とは相対して、人の心に挨拶もなく踏み入って荒らし回る小太郎は、彼女にとって嵐よりも強大な災害のようなものだった。



小屋の外から聞こえるご機嫌な鼻歌は止まない。お世辞にも上手いとは言えないその音を聞きながら、御影はもう一度深く溜息を吐いた。少なくとも、求めていた人との関わりはこういう形のものではない。まして自分は主君などになったつもりはなく、きっぱりと拒絶しているのに、左頬に傷のあるあの大男は全く聞く耳を持たない。きっと彼の耳はただの飾りなのだろうと結論付けて、御影はしぶしぶ薬の準備に取り掛かる。

黒焼きにした薬草を粉砕してまずは塗り薬を、それから複数の薬草を煎じて解毒作用のある薬草茶を。村の各家庭が必要としている薬を必要な分だけ準備して持ち帰り、あるべき場所に正しく保管する。それだけが、今御影に与えられている仕事だ。過去の経緯を思えば、それだけでも十二分に満足すべきだろう。高望みしても心が疲弊するだけだ。御影はそう結論付けてこの生活を受け入れてきたからこそ、波風を立てず静かに暮らしてきた。

その気持ちを胸に留めながらしばらく無心で薬を作っていた御影だったが、鼻歌が近付いて来てふと意識を逸らす。呆れたように視線を向ければ、玄関で小太郎が白い歯を見せて笑っているのが見えた。

「御影様!休憩です!飯にしましょう!」
「い、いや、空腹ではないから…」
「そう云って云い訳して、いつも食べないじゃないですか!だからいつも血の気がないんですよ!さ、早くそれを片づけて、飯にしましょう!」
「…」

気付けばこんなやりとりも日常になっていた。御影は諦めて何度目かの深い息を吐ききると、無言で薬作りを一度止める。こうなったらもう、小太郎は言う事を聞かない。例え御影が折れなくても、強制的に小太郎は片付けを始めてしまうだろう。そうなると余計に手間が増えるだけなので、大人しく従う方が良い事を御影はすでに学んでいた。

これでは何方が主君か分からないな、という言葉が沸き上がってきたが、それを声にしたところで何も意味がないので、喉の上まで出かかった感想は無理矢理飲み込む。ちらりと小太郎に目をやると、相変わらず上機嫌な様子で囲炉裏の鍋をぐるぐると掻き回している。肉と野菜の入った鍋からふわりと良い香りが漂って、御影の食欲をやんわりと刺激した。

「…食べたらすぐ扉を直して」
「はい!もちろんです!」

目を合わさずに御影が言えば、小太郎は御影に笑顔を向けて答えた。御影はその笑顔に視線をやることはなかったが、どんな顔で笑っているのかは容易に想像が出来る。吊り上がった凛々しい目尻を下げて、白い歯を見せながら、くしゃりと少年の様に笑うのだ。年齢よりも幾分か幼く見えるその笑顔は嫌いではないが、どうにもそんな顔を見るのは気恥ずかしいものがある。

なぜなら御影は、その笑顔が自分だけに向けられているという事を、いい加減理解していた。小太郎は他の村民にひとかけらの笑みも与えず、興味も持たない。分かりやすいくらいにはっきりと線引きをして、御影だけに関わろうとするのだ。人の優しさに触れることなく育った御影にとって、向けられるその暖かな笑顔や感情はどうしてもむず痒く、慣れない居心地の悪さで満たされてしまう。それがどうも苦手だった。

小太郎はそんな御影の心境を知ってか知らずか、相も変わらず無遠慮な距離感で傍にいる。どれだけ御影に冷たい言葉をぶつけられても気にした様子は一度もない。

「はい、御影様。肉と野菜の雑炊です」

旨いですよ、と付け加えて笑いながら、小太郎は御影に雑炊のたっぷり入った茶碗を差し出した。その量を見て、御影は眉を顰める。

「…多い」
「多くないです。昨日よりは少ないです」
「…そんなに食べきれない」
「残しても構いません、ひとまず食べれるだけ食べましょう」
「…残したくない、少しだけ減らして」
「駄目です」
「…じゃあ自分でよそう」
「そしたら蟻の餌みたいな量しか食べないじゃないですか、駄目です」

何とも失礼な物言いに、御影は唇をへの字に曲げて言い返した。

「蟻より食べる」
「例え話ですよ、さぁ温かいうちにどうぞ」
「…」

結局何を言っても無駄だ。御影は諦めて深い息を吐き出す。これで何度目の溜息か、もう数えてもいられない。諦めたように小太郎から茶碗を受け取って、蚊の鳴くような掠れた声で「いただきます」と呟いてから雑炊に口をつけた。一口含んで、優しい味に悔しいながらもほっとする。小太郎の作る飯は、憎らしい程には美味しかった。肉は生臭くなく、米も野菜と一緒にくたくたにしてくれるので食べやすい。たっぷり入った野菜の優しい旨味が口いっぱいに広がって、胃も心も満たされていく。

こんなことでほだされたくはないのだが、元々御影はひどい偏食で、肉も米も好まない。強いて言うなら、食事という行為そのものに重きを置いておらず、一日一食も食べない日だってあった。ただでさえ貧しい暮らしに酷い偏食も重なって、背丈の割に痩せすぎて体力はなく、いつも貧血気味で虚弱な体質だった。

しかし小太郎が来てからというもの、この危険な山で狩りをして肉やら何やらを持ち帰り、強制的に食事の時間を設けさせられるようになって、以前よりも健康になったのは事実だ。それに、一人きりじゃない食卓のお陰か、徐々に抵抗なく食事を取れるようになってきている。これではほだされてしまうのも無理はない。

「旨いでしょう?臭みが残らないよう徹底的に処理しましたから!」
「…別に」
「あれ?お口に合いませんでした?じゃあ次からはもっと獣臭さを残して…」
「こ、これでいい!」

声を裏返しながら小太郎の言葉を遮ると、小太郎はきょとんとしてからニカっと笑った。

「つまり旨かったという事ですね!良かったです!」

その笑顔から視線を逸らして、御影は無言で雑炊を口に運ぶ。手のひらで転がされるというのはこういう事例を指すのだろう。主君などと言いながら、小太郎は御影の意見を尊重する様子はないが、それとなく御影にとって良い方向になるように誘導しているのはよく分かる。

その後はよく喋る小太郎に対して簡単な相槌を打ちながら食事を進め、最後の一口を口に運んだ御影は空の茶碗を小太郎に突き返した。小太郎はすでに三杯目の雑炊を完食しようとしている。鍋の中身はもう空だ。

「…ご馳走様」
「流石です御影様!完食しましたね!やはり天才…」
「わ、分かったから!早く片付けて!扉を直して!」

完食する度全力で褒められていては身が持たない。御影は照れた顔を髪で隠しながら、誤魔化す様に片付けを任せていそいそと薬の準備に取り掛かる。小太郎は慣れた様子で鍋を片付け始めたが、急に動きを止めて表情のない顔で玄関を見つめた。そして冷たい声を放つ。

「誰だ」

低く、感情のない声に、御影も思わず振り向いた。玄関口に目をやれば、恐る恐る黒髪の娘が顔を出す。

絹の様な白い肌に、毛艶のよい整えられた長い髪、誰もが愛らしいというであろう整った顔。村の中では上等な着物を着た見目麗しいその娘は、村長の一人娘だった。名を日葵(ひまり)という。大きな丸い瞳で窺うように小屋の中を覗きながら、日葵はおずおずと口を開いた。

「あ、あの、突然申し訳ございません。父が御影様にお話があるとの事で、恐れながら私が参りました」

風鈴のような心地よい声で日葵は言う。御影はその言葉に眉を顰めた。これまで村長に呼び出された事は一度だってなかったからだ。自身で作った医学書を献上した時も、小太郎を助けたと報告した時も、全て御影は自発的に行動を起こしている。これまでにない状況に困惑して御影が言葉を発せないでいると、小太郎が御影を振り返って、優しい声で言った。

「行きたくなければ行かなくていいですよ、御影様」
「え、で、でも…」
「用があるなら自分で来ればいいんです。わざわざ御影様が行ってやる必要なんてありませんよ」

言い聞かせるように穏やかな声でそう言い切った小太郎は、最早日葵など初めから居なかったもののように食事の片付けを再開する。日葵は当然困ったようにおろおろとしていて、目線だけで必死に御影に訴えた。何とも言えない空気と視線に耐えられなくて折れたのは、やっぱり御影の方だった。

「…わ、分かりました…行きます…」

日葵に届くか届かないかの声で放たれた声だったが、日葵にはきちんと届いていたようで、御影の回答にほっとしたように息を吐く。安堵の表情は可憐な花の様だった。

そんな日葵の顔を見ていられず、御影は不自然に視線を逸らした。鬼だと揶揄される醜い自分と、村一番ともいえる美しい娘。羞恥と羨望の気持ちが複雑に混ざり合って、目の前に立つ日葵を見ていられなくなったのだ。卵色をした不揃いの長い前髪をわざと手櫛で顔の前に流しながら、御影は続けた。

「…か、片付けたら、すぐに行きます」
「分かりました、ありがとうございます。では先に戻ってお待ちしております」

日葵は丁寧に一礼してからその場を立ち去る。御影はふうっと息を吐いて、作りかけの薬を片付けて支度を始めた。

ふと視線を感じて振り返れば、拗ねたように口を尖らせた小太郎が不服そうに御影を見ている。

「…御影様は優しすぎます」

不貞腐れた声で言った小太郎に、御影はまた息を吐いた。

「…来いと云われたから行くだけ」
「貴様が来いって云ったって良いんですよ」
「…云える訳ないでしょう…」

そう言いながら支度を済ませた御影は小屋を出る。この間に扉を直して貰うつもりで小太郎を振り向こうとしたが、不服そうな表情を浮かべたままの小太郎はすでに隣に立っていた。着いて来るつもりだろうという事は明白だ。

きっと何を言っても無駄だなとすぐに察した御影は、もう何度零したか分からない溜息を落として村へ向かうのだった。


back



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -