木戸に上手く逃げられてしまった犲は詰め所に戻っていた。成果を上げるどころか、大蛇実験の資料の紛失についての責任を問われてしまう結果となってしまい溜め息が零れる。しかし立ち止まっているわけにもいかないので、今後どのように動くべきかもう一度対策を練る為、改めて会議が行われていた。

紛失してしまった実験の資料をどうするか、木戸をどう追い詰めるか、川路との関係をどう洗っていくか、そんな内容の会議が行われる詰め所の中は、当然ピリピリとした雰囲気が漂っている。そんな中、コンコンと遠慮がちに扉が叩かれた。

「失礼致します。あ、あの、犲に面会を希望と云ってやって来ている方が…」

犲達の雰囲気を察してか、やけに申し訳なさそうな表情でやって来たのは、警察署に務めている若手の警察官だ。突然の面会希望者に覚えのない犲の面々は当然警戒する。誰だ、と蒼世が問おうとした瞬間、その男はひょっこりと現れた。

「よーう蒼世、久しぶりだな!」
「あ、ちょっと!勝手に入ってきちゃ駄目だって云ったじゃないですか!」
「細けー事は気にすんなって!」

車椅子に乗ったカニ頭のその男は、扇を開いてぶわっはっは、と豪快に笑う。その場に居た犲の面々全員が、表情を凍りつかせた。

「天火…なんで此処に…」
「よう妃子、元気にしてたか?」

震えた声で妃子が問えば、カニ頭の男―――天火は、にかっと大きく笑った。

「元気にしてたかじゃないわよ…!治療まだ終わってないでしょう!?」
「抜け出してきたとでも思ってんのか?治療なら大方終わったし、年明けも近いから帰省させてもらったんだよ。で、そのついでにお前らの顔でも拝んでやろうと思ってわざわざこっちに寄ったってわけだ」

この張り詰めた空気の中、いつも通りの口調で天火は言った。一方の警官は、こんな雰囲気の中、天火に勝手な行動をされておろおろとしている。蒼世は小さく息を吐いた。

「…知人だ、通してもらって構わん」
「か、かしこまりました。失礼しました」

触らぬ神に祟りなし。誰が聞いても不機嫌そうな低い声を返された警官は、一礼するとそそくさと去って行った。扉が完全に閉まりきった後、僅かな沈黙を挟んで口を開いたのは天火だった。

「で、ちょっと風の噂で聞いたんだけど―――渓が居なくなったらしいな」

先ほどまでの飄々さはどこへやら、天火の声は蒼世の冷たさと大差ないもので、しんと静まり返った詰め所内にはよく響いた。

「目が見えなかったはずの渓が、何かの治療で視力を取り戻した途端居なくなったらしいんだが、それに大蛇が関わってるなんて聞いたもんだから、だったら犲も関わってるんじゃねーかと思ってよ。なあ蒼世?」
「…」

蒼世は何も答えない。目線だけで妃子を見るが、妃子も苦い顔で首を横に振った。妃子は特に天火には甘い。彼女が何か情報を漏らしたのかと蒼世は僅かに疑ったのだが、妃子の反応を見る限りそうではないのは明白だった。恐らく天火が自分で探って情報を掴んだのだろう。

「うちの可愛い妹が消えたんだ、関係ないとは云わせねえ。洗いざらい吐いてもらうぞ」

そう言って蒼世を捉える天火の目には、怒りが滲んでいた。


四十三、過去を踏みしめて


ゆっくり、ゆっくりと、曇天の空から雪が舞い降りる。年の瀬に、今年初めての雪が降った。ぼんやりと、けれど確実に、終わりの足音が近付いているような気配を感じながら、猪は自由を選びに来たと言った陸を見下ろした。浪が付けていた翡翠の耳飾りと黒い眼帯をしていたので、形見として貰い受けたのだろう。

「どういう意味だ?」

猪の問いに陸は真っ直ぐに答えた。

「言葉の通りです。俺は俺の選択をしました」
「長の命令は離散だ、さっさと去ね」
「離散の命は聞き入れました。これは風魔としてではなく、俺個人の選択です」

猪の目をしっかり見つめて、はっきりと言葉を重ねていく青年の姿は、もう過去に捕らわれて怯えてなどいなかった。浪の呪縛から解放され、白子によって大きな過ちを許される事で自分の心と向き合った陸は、もう自由に何処へだって行ける。何にも縛られず、自分の足で幸せを掴みに行ける。だというのに、陸はこの場所に残る事を選ぶというのだ。

「長は我々に、自由に生きろと仰いました。風魔でなくなった今、俺が望む選択は、最後まで渓様をお守りする事です」

猪を捉える紫眼は揺るがない。よっぽど意思は固いのだろう。猪は呆れたように息を吐く。凍えるような寒さの中、吐き出した息は白い。

「罪滅ぼしのつもりか?それとも渓様を特別に思うが故か?」
「罪滅ぼしだと云われればそうかもしれません。渓様を特別に想っている気持ちも否定はしません。だけど、そうじゃない」

今までならの陸ならば、猪に強く言われれば口ごもって返答も出来ずにいたはずの言葉にも、きっちりと返事を返していく。猪は表情一つ変えはしなかったが、正直少し驚いていた。風魔の長の恋人である渓への気持ちは、罪悪感と共にずっと飲み込んでいたはずだ。それを素直に認めたという事は、自分の気持ちとしっかり向き合った上で、自らの答えを出したという事だろう。

「俺は、初めて俺自身が『そうしたい』と思ったから、此処へ来ました」

そしてすっかり立派になった顔つきで、陸はそう宣言した。


あの日、白子が去った後、陸はしばらく浪の首を抱いたまま呆然としていた。ずっと誰かの命令だけで生きてきた陸にとって、突然与えられた自由をどう消化すべきか分からなかったからだ。陸だけじゃない、あの場に居た風魔全員がそう感じていた。

陸は必死に考えた。自由とは何か、幸せとは何か。けれどいくら考えたって答えは見つからなかった。ゆっくりじっくり考えたくても、時間は無常に流れていく。日が暮れていく中、浪の首を抱いたまま動かないわけにもいかなくて、まずは家の裏に浪の首を埋葬する事にした。

泣き腫らした右目は重かったが、小さな子供のように散々泣いて、感情を吐露したお陰でいくらか気持ちはすっきりしていた。穴を掘りながら、白子から与えられた自由について考える。

この小さな里で、渓は自由だったと白子は言った。蛇の信者の姫という立場にありながら掟に守られ、行動も制限され、里の外にも出れず、一部の者には疎まれてさえいたはずの渓が、風魔の里で生きる事がなぜ自由だったのか、陸はどうしても分からなかった。

元々は滋賀で自由に暮らしていたはずの渓が、白子への想いだけで此処までやって来て、本来必要のなかった悩みまで抱え込んでいた事は知っていた。それは陸の思い描く自由という言葉からは、あまりにかけ離れたもののように思えたのだ。その上、風魔に関わったせいで危険な目にも合った。大蛇の実験まで受けさせられて、二日間も目覚めなかった。いくら白子の傍に居られるからとはいえ、それのどこが自由だというのだろう。

ぐるぐると頭の中で考えながら、陸は浪の首を持ち上げて穴の中にそれを沈める。土を被せる前に、この先何一つ写す事のない濁りきった瞳は、そっと閉じさせた。だというのに、後悔の滲む表情は眠っているようにさえ見えない。よっぽど無念を抱えたまま死んでいったのだろう。そんな事を考えながら、陸は膝をつき浪に両手を合わせる。そして突然、ふと思った事があった。


果たして浪は、自由だったのだろうか。幸せだったのだろうか。


幼い頃、風魔元服の式で陸は姉に殺されそうになった。浪はそんな陸を守るために姉を殺し、代わりに陸を風魔にさせてくれた。確かに浪は姉の仇ではあったが、憎いと思った事は一度もない。むしろ命を救ってくれた恩人だと思っている。事実として、陸が風魔になれたのも浪のお陰だった。けれどあの日を境に、浪は狂ってしまったのだ。

その事を思い出して、本当に浪が幸せだったのかを考える。町で攫ってきた娘を何度も何度も好き放題にして、飽きたら切り刻んで殺しては捨てるという行為を、浪は狂ってしまったあの日からずっと繰り返していた。陸の事だって、命を助けた事を理由に傷付けた事は一度や二度ではない。浪は里でもとりわけ強い忍ではあったので、力である程度の事は捻じ伏せて来た。

浪は傍から見ればとても自由だったはずなのに、まるで何かに捕らわれていたように見えていた。好き勝手に生きていたのに幸せにも見えなかったし、浪自身幸せなんて感じてはいなかったように思う。

しかし渓は、人一倍限られた環境の中でも、ずっと幸せそうに見えた。縛られた不自由な世界で様々な可能性を考え、見出し、行動し、自分や他人と向き合ってきた。人知れず嘆き苦しんだ事もきっとあっただろう。それでも渓は、確かに心から笑っていた。嘘偽りのない心で、確かに此処に生きていた。

そこまで考えて、陸はハッとする。自由と何か、幸せとは何か、二人を比べればその答えは自然と見えてきた。

あらゆる過酷な状況の中、色んな不自由の中でも、渓の心はどこまでも自由だったのだ。限られた世界の中、例え多くの選択肢がなくたって、渓は信念を持って自由を選び取ってきた。その自由の為に犠牲してきた多くの人々や未来だってきっとあったのだろう。それでもその心が望んだのは、白子と共に生きる事だ。

白子の生きる世界に飛び込んだからには、あらゆる面においての覚悟や決意も必要だった。だからこそ不自由な世界でも、渓は笑っていたのだろう。そこで生きる不自由を選択したのは渓自身で、その選択は渓が心のままに求めた"自由"だったのだから。身勝手やわがままとは少し違う、確かな優しさと愛情があった。

いつも幸せな未来を思い、前を向き、時には悩み苦しんで、泣いたり笑ったりしながら精一杯生きる渓の心は、とても満たされてたに違いない。その命は僅かな一瞬の煌きさえ逃す事無く輝いていたのだ。

それと比べて、信念のない見せ掛けの自由の中を生きてきた浪は、誰よりも不自由に過ごしてきたに違いない。意味もなく欲望のままに駆け抜けるだけの、身勝手でわがままなからっぽの生き方では、心が満たされる事はないだろう。きっと浪はずっと、あの日殺してしまった姉の亡霊に捕らわれてしまっていた。

未来を思い前を向く渓と、過去に捕らわれ動けないでいた浪。不自由なのに自由な人と、自由なのに不自由だった人。陸にとって、自分がなりたい自由な姿を想像したとき、それは紛れもなく前者だった。

そこまで思い至ったものの、それが正しいかどうかは正直陸にも分からない。誰もが心の中に違う答えや自由の形を持っているのだと思う。けれど、陸が出した自由の答えは、渓がずっと持っていたものだ。だから陸は渓を眩しく思い、憧れ、焦がれてしまったのだろう。そう思うと、渓への気持ちが胸の中にストンとお行儀よく納まった。抱えていた胸のつかえも取れたような気がする。

陸は目の前の物言わぬ、兄と呼んだ人の首を見つめて少し考えると、意を決して浪の首に残ったままだった黒の眼帯と耳飾りを取り外し、それを自分で身に着ける。浪が過去に捕らわれてしまった責任も、浪が一人で抱え込み続けた罪や傷みも、浪が叶える事の出来なかった自由も、全部抱きしめて生きようと思った。浪の分の枷を背負って、それでも精一杯生きる事が、自分の犯した罪を償う方法なのだと自分で決めたのだ。

浪の首を埋めて、陸はもう一度手を合わせた。両耳で翡翠の耳飾りが揺れ、眼帯からは浪の匂いがした。慣れない重みは、二人分の罪の重さだと思えばいい。自分には丁度いいと陸は思う。そうして、新しく一歩を踏み出したのだ。


「…俺も、浪も、罪を犯した事にかわりはありません。渓様からの許しを得ようと思っているわけでもない。渓様のお命を危険に晒した俺なんかがお傍に居る事も恐れ多い事です。しかしながら、その尊ぶべき命をお守りする事は出来ます」
「…渓様の命を危険に晒したお前が、渓様の命をお守りすると?」
「はい、例え何があっても、この命に代えてでもお守り致します。それが、俺が選んだ"自由"です」

陸の瞳は、たったの一度も揺らがなかった。猪はやれやれと肩を竦める。陸は風魔としてではなく個人で選択したと言ったのだ、もうこうなれば猪から言える事は何一つとしてない。

「…分かったよ。じゃ、後は渓様本人の許可を得てくれ」
「いえ、俺はお傍に居ようなどと思っていません。ただ渓様の周りに危険が及ばぬよう影として生きます」
「だから、それを渓様に聞いてくれって云ってんだよ」
「それは、どういう…」

言いかけて、陸が眉を顰めると同時に、カタンと音が鳴った。音の方を見れば、浴衣を着た金色の目の渓がそこに立っている。小柄な体をすっぽり包み込むほどの黒い大きな羽織をかけているので、恐らく白子のものだろうというのは見て取れた。

渓は陸の顔を見て驚いたように目を丸くする。陸は渓の顔を見て、慌てて深く頭を下げると、咄嗟に言葉を放った。

「謀反人がこのように醜態を晒して申し訳ございません。すぐに立ち去っ――」
「陸!!」

名を呼ばれ、陸は思わず顔を上げた。と同時に、渓が素足のままものすごい勢いで自分の胸に飛び込んでくる。慌てて自分より小さなその体を抱きとめて、陸は混乱した。渓に抱きつかれた事もそうだが、何より渓が泣いている事がすぐに分かったからだ。何をどうすればいいかも分からず、助けを求めるように猪を見たが、猪は胡坐を組んでにこにこと笑っているだけだ。

先ほど見せていた風魔の長の代理である表情とは一変して、意地の悪い笑顔を浮かべる猪を見た陸は、これはどうにかしてくれるつもりはないとすぐに理解した。仕方がないので視線を腕の中にやると、自分に抱きついたまま泣いている渓がいる。咄嗟に抱きとめたのはいいものの、小さくて柔らかな体のどこに自分の手を収めていいのかも分からず、行き場のない腕で何とも情けなく空を掻く事しか出来ない。

「…あ、あの、渓様…」
「…よかった」
「え?」
「陸が、生きてて、よかった」

震える声でそう吐き出されて、陸は思わず胸がぎゅっとなった。あの夜、自分のせいで危険な目に晒してしまったというのに、渓の言葉からは本当に安堵の感情が溢れている。

「…渓様、あの日、俺のせいで怖い目に合わせてしまって、本当に…」

ごめん、と陸が言いかけると、陸より早く渓が顔を上げた。陸は渓の金色の瞳を見るのは初めてだったし、これが姫に侵食されかけているのは分かっていたものの、涙で濡れたその瞳を見て、綺麗だな、と純粋に思った。

「…もう、生きてないんじゃないかと思った」
「…生きてる」
「それくらい血が出てたの」
「…うん」
「…左目…」
「ごめん、こんなのつけて、浪の…見たくなんて、ないよな」
「そうじゃないの。もう見えないんだよね、痛いよね、って思ったら、辛くて」
「待って渓様、本当に大丈夫だから、これ以上、泣かないで」

陸はまたぼろぼろと涙を零し始める渓を前にどうすればいいのか分からず、おろおろと慌てるばかりだ。涙を拭おうと何度も頬に腕は伸びるが、そんな権利が自分にはないと理解している陸は、ただ目の前の可愛くて綺麗な泣き顔に困惑するばかりだ。泣いて欲しいわけではないし、渓には笑っていてほしいと願っているが、慣れない状況に陸はどうする事も出来ないでいる。

「渓様、陸困ってるから、離れてやって」

ひとしきり事の成り行きを見守った猪は満足したのか、ようやく渓に声をかける。渓はその言葉に素直に従うと、申し訳なさそうに小首を傾げて、濡れた瞳で陸を見上げたままごめんね、と呟いた。当然、陸はそんな姿に当てられてしまって、咄嗟にそっぽを向いて手の甲で口元を隠した。黒い眼帯が渓の眼前に来たのと、長い前髪のせいで表情は良く分からなかったが、猪からは陸の顔が良く見えるのだろう、くつくつとおかしそうに笑っている。

「ほら渓様、雪降ってきたからこっち来な、また体調崩したりなんかしたらいよいよ俺の命が危ない」
「白子はそんな凶暴じゃないよ」

猪さんはすぐにそういう事言うんだから、と零しながら渓は笑うと、涙をごしごしと拭って猪の言葉に従った。渓の白い足はすっかり冷たくなってしまっていたので、猪は背中に隠れたままの勇太郎に指示を出して、渓の体調を確認をするのを理由に一旦渓を寝室に戻らせた。その後陸に顔を向ければ、まだ少し頬を赤らめた陸が視線を彷徨わせている。そんな陸を見ながら猪はニヤニヤと笑みを浮かべた。

「良かったなあ陸」
「……別に、そんなんじゃ、ない」
「照れちゃって」

猪はそう言いながら立ち上がると、陸を見たままで言った。

「ほら、上がれよ」
「…え?」

思いもよらなかった言葉に、当然陸は驚いて目を丸くする。ぱちぱちと何度か瞬きしていると、猪は呆れたような笑みを零した。

「この寒空の下、お前を屋敷に上げなかったなんて知ったら、俺が渓様に怒られる」
「で、でも…」
「俺は長と渓様にこってり絞られるのは御免だぞ」

そう言い残して、猪も渓と勇太郎のいる部屋に向かってしまった。陸は少し考えて、勢い良く立ち上がる。思わず命令なのかどうなのか判断してしまったが、もう風魔は離散したのだ。そして自分で選んで陸は此処にいる。だから猪は、もう陸に命令らしい命令はしなかったのだろう。

自分で考え、自分の意思で選んでいかなければならない。それが自分自身の選んだ自由な生き方なのだから。陸は改めてそう思って息を吸う。そうして初めて、長とお姫様の屋敷に足を踏み入れた。


 ● ●


勇太郎の診察を終えた渓は、下半身を布団に埋めたまま猪の用意した温かいお茶を飲んでいた。お茶でも熱のせいでもなく、顔が少しほてっているのは猪のせいだ。

渓の熱はすっかり下がっていて勇太郎も安堵したのだが、猪がその横で意味深な笑みを浮かべながら「昨日いっぱい汗かいたもんな」などと悪意をたっぷり込めて爽やかに言い放ったのだ。渓は顔を真っ赤にして猪を何度もぺんぺんと叩き、痛くもかゆくもない猪はゲラゲラと笑っていた。部屋の片隅でゆるっと三角座りしていた陸も、猪の言葉で何の事かを察してしまい、恥らう渓に当てられて恥ずかしくなったのか、顔を伏せて何も聞くまいと決め込んでいた。

そんな蛇のお姫様と風魔達を見ながら、勇太郎はなんて緊張感のない人達だとげんなりしたものの、それが猪なりの緊張感の和らげ方なのだろうといい加減理解もしていたので、慣れって怖いな、とこっそり思いながら、心を無にして微笑ましく見守る事を決め込んだのだった。

その後、猪は大蛇の資料を片手に勇太郎を連れて部屋を出て行き、囲炉裏を囲って何やら話しを始めた。部屋には陸と二人きりだ。なんだか妙に気恥ずかしい空気が漂っていたので、渓は誤魔化すようにお茶を飲み干して陸を見た。

「…陸、寒くない?」
「…うん、平気」

陸もどことなくどぎまぎしているので、変な空気になってしまう。どうにかしたくて、渓はとにかく言葉を紡いだ。

「あ、あの、何か、ごめんね、気にしないで」
「……うん」
「頷きながら顔伏せられると私も恥ずかしいからやめて…」

渓は両手で顔を覆い、陸は膝に顔を埋めている。羞恥でいっぱいいっぱいになりながら、渓は頭に猪の顔を思い浮かべる。時折見せる表情や顔つきやなんだか白子に似ているくせに、猪はやっぱり猪だと思った。

何度か小さく深呼吸して気持ちを落ち着けた渓は陸を見る。陸も同じように気持ちを整えたのだろう、少し伺うように渓を見つめていた。

「そんな端っこにいないで、こっち来たら?」
「…大丈夫、此処でいい」

いくら風魔という組織ではなくなったとはいえ、風魔の長と姫様の家の、しかも寝室にのこのこ上がりこんでいる意識が陸にはあったので、堂々と渓の隣に座る事は躊躇われた。渓も陸からは遠慮を感じ取ったので、それ以上は何も言わず、少し考えてからずっと尋ねたかった事を聞く事にした。

「ねぇ陸、聞きたい事があるんだけど」
「…何?」
「答えたくないなら答えなくていいんだけど、その、お兄さんの事で…」

陸はああ、と素直に頷いた。渓はずっと眠っていたので浪の死すら知らないのだから、陸が浪の眼帯と耳飾りを付けているとなると、色々気になる事はあるのだろう。特に隠す必要もないので、陸は正直に話し始めた。

「浪は本当の兄貴じゃない」
「え…?そうなの?」

渓は確かに、陸から兄弟が居るなどという話は一度も聞いた事がなかった。だからこそあの日陸が浪を兄と呼んだ事には驚いたし、それと同時に兄弟同士で傷付け合っているのを悲しく思った。

「昔はあんな人じゃなかった。俺の姉さんと幼馴染みで、兄貴分みたいな人だった。俺が姉さんに殺されそうになったところを、助けてくれたのが浪」
「…じゃあ、お姉さんは」
「死んだ。元服の式で俺を殺そうとしたけど、浪が俺を庇ってくれた」

風魔の儀式について、渓は一度猪から聞いた事がある。丁度あの時も、今と同じように猪の昔の話を聞いていたときだった。

「姉さんを殺してから浪はおかしくなった。その後、俺は風魔になったけど、浪を変えてしまったのは俺のせいだから、ずっと浪の云う事に従ってきた。渓様のところに連れて来たのも、そんな理由」
「…」
「そんなくだらない理由で、渓様を危険な目に合わせた」
「くだらなくなんかない。陸も、浪くんも、過去に縛られて苦しんだって事でしょう?そんな傷をくだらないなんて云わないで」
「……うん、ごめん」

渓の言葉を聞きながら、じんわりと胸に温もりが広がっていく。そして陸は思う。もう少し早く渓と出会えていたら、少しでも何か変わったかもしれないと。けれどもしもどこかで出会えたところで、渓と自分では何も始まりはしない事を陸は分かっていた。白子が居て、渓が居る。その事実は何があっても揺るぎはしないのだ。

「…浪はもう居ないから、安心して」
「…え?」
「報復を受けた、死んだんだ」

それを聞いて、渓は悲しげに顔を歪めて唇を噛んだ。怖い思いをさせられておきながらどこまでも優しい渓に、陸は小さく笑う。

「そんな顔しなくていい、俺は大丈夫」
「でも…」
「浪のした事は許されない。俺だってそう思ってる。だからこれでいい」

穏やかな声で陸は言った。その言葉に、嘘はなかった。

「俺にも罪がある。渓様が捕まったのは、元はといえば俺のせい」
「そんなこと…」
「ある。だから浪の分まで、罪を背負って、生きる」

いつだって陸は言葉足らずだ。だけど、渓を見てまっすぐに想いを伝える陸からは、後悔や後ろめたさは感じない。渓はしばらく陸の言葉を噛み締めてから、しっかり受け止めた。それが陸の心からの思いなら、無碍にしてはならないと悟ったからだ。

「…じゃあ、生きて陸は何がしたい?」

思いもよらなかった言葉に陸は面食らったが、少し考えてみた。渓を守る、以外の事を考えていなかったのだ。

「…渓様は、何がしたい?」

困ったので尋ね返してみたら、渓も面食らったようで、少し考え出した。

「私は白子やみんなと幸せに暮らせたらいいと思ってるんだけど…」
「じゃあもし、里がなくなって、他の場所で生きる事になったら、何がしたい?」
「えー考えた事もないなあ…うーん…私に何が出来るだろう。ねえ、陸は私に何が出来ると思う?」

小首を傾げて尋ねられると、陸はどうしても照れてしまうのでやめて欲しかったが、これが癖なのももう重々承知なので陸は視線を逸らして考えるふりをする。そもそも渓なら、どこへ行っても何をしても、その真っ直ぐさとひたむきさできっと上手くやれると陸は思っていた。なので大した案は浮かばなかったが、ふと思った事を口にしてみる事にした。

「……茶屋」
「え?」
「渓様の作るご飯、好きだから、茶屋とかやればいいと思う。そしたら俺、そこでご飯食べたい」

渓は里の女達に料理を教える事も多々あったが、単純に渓のご飯を食べたいという者が多かった事もあって、里に下りてご飯を作ることが何度かあった。そんな時、陸は渓が料理を作る段階から大人しく待ち構えていた。里の中では誰よりも大人しいが、誰よりも食いしん坊だった事を思い出して、渓は思わず笑みが零れた。

「陸が食べに来てくれるなら、考えても良いかな」
「ほんと?」

渓の返答が嬉しかったのか、陸はぴんと背筋を伸ばすと、いつになく目を輝かせて渓を見ている。その姿はまるで子犬のようだ。表情こそ少ないが、渓にはちゃんと陸の気持ちは伝わっていた。弟のような陸の可愛さを噛み締める。

「もしも里がなくなって、他の場所で生きる事があればね」
「毎日食べに行く」
「気が早いよ」

そんな事を言いながらくすくすと渓が笑っていると、突然スパーンと勢い良く襖が開いた。渓と陸は驚いて音の方に視線を寄越す。そこには猪が子供のような笑みを浮かべて立っていた。奥では勇太郎が大蛇の資料を抱えてぶつぶつ言っている。もう考えるのも限界という顔をしていた。その状況に猪は付き合いきれなくなったのだろう。

「よし、遊ぶぞ!」

いきなりそう言われて事にわけがわからなくて、渓と陸は顔を見合わせて首を傾げるのだった。


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