会津から戻ってきた妃子を加え、久々に揃いの隊服に身に纏った犲は、詰め所に集まっていた。皆表情は硬い。そんな中、蒼世が口を開いた。

「集まってもらったのは他でもない、二日前の山火事の件だ。昨日のうちに無事に鎮火が済み、焼け跡を調べたところ、政府も指示していない、何かの施設が作られていた事が分かった」

蒼世の声は淡々と紡がれていく。隊員達は、ただ黙ってその言葉を聞き入れていた。

「その施設が、例の大蛇実験と木戸様に繋がりがあるところまでは調べが付いている。だが、知っての通り山縣様の協力も仰いで木戸様の周辺は捜査してきたが、証拠は掴めていない。そんな中、突然今までの大蛇実験の資料が消えた。我々も木戸様もその行方は分からない。つまり、大蛇に関係する『外部の者』が関わっている。徹底的に調べあげろ」
「…隊長、それがもし、私達に害を成す存在だった場合は…」
「無論だ」

妃子の問いにも、蒼世は表情を変えない。

「どんな手を使ってでも潰す」

その言葉の真意は、誰にも分からない。例え蒼世がそれを望んでいなかったとしても、その肩に背負っている"犲"という名前が重くのしかかっている事は間違いなかった。

蒼世を含め、今皆の脳裏に浮かんでいるのは、あの日滋賀から忽然と姿を消した黒い髪の娘だ。あの日、彼女がどこかで幸せに笑っていられるのならと、そう願って犲は彼女を手放した。だからこそ進むことを躊躇わせる。それでも、彼らには、進むしかないのだ。


四十、最後の命令


風魔達は安全が確保された里に戻っていた。里の中心にあるぼこぼことした大きな岩の上には白子が腰をかけ、それを取り囲むようにして風魔達が膝をつき頭を下げている。

そして白子の真ん前には、縄で縛られた陸が両膝をついて裁かれるのを待っていた。無理矢理止血されたらしい左目は、見慣れた淡い柄の浴衣を真っ赤な血で染め上げている。虚ろな目をして、陸は地面を見つめていた。

陸が長である白子の命令を破ったせいで、渓は攫われた。結果、大蛇の細胞を大量に投与されてしまって今は昏睡状態である。さらに渓と仲の良かった女の風魔が一人犠牲になったのだ。それがいかに重責であるかは、誰より陸自身が理解していた。

「何故命令を破った」
「…」
「答えろ」

抑揚のない声が響く。浪に脅されたと正直に答えたところで、どうせ言い訳になるだけだ。浪を連れて行ってしまった時点でこうなる事は分かりきっていたというのに、浪への恐怖に負けて陸は命令を破ってしまった。

「答えろと云っている」
「……俺が、俺の弱さが、招いた事です」

白子の圧に負け、ようやく搾り出せたのはそれだけだった。しんと静まり返る空気が重く陸に圧し掛かる。白子が何も言わないのが怖くなって、陸は喉の奥から湧き出た言葉をひたすら排出した。

「俺は、我が身可愛さに命令を破り、結果、渓様を奪われ、里の者の命をも奪われました。全て俺の弱さが招いた事です。ここで腹を切って、詫びます」

あの夜、陸は自分の弱さと不甲斐なさを嫌になる程痛感した。渓を守るべき立場でありながら、渓を傷付け、挙句守られ、最終的には奪われてしまったのだから、自責の念に苛まれるのも無理はない。

その後、渓は白子達に連れられて帰って来たものの、大蛇の細胞に体を蝕まれて、二日経った今も意識を取り戻さないのだ。犠牲となっているのが自身の想い人である事が、さらに陸の過ちの重さを増大させていた。

もしあの夜を無事に乗り越えていれば、白子も猪も戻って来ていた。そうすれば浪は渓に手を出せなかったし、渓は今日も変わらず笑っていたはずなのだ。その状況を作り上げてしまった罪を償うには、自分のちっぽけな命を差し出すくらいしか方法はないと陸は素直にそう思った。

しかし、冷めた声は呆れたような感情を含んで陸に降り注ぐ。

「…ふざけているのか?」
「ふざけてなんていません…!俺は、俺のせいで渓様は…!」
「渓が目覚めて、貴様が腹を切ったと知ったら、あれはどう感じると思う?」

感情的になりかけた陸だったが、その言葉を聞いて押し黙った。そして考える。

渓は里の中で異質の存在であり、その存在を否定されながらも、いつも誰かに寄り添ってきた。彼女の愛情や優しさは、分け隔てなく誰もに注がれる。そんな愛情と優しさに徐々にほだされて、次第に皆渓を受け入れ慕うようになったのだ。陸もまた、渓にそれらをもらった一人だ。渓自身が里の皆を大切に思っている事はよく知っている。

そんな渓が、もしも自分の死を知ったら?
きっと力のない自身を責め、連れ去られる自身の弱さを嘆き、その死を悲しむだろう。もしかすると、泣いてしまうかもしれない。

その答えに辿り着いたとき、陸はじんわりと心の中に温もりが広がっていくのを感じた。風魔である自分の死を嘆き、悲しんでくれる人が出来た事が喜ばしかった。

それと同時に、もやもやとした感情が全身に染みていく。もし此処で死を選ばなかったとしたら、どうやってこの罪を償うべきなのだろう。それが分からなくて、陸は地面に視線を落として必死に答えを探したのだが、やっぱり答えは見つからなかった。

「それでも死ぬというのか?」

追い討ちをかけるように白子が言った。視線を彷徨わせて陸は口ごもる。

「……俺は、それ以外に、償う方法が分かりません」

しばらく考えて、出せた結論はそれしかなかった。
渓は白子が、風魔小太郎がいずれ娶る『蛇の信者の姫君』だ。まして大蛇の眷属としての位で言うのなら渓の方が上に位置している。もはや里での主君の一人と言っても過言ではない。それを陸の責任で攫われ、取り返す際には主君である白子の手を煩わせているのだから、罪の重さは二倍以上だ。死をもって償う以外に何があるというのだろう。

白子はそんな陸の様子を見て、小さく呆れたように息を吐いた。どうすればいいかなど簡単な事だというのに、それ以上の答えを見つけ出せない姿を見ていると、いかに風魔としての生き方が根付いているかを痛感させられる。それこそまだ若い、未来ある青年が、死ぬことしか選択肢がないのだと本気で思っている事が、少しだけ悲しかった。

「陸」

名前を呼んで顔を上げさせると、白子はどこからともなく取り出した『何か』を片手で掴み上げ、それを陸の目の前に捨てるように投げた。ゴロリと大きな音を立てて転がったそれを見た陸は、思わず硬直する。

投げられたのは、浪の首だった。
見開かれた紫眼は濁りきっていて、虚空の世界が広がっている。兄と呼んだ人の何も映し出す事のない瞳と目が合ったまま、陸は喪心せざるを得ない。その表情からは、何かを悔やむように死んでいったのだろうという事は伺えた。

「情報は素直に吐いたので苦しむ事無く逝かせてやったが、これが裏切り者の末路だ」
「…」
「お前は本当に、これを望むのか?」

あまりの恐怖に唇が震えた。それと同時に、色んな感情が駆け巡る。

あの日、姉が死んだ日、死への恐怖が拭いきれなかった自分を救ってしまったばかりに、浪は狂ってしまった。陸にはその自覚があったからこそ、浪に逆らう事が出来なくなったのだ。何度も何度も傷付けられ、苦しめられてきたが、それでも浪に命を救われ続けてきた事もまた事実だ。

確かに浪は元々非道な男ではあったが、それでもこんな風に『家族』を傷付けたり苦しめたりするような男ではなかった。ましてや『家族』の命を奪うだなんて行為に及ぶような男でもない。浪をこんな風にしてしまったのは、あの日恐怖を乗り越える事が出来なかった自分の弱さだと陸は感じている。その思いが後悔という形になって、今も絶えず胸の中を巣食うように支配していた。

だというのに、心のどこかで、もう浪に怯えなくてもいいのだと安堵している自分自身も確かに存在している。感情の触れ幅はめちゃくちゃで、何をどう表現していいのか分からないままだ。

「…兄さん」

色んな言葉を思い浮かべてみた陸だったが、結局何一つ思い付かなくて、自分の目に見えているものが浪の首である事を確認するかのように、それ声でなぞらえる事しか出来なかった。

目の前に転がっている男は、兄であって兄ではない。兄と呼ぶその関係に、陸はずっと縛られてきた。それが苦しかったはずなのに、その存在を失ってしまったと理解した途端、なぜか胸の中には孤独が広がって、寂しさが満ちていく。陸自身にも理由はよく分からない。

「お前は今これを見て何を感じている?」

白子の問いを聞いた陸はようやく顔を上げて、風魔の長に視線をやった。白子の声色は変わらないし表情も読み取れなかったが、何かを伝えているような気がして、陸はよく働きもしない頭を必死に動かしながら、自分の中にある答えを手繰り寄せる。

「…わ、かりません」
「…」
「兄さんが居なくなって、良かったと思っているのに、なんだか空しくて、よく分からない気持ちです」
「それはお前が浪に畏怖していたからだろう。長い間恐怖した存在でありながら、それと同時に尊敬し、敬愛していたはずだ」

そう言われて陸の脳裏に浮かんだのは、まだ幼い自分と姉と一緒に笑う、あの頃憧れた浪の姿だった。同族を殺すような非道な男を尊敬した事などないのに、どうしても白子の言葉を否定できない。

思い返せば、未熟で弱くて幼くて、何も出来なかったあの頃の陸にとっては、大人にも負けない程の強さを持ち、大きな夢を語る浪の姿は、誰より一番輝いていた。そして誰より一番、焦がれた存在だった。そうして一つの答えに辿り着く。


きっと、きっと本当は、あの頃みたいに、強くて思いやりのある浪に戻ってくれると、心のどこかで信じていたのだ。思い出せば胸が熱くなるあの日々の中で見つけた、憧れ続けた浪の姿を求めていたのだ。


ずっと忘れたつもりでいた感情が、一気に込み上げる。
いつか浪が、あの頃の輝きを取り戻してくれる事を望んでいた。その為になら自分が犠牲になっても構わないと思っていた。けれどいつの間にか、与えられ続けた恐怖に押し潰されて、その感情は徐々に薄れて歪んでしまったのだ。本当はこんなにも、浪を信じていたはずなのに。

思い出した途端、ボロボロと涙が溢れて止まらない。久々に泣いたものだから、喉の奥が詰まって声も上げられないまま、生温い雫が右の頬を濡らしていく。

「…お前はそうやって、ずっと感情を押し殺して生きてきた。風魔としては間違っていない。だが、俺が今お前に尋ねているのは『お前自身』が抱えている気持ちだ」

陸の涙を見ながらそう言った白子の声は、風魔小太郎と呼ぶには、あまりに優しかった。

「お前は今、何を感じ、どうしたいと思っている」
「お、れは」

もう一度問われて、陸は震える唇を動かした。

「…もう一度、あの頃の兄さんに、会いたかった。こんな風に、死んで欲しくなんて、なかった」

子供みたいに泣きながら吐き出した言葉は、酷く情けなくて惨めに思えたが、もう我慢出来なかった。嗚咽が漏れ、溢れ出る涙を止める術もない。

溢れ出す感情のまま陸は泣いた。目の前で転がる浪の頭を見て、悔しさと悲しさでいっぱいになる。結局最期まで、大好きだったあの日の浪に再会する事は叶わなかった。

そうだ、大好きだった。浪に憧れて、浪のようになりたくて、陸はずっとその背中を追いかけてきたのだ。非道なところも残虐なところもあった。けれど、自分の事を子分だといって可愛がってくれるような優しさを持った人だった。それを誰より知っていたから、陸はずっと過去に縛られて今日まできてしまった。

「浪を殺したのは俺だ。俺が憎いか」

白子の言葉に、陸は迷いなく首を横に振る。浪が犯してしまった罪は、決して許される事ではない。だから陸は白子の決断に、僅かな怒りも憎しみも感じはしなかった。

ただ胸を衝くこの痛みだけは止められはしない。悲しみに突き動かされた想いは上手く言葉に出来なくて、涙になって溢れるばかりだ。

陸は思う。自分にもっと力があれば、浪を止められる未来だってあったはずなのに、浪と向き合うのをやめて逃げ続けた結果が今なのだから、やっぱり自分自身の弱さを呪わずにはいられない。悔やんでも悔やんでも、この後悔が消えることはきっとないのだろう。

「もし俺が長であるから憎むまいと思っているのなら、そんな考えは捨てろ。憎んでも構わん」
「憎くなんてない…ただ……ただ、苦しくて、悲しいんです」

嗚咽交じりに吐き出された言葉に嘘はない。白子はそれを聞いて、陸の根本にある優しさに触れた気がした。そして陸の優しさは、渓のそれとは違うという確信を持つ。

渓は優しさで心を強く保てる娘だ。しかし陸は、優しすぎるが故に自分の心を削っていくのだろう。そうして感情が上手く表現できなくなり、心を保てなっていく。それが陸の弱さであり甘さだった。陸が自分の本音に気付く事で、初めて陸は本当の意味で強くなれるのだ。白子は自分がここに居る間に、陸にそれを気付かせてやりたかった。

「ならばもう分かるだろう。お前が腹を切って、残された渓は何を思う?あれにお前と同じ思いを味わえというのか?」

言い聞かせるような言葉には、白子から陸への愛情が向けられていた。もう陸にだってちゃんと伝わっている。陸は泣き濡れたボロボロの顔で白子を見上げながら、上手く言葉に出来なくて首を横に振ることしか出来なかった。

「…縄を解いてやれ」

白子が言うと、事のあらましを見守っていた風魔の一人が陸の縄を解いた。渓が連れ去られたあの夜、周囲の警戒に向かった髪の短い風魔の女だ。

陸は両腕が自由になったと同時に、弾かれたように目の前に転がった浪の首に縋りついた。嗚咽を上げながら泣き続けるせいで、零れ落ちた涙がぽたぽたともう動かない浪の頬を濡らしていく。ごめん浪兄、ごめんなさい、と何度も繰り返す陸の背を女は何も言わずにさすってやった。



陸の処罰が終わったので、白子は次に風魔達を見渡した。風魔達も白子に視線を向けて言葉を待つ。少しだけ息を吸うと、先ほど陸に投げかけていた声とは打って変わって、冷たく低い声で言葉を紡ぐ。

「裏切りの風魔は鏖にした。此処に残っているはみな同胞だ、安心するといい。ただ、多くの家族を失った事は事実だ。それは受け止めなければいけない」

淡々とした声が続く。

「政府は渓を狙っている。今度こそ間違いなく、奴等は俺達を殺しにくるだろう。そうなればもう迎え撃つだけだ。全面戦争は避けられない。そこでお前達には命令を下す」

一拍置いて、白子ははっきりと宣言した。


「風魔は今日をもって離散する。各々自由に生きろ」


予想もしていなかったその発言に、風魔達は動揺を隠せずにざわついた。渓を守る為にあれこれと準備するつもりでいたのだ、突拍子もなく伝えられた命令に困惑し言葉に詰まる。当然陸も、その背をさすっていた女も同様の反応だった。白子はそんな反応を見越していたようで、臆することなく続けた。

「多くの裏切りが出たせいで、迎え撃つ戦力も危うい。その状況を招いたのは渓をここへ連れて来た俺だ。責任は俺にある」
「しかし長…!」
「此処に居る者達は皆、渓を受け入れてくれた。そして渓を受け入れる事でお前達は変わった。感情が豊かになり、忍ではなく人のように笑うようになった。それはどこにでもありふれた笑顔だ。そんな今の里を俺は誇りに思う」

風魔達は口を挟めず、ただ白子の言葉に耳を傾けるばかりだ。

「だが、風魔の長としては正しくない判断だった事は間違いない。だからこそ俺が責任を取る。せめてお前達には生きていて欲しい。移り変わる時代の中、忍が生きる世界が戻る事はきっともうないだろう。今のお前達なら大丈夫だ、どこへだって行ける。命令にも何にも縛られない自由な世界で、自分の心のままに生きていける。渓がこの場所でそうだったように」

誰もが愕然とした様子で白子を見つめる事しか出来ない中、声を上げたのは陸だった。

「じゃあ、長は…此処で一人で死ぬというのですか…?」
「犬死するつもりはないが、風魔小太郎が死ねば風魔は終わる。それでいい」
「っ、云ってることが違うじゃないか…!だったら、だったら残された渓様はどうするおつもりですか…!」
「"猪"に全て任せてある、問題ない」

白子の言葉が何を意味しているのかを、誰もが察した。陸を支える女の風魔が震えた声を上げる。

「そんな大切な事に猪様を…"二曲輪猪助"を使われるおつもりですか…!?」
「軽蔑してもらって構わん」

きっぱりと白子がそう言いきった時、突然空気が揺れる。それと同時に、どこからか現れた猪が、長い髪を靡かせながらふわりとその場に降り立った。端整なその顔はいつになく不機嫌そうで、怒っているようにも悲しんでいるようにも見える。

「長、緊急のご報告が」
「何だ」
「渓様が目を覚まされました」

いつになく淡々と業務的にその報告は行われたが、白子は猪の顔も見ず返答する。猪の態度を気にしていないのか、気にしないようにしているのかは分からなかった。

「容態は?」
「熱は少しあります。後はもう見ていただければ分かるかと」
「そうか」

それだけ言うと、白子はひらりと岩から飛び降りる。そして風魔達を一瞥した。

「話は以上だ、必要なものを持って早く行け」

最後にそれだけ言い残して、白子は去ろうとする。慌てて女がその背中を呼び止めた。

「お待ち下さい長!」

本当に何もかもがあまりに突然の事で、風魔達は白子からの"最後の命令"を受け入れられないでいる。白子は呼び声に足を止めたが、振り返ったのは顔だけで、もう向き合う気配はない。

白子は噛み締めるように風魔達を見渡した。その顔には、風魔小太郎には似合わない、柔らかな笑みが浮かんでいる。それは消えてしまいそうなほど儚い、優しい顔だった。


「どうか、幸せで居てくれ」


それ以上は、もう誰も何も言えなかった。祈るようなその言葉は、まるで遺言だ。白子は振り返るのをやめると、猪を連れて渓が眠る自身の屋敷に向かって歩いていく。残された風魔達は白子の背中を見送ったまま、誰もがその場から動けずに居た。




「…本当にこれでいいのか」

しばらく歩いてから、猪が呟くように言った。視線は白子を捉えていない。白子もまた猪に視線を向ける事無く答える。

「ああ」
「…どうしようもない馬鹿だよ、お前」

吐き捨てるように猪は言った。白子はようやく猪を見る。猪は納得出来ないという顔をしていたが、白子の意向には従う決意をしたらしい。

研究所を燃やした日、猪にこの話をしたとき、猪は烈火のごとく怒り狂って猛反対した。連れて来た眼鏡の若い研究員が、気絶していたにも関わらずその怒声に一度目を覚まし、もう一度気絶してしまう程の気迫だった。だが、それでも白子は引かなかったのだ。猪に何を言われようと、何度止められようと、白子は最後までその決断を覆す事はなかった。

「お前には苦労をかけるな」
「だったら今すぐさっきの命令を取り消してくれ」
「…渓を頼む」

白子がそう言えば、猪は苦虫を噛み潰したような顔で、ぐっと堪えるばかりだ。そんなやりとりを交わす中、白子の脳裏に浮かんだのは、いつだったか天火が大蛇実験の事を伝えた日の事だった。まさか自分が天火と同じ立場になるとは思いもしなかったな、と白子は思って苦笑する。

残される者の気持ちは痛いほど良く知っている。それでももう、白子は誰も傷付けるわけにはいかなかった。猪になら渓を預けていける、そう判断したから、決断を下したのだ。風魔の長としての最後の決断を。


二人の間に、それ以上会話はなかった。物悲しい冷たい風が吹き抜ける。
最後の冬が始まる音が、遠くで聞こえた気がした。


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