夜半。居間の机を挟んだ向かい側に、猪はいつものように上品に座っていた。その顔はにこにことしていて、まったく反省の色は見えない。寧ろこの状況を楽しんでいるようにさえ見える。

白子は胡坐をかいて頬杖を付きながら、不機嫌な顔を隠す事もなく目の前の綺麗な顔の女―――ではなく、男を睨みつけていた。その背中にに隠れるようにして座っている渓は、完全に猪を警戒してしまっているようで、怯えたような、信じられないといったような顔で猪をまじまじと見つめるばかりだ。渓の小さな手はしっかりと白子の浴衣を握りしめて離さない。

問題ばかり巻き起こしてくれる猪と、すっかり怯えきっている渓。二人のこれからを不安に思いながら、白子はやれやれと息を吐くのだった。


二十三、それぞれの思い


「改めてご紹介に与りました、猪と申します。紛うことなき男です。以後お見知りおきを」

猪は渓に向かって深々と頭を下げる。その所作は一つ一つ、どれを取っても女性的で美しい。きちんと礼儀作法を学んだ立派な令嬢でも、ここまで美しい仕草を振舞えないだろう。やっぱり渓は信じられなくて、恐る恐る白子を見上げた。白子は渓の視線に答えると、少し申し訳なさそうに眉を下げてから、相変わらずの不機嫌顔で猪を見た。

「猪」
「はい」
「見せてやれ」
「仰せの通りに」

顔を上げた猪はにっこりと微笑みながら、肩に掛かった着物をするりと脱ぎ始めた。白い肌を滑り落ちていく白い着物、その光景はもはや芸術作品かなにかのように美しいのだが、見とれている場合ではない。渓は慌てて猪を止めようとしたのだが、それを制したのは白子だ。そして完全に上半身が裸になった猪は、にっこりと微笑んだままその体を見せ付ける。

「じゃーん!」

聞いた事のない男性的な声でそう言いながら、猪は悪戯っぽく笑う。着物の下から現れたのは、鍛え上げられた男性の体だった。しっかりと筋肉のついた逞しい胸板に、六つに割れた腹筋。どこからどう見ても、そこに女性らしさは欠片も存在しない。渓は愕然としてその光景を見つめたまま固まる事しか出来なかった。

猪はそのまま腰ほどまで伸びた長い髪を纏めると、高い位置で一つに結んで、次に両手で自身の顔を覆って俯いた。それから少し間をあけて、パッと顔を上げて両手を開く。

「じゃじゃーん!」

上げられた顔には先程まで施されていた化粧はすでになく、中性的な美しい顔の男性が現れた。猪は悪戯っぽく笑いながら、悪戯が成功した子供のような無邪気なえ笑顔を見せながら、顔の両側に開いたままの手のひらをひらひらと揺らす。

女だと思っていた猪の面影はあるものの、化粧のないその顔まるで別人だ。手品のような一瞬の出来事で、渓はさらに目を丸くした。そんな渓を見ながら、猪は満足そうに微笑ばかりだ。

渓は上手く反応することも言葉にすることも出来なくて、ゆるゆると白子を見上げた。白子はその視線を受けて渓を見下ろすと、げんなりした様子で言う。

「分かったか、こいつはこういう奴だ」

今まで渓の中で積み重ねられてきた理想の猪が、ガラガラと音を立てて崩れていく。信じられなくて、渓はもう一度猪を見た。正座をしていたはずの猪はすでに足を崩して胡坐をかいており、上半身をさらけ出したままでにこにこと笑っている。嘘だ、と思いながら、渓は深く長い息を吐いて頭を押さえた。わけが分からなさ過ぎて、熱でも出そうだ。

白子は渓の重く悩ましい溜め息を聞いてから、少し申し訳なさそうな様子を見せながら、なぜ猪が女装をしていたかの経緯を話し始めた。

猪は風魔一党の中でも随一の韋駄天であり、さらには図抜けた変装の達人だ。そして、風魔小太郎の側近でもある。忍としての実力もその強さも申し分なく、白子が不在の際には長の代理として一族を纏める事もあるというくらい、白子や風魔の一族からの信頼を得てもいる。そんな猪にだからこそ、自分の居ない間、渓を託すことにしたのだ。

しかし、そうするには一つ大きな問題があった。それは、猪が男だという事。
渓は視力が失われている間、川路に狙われて山奥で男達に襲われている。そのせいで、見ず知らずの男に対して警戒心が強まっているのは間違いなかった。いくら白子の側近だとはいえ、白子の居ない間見知らぬ男とずっと二人きりでいると、渓が気を遣って疲れてしまうだろうと判断した白子は、猪に女装して渓の傍に居るよう命令したのだ。当然猪もその方がいいと同意したので、こうして女装して傍に居ることになったのだ。

そんな話の最中も、猪は相変わらずの笑顔で白子と渓を見ていた。随分と渓の気持ちを掻き乱した面倒毎の張本人だというのに、悪びれる様子も反省する様子もなく至って普通に座っている。今回の事も本人としては大した事がないようで、今後も仕えなければいけない渓に怪訝な目を向けられている事に関しても、それほど気にしていないらしい。

「そういうわけで」

女装している猪よりも幾分か低い、それでいてハキハキした口調で猪はそう言うと、胡坐をかいたまま深々と頭を下げた。

「改めてどうぞよろしく」
「よろしくじゃないです…」

渓は怯えたようにぽそりと呟いた。当然の反応だな、と思って白子は特に何も言わない。猪はというと、そんな渓の言葉に無視をして顔を上げると、一人でべらべらと話始めた。

「趣味は変装、特技も変装、徒競走ならお手の物。好きなものは可愛い女性、嫌いなものは鳥の糞。ちなみにはっきり云っておくけど、男に全く興味はないから変な誤解はやめてくれよな」

こんなに口数の多い人だとも思っていなくて、渓は眉間に皺を寄せて目の前の綺麗な男をまじまじと見つめることしか出来ない。そんな渓に顔を近づけて、白子はぽそりと呟いた。

「もう分かったな、こいつはこういう奴だ」

猪に視線を寄越しながら白子の言葉を受けた渓は、もう疑う事無くコクコクと何度も頷く。そんな二人の様子を見て、猪はくつくつと喉の奥で楽しそうに笑った。

「見せ付けてくれちゃって〜俺も混ぜろよ」
「黙れ殺すぞ」
「おいおい、そんな恐ろしい言葉使ってると、そのうち本当に嫌われるぞ」
「これで嫌うなら、こんなところに渓は居ない」
「は〜なにそれ、羨ましい。愛だね愛。ったく、誰のお陰でその愛が保ててるんだか」

わざとらしく猪がそう言ったのを聞いて、白子はピクリと片眉を上げた。渓は意味深に発せられたその言葉に、不思議そうに首を傾ける。そんな渓を見て、猪はクスッと悪戯っぽく笑った。その顔は驚くほど綺麗だというのに、男らしい色気に満ちている。渓は知らない男の人を前に、怖いのと緊張とでどきどきしてしまって、反射的に白子の影に少しだけ隠れてしまった。そんな事を気にするでもなく、猪はすっと渓に右手を差し出した。渓は驚いて差し出された手を見つめる。

「ん」

猪はそれ以上何も言わない。渓は不安げに白子を見上げるが、白子は何も言わずにくいっと顎で差し出された手を示すだけだ。握ってみろ、ということだろう。渓は恐る恐るその手を握る。そしてぎゅっと握手を交わした瞬間、消えかけていた記憶が鮮明に甦った。

この手の硬さを、渓は知っている。

それはまだ、大蛇の実験が再開される前の事。目の見えない渓が白子を待って縁側に腰掛けていた日の事だ。あの夜、白子は来なかった。変わりに知らない風魔の男が金城白子に扮して現れたのだが、その皮膚が白子よりも少し硬くて、渓は白子ではないと見抜いてしまった。それからその風魔の男が持ち出した『賭け』に、渓は乗ったのだ。思い出してしまえばなんてことはない。渓は以前から、この男を知っていたのだ。

渓はハッとして男の顔を見る。顔も知らない男だったが、間違いない。目の前の猪こそが、あの日白子に変わって渓に会いに来た風魔の忍だったのだ。

あの日の出来事を思い出し、渓の中で揺らいでいた不信感は一瞬にして取り払われる。あの日、猪が『賭け』を持ち掛けなければ、もう二度と白子に会うことは叶わなかったのだから。白子の背中に隠れることをやめた渓は、真っ直ぐに猪に向かい合う。そして少し前のめりになりながら、自然と口を動かしていた。

「あの時の…!」
「そう、お久しぶり」
「あの!あの時は本当にありがとうございました!あの『賭け』がなかったら、私本当に白子の事…」
「ははは!長と違ってほんっと素直。良かったな、ちゃんと会えて」
「はい!」

渓は嬉しそうにそう言って笑顔を見せた。そんな顔をしながら素直に傍に居られる事を喜ばれるのは、あまりにも不意打ちすぎたようで、白子は何となく気恥ずかしくなってふいっと顔を逸らす。そんな白子をばっちりと見ていた猪は、にやにやと笑いながら白子に言った。

「こんなに可愛くて素直な子手放さずに済んで本当に良かったな、"白子"」
「本気で埋めるぞ貴様」

視線だけで猪を睨み付けた白子を見て、渓はあっと声を上げた。つい癖で"白子"と呼び続けてしまう事を申し訳なく思いながら、伺うように白子を見つめる。

「ごめんね白子、名前…」
「名前なんて別に構わない。そんなことより」

白子は握手を交わしたままだった渓の腕を取って、ぐいっと抱き寄せる。渓はあっさりと白子に包み込まれてしまって、思わず頬を染めた。そんな二人を見ながら、猪は相変わらず楽しそうにニヤニヤとするばかりだ。白子は猪を睨み付ける。

「何度も云わせるな、これは俺の女だ」
「握手してただけなんだけどな」
「お前は意味深に触りすぎる」
「妬くなよ。男の嫉妬は醜いぞ?」

クククッと猪は笑うと、楽しそうに渓を見た。渓は恥ずかしくて白子の腕から離れようとするが、白子は一向に渓を離そうとはしない。仕方ないので腕から抜け出すことは諦めて体制だけを整えると、こっそり顔だけ猪を見ながらおずおずと声を上げた。

「あの、ところで猪さん」
「んー?」
「どうして私の事、騙したりしたんですか?」

渓は猪に唆されて、白子に向かって「白子のものにして欲しい」等という大胆な発言をする羽目になった。その発端になったのは、猪が渓に語った白子との昔話と白子への思いだ。渓は猪が白子を好きでいるからと思ったからこそ、猪から託されたお願いを素直に聞いた結果、大恥をかいたのである。

猪からのお願いというのは「早く白子に抱かれて、本当の意味で白子のものになってほしい」というものだった。そうなれば、もうこれ以上白子に思いを向けなくて済むからと、猪は言葉巧みに渓の心を操作してそう言ったのである。それを素直に信じた渓も渓なのだが、何よりも女の純情を面白がるような猪の態度は、さすがに許し難いものだった。

そんな渓の言葉を聞いて、猪はやっぱり楽しそうに、そして意地悪く微笑んだ。愉快そうに渓からの問いかけに答える。

「何云ってるんだ、騙してないさ。俺は本当の事しか云ってない」
「だって!白子の事大切に思ってるって…!」
「ああ云ったよ、それは嘘じゃない。だって里の長なわけだし、俺は長にちょっとした借りがある。大切に思うのは当然だろ」

そこまで言って、猪はニヤリと笑った。

「それを勝手に『好き』だと勘違いして早とちりしたのは、どこの誰だっけ?」
「!」

やられた。渓はそう思って顔を赤くしながら、むっとした表情で猪を睨み付ける。確かに猪が白子を想っているのだと勘違いしたのは自分だが、それでもあんな演技でわざわざ騙すだなんて、あまりにも酷い。渓はその感情を素直にぶつけた。

「貴方、酷い」
「だって嘘はついてないだろ」
「白子への思いを断ち切るため、なんて云ったくせに」
「長が好きだから、とは云ってないはずだけど?」

飄々とした様子で言いながら、猪は意味深に口角を吊り上げた。素直に謝ればいいものを、どうやらとことんまで渓をからかってやりたいらしい。純粋な渓は簡単に振り回される。それは、可愛い女の子を苛めたい、という些細な加虐心をどうしてもくすぐるのだろう。

「それに、二人にさっさと引っ付いて欲しいのも、長に対するちょっとした思いを断ち切りたいのも事実だ。なあ長?」

猪は白子に視線を寄越す。彼の言わんとしている事を理解した白子は、あえてそれに答えようとはしなかった。

猪が差す『断ち切りたい白子への思い』というのが、一刻も早く渓を娶って風魔にすべきだ、という事だ。そうすれば渓は堂々と風魔に受け入れられる事になる。作為的に言い回しを変える事は多いが、猪は嘘をつかない。忍のくせに、嘘をつくくらいなら舌を噛み切って死んだほうがマシだと胸を張って言うだろう。猪はそういう男だ。

彼なりに二人を思っているのは間違いないのだが、あえてこの感情を意味深に濁したのは、間違った方向に渓を勘違いさせる為だった。そうして渓をうまく唆して、白子を誘わせたのだ。

確かにやり方に問題はあるが、猪は猪なりに渓の居場所を作ってやりたいと思っていたのだろう。あえておちゃらけて自分を魅せている猪だが、こう見えて白子と渓の幸せを誰よりも心から願っている。さっさと既成事実を作ってしまえば、白子は間違いなく渓を娶るだろう。そうなれば後は猪の思惑通り、とんとん拍子に事は進む。二人は晴れて結ばれ、渓は風魔になり、里での自由も約束される。決して悪い事ばかりではないのだ。

もちろん、白子だってそれはきちんと理解はしている。風魔の長としてはその決断を下すのが一番正しいということも、その現実を受け止めてもいる。ただ、結果的に渓を傷付けるだけになるその結末を選べないでいるのは、一人の男としての葛藤だ。渓を『風魔』にするということは、純粋で無垢な『渓』という存在を失うという事だ。

「白子…」

おずおずと渓は腕の中から不安そうに白子を見上げる。猪の発言の節々が意味深すぎたのと、女だと思っていたはずが男だったのと、これから猪を信じていいのかどうかも分からないのとで頭が追いつかないのだろう。白子は腕の中の渓に穏やかに笑いかけると、落ち着かせるような優しい声で言った。

「渓。今日はもう遅いから先に寝てな」
「白子は?」
「この馬鹿に灸を据えてから寝るよ」

安心させるように渓の頭をぽんぽんと撫でれば、渓は素直に頷いた。まだ不安げな表情は浮かべているものの、抱き締めていた腕を離して大丈夫だと白子が言えば、渓はもう一度頷いて立ち上がり、寝室に足を向ける。

「それじゃおやすみなさい。…猪さんも」

襖の向こうに渓が消えて、居間には白子と猪だけが残される。猪は渓の小さな背中を見送ってから、肌蹴たままの着物を雑に着直すと、溜め息をつきながらごろんとその場に寝転がった。上手くいかなかったな、くらいにしか本人は思っていないのだろう。白子はそんな猪に冷めた視線を送りながら淡々とした口調で告げる。

「渓にお前や俺の気持ちを押し付けたくはないと云ったはずだ」
「分かってるよ、分かってて唆したんだ」
「あれで俺が渓を抱くとでも思ったのか」
「女の子にあそこまで云われたら普通は抱くだろ。寧ろ、抱かないという選択肢がある事にびっくりだ」
「俺はお前じゃない」
「…ま、そうだな」

猪はふっと笑って起き上がった。なんとなく諦めたような顔をしている猪を見て白子は続ける。

「どうせさっさと渓を抱かせて『風魔』に取り込もうとでも思ったんだろう」
「ご名答。そうすりゃお前もあの子も、一族公認で幸せになれるだろ」
「余計なお世話だ」
「だったみたいだな」

そう言ってぐっと伸びをして立ち上がった猪は、縁側に移動して腰を下ろした。見上げる空は相変わらず乱雑な木々の枝に遮られているせいで、ほとんどよく見えない。ぼんやりと月が浮かんでるのが、深い緑の葉の隙間から僅かに見えるだけだ。零れ落ちる弱々しい月明かりだけでは、どうにも世界は頼りない。猪はそんな世界の中で、ふうっと深く息を吐く。

「悪かったよ」
「それは俺に云う台詞ではないだろう」
「夜が明ければ、お姫様にも伝えるさ」

それからしばらく間が空いて、静寂が二人を包み込む。猪は少しだけ考えを巡らせてから、空を見上げたままでゆっくりと口を開いた。

「お前があの子を本気で大切にしてるのは伝わった。もう余計な世話は焼かないよ」
「当然だ。お前が世話を焼くと、いちいち拗れて面倒で敵わん」
「ただ、時期が来てもどうにもならなかったら、俺はあの子を風魔にする方法を選ぶからな。その時は覚悟しとけよ」

白子は答えない。猪は振り返って、空に向けていた視線を白子に向けた。その表情は真剣で、瞳の奥には悲しみが滲んでいる。それが過去を映し出しているのだと、白子は知っていた。そんな白子に向かって、猪は落ち着いた声で話し始める。

「あとこれだけは云っとくけどな、いくら大事だからって相手の気持ちだけで物事を決めるのはやめとけ。十年以上もすれ違ってやっと一緒になれたんだ、お前があの子を大切に思うのも、傷付けたくないのも分かる。でもな、それで何もかも上手くいくわけじゃない。お前みたいに背負ってるもんが大きければ大きいほど、相手の気持ち一つじゃどうにもならない事があるんだよ」
「…」
「相手を傷付けずに守るのも強さだけどな、相手を傷付けてでも守る強さが必要な時が必ず来る。だから――」

猪は一度目を伏せて、そして再び白子を見た。強く、悲しい眼差しで。


「お前は絶対、間違えるな」


凛と告げる猪の言葉が、どれほどの重みであるかを、白子は知っている。あの日、まだ白子が風魔小太郎を継ぐ前の日、里には血の雨が降ったのだ。いくつもの同族達の死体が転がるその真ん中で、真っ白な髪を返り血で真っ赤に染め上げた猪が驚くほど綺麗な顔で笑っていたことを、きっと白子も忘れる事はないのだろう。

猪の抱える痛みを思い出して、白子は目を閉じて息を吐く。あの時の猪の気持ちは、自分には一生理解の出来ない感情だと思っていた。けれど、渓という存在を手に入れてしまった今、その気持ちが痛いくらいによく分かる。あぁ、いつの間に自分は、こんなにも多くの感情を手にしてしまっていたのだろう。

「…善処はする」

閉じていた目を開きながら吐き出せた言葉はそれだけで、それ以上は何も言えなかった。猪はその言葉を聞いてふっと表情を綻ばせると、よっこらせ、と言いながらわざとらしく立ち上がる。そして白子に向けた笑顔の中には、もう先程の悲しみは残っていなかった。いつものように明るい、飄々とした口調を取り戻した猪は、相変わらずハキハキを言葉を並べ立てる。

「まぁでも、良かったな!俺のお陰で可愛い恋人から接吻は貰うわ、夜のお誘いは受けるわ、やきもちまで妬かれるわ。感謝して欲しいところだらけだぞ」
「やっぱり見てたんだな」
「当たり前だろ?こんなおいしい光景、見なきゃ損でしかないからな」

クククッと悪戯っぽく笑ってから、猪はニヤリと笑った。

「思ったより嫉妬深いらしいからな、二人とも。これで随分安心しただろ、"白子"」
「…貴様、」
「ははは!怖い怖い、逃げるに限るな!」

笑いながらそう言って、楽しそうなまま猪は居なくなった。一瞬で完全に気配を消してしまったあたり、どうやら本気で帰ってしまったらしい。白子は盛大に溜め息をついて、猪の言葉を思い出す。

白子は猪が男だと知っていた。だからこそ猪が面白がって、猪を男だと認識していない渓にちょっかいを出し自分の反応を楽しんでいたことも分かっている。それもあって、嫉妬しているのはいつだって自分だけだとどことなく思っていた。

だが、この一件で渓にもちゃんとやきもきする気持ちがあった事は確かに知ることが出来た。引っ掻き回してくれた猪に感謝するのはどうも癪だが、仕方なく今回は見逃してやることにしよう。

白子は小さく笑みを零して、そっと夜を見上げるのだった。

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