明けない夜が来ればいい。
そうすれば、彼女はずっと笑ってくれる。

会いたい、けれど会わない方がいい。ならばいっそ忘れてしまえたら良かった。叶いもしない望みを、一人の男は遠く離れた地で、孤独に押し殺していた。それを知っていたのは、月になりきれなかった月の欠片だ。欠片は言った。

じゃあ俺が代わりに会いに行こう。だって俺はお前だろう。

月は悩んだ。悩んでから、そっと口を開いた。
誰にも知られず、遠い地で。


九、芦屋睦月


「錦ちゃんと空丸はいつ結婚するの?」

七月の中頃、この日は久々の曇天で、雨こそ降ってはいないものの、厚い雲で覆い尽くされた滋賀の地は、夏の湿気を孕んでひどくじめっとしていた。そんな日の昼食時、牡丹と比良裏の結婚の話題が持ち上がったのだが、その流れで渓から放たれたこの言葉によって同じ食卓を囲んでいた錦と空丸はすっかりと固まってしまった。空丸は顔を赤くして慌てふためき始め、錦は恥ずかしさのあまり俯き、宙太郎はそんな二人を交互に見比べるばかりだ。渓は雰囲気だけでそれを感じ取ると、くすくすと笑い出す。

「…気が早かったかな?」
「お、俺達なんかよりまず渓さんが…!」

焦った空丸が咄嗟に放った一言だったが、思わずハッとして口を塞ぐ。渓は自身が望む相手とは決して一緒になれないのだ。ぽろりと零れた言葉は渓を傷付けてしまうに違いない。空丸は口を塞いだままで恐る恐る渓を見る。しかし、予想と反して目の前の小さな娘はいつもの様子を崩すことはなく、ただ困ったように笑っていた。

「私はいいよ、そんな相手もいないし、それに目も見えないんだもん。こんな女を嫁に貰ってくれるような人なんてそういないから」
「あ、その…」
「このまま行き遅れたら、一生ここでお世話になります」

冗談交じりにそう言って頭を下げると、渓はくすくすと笑った。そんな渓を見て、宙太郎が純粋な瞳をきらきらと輝かせる。

「渓姉ずっと一緒っスか!?」
「行き遅れたらね!」

行き遅れの意味もよく理解出来ていないらしい宙太郎は、渓と一緒にいられるという都合のいい部分だけを受け取って、嬉しそうに渓の華奢な体に飛びついた。渓はそんな宙太郎を抱きしめながら、完全に勘違いされてしまっていることにやれやれと眉を下げて、困ったように笑っている。そんな二人を険しい顔で見つめていたのは空丸だ。

自宅に帰るようになって以来、渓の笑顔に偽りはなくなったものの、それでもどこか寂しげな気持ちが見え隠れしていることに、空丸だけは気付いていた。しかし、その理由として思い当たるのはたった一人、柔らかな白髪の男だけなのだから、もはや自分にはどうしようもない。

空丸は、どことなく影を帯びたままの渓が少しでも自分の意思で進んでいけるようにと見守り続けていたのだが、その影が最近やけに濃度を増しているような気がしてならなかった。それでも渓は確かに笑っているのだから、このまま見守り続けるべきか、胸の中に秘めたままの憂心を言葉にしてしまうべきかをずっと悩んでいた。そんな空丸の心配事など露知らず、渓はじゃれ付く宙太郎の相手に勤しんでいる。

渓は、あの夜から一度も男には会っていなかった。縁側で待つことは変わらず続けていたものの、男が現れる気配はなく、渓が男を待つ時間も短くなった。渓が想いを言葉にしかけたあの夜から、二人の間には確かに距離が出来てしまっていて、渓は言いかけたことを今もずっと後悔している。だからといって、そんな不安を口に出すことも出来はしない。それが空丸が感じている渓の中の「どこか寂しげな気持ち」だった。

渓にとってあの男は「名前も知らないただの恩人」で、男にとって渓は「あの日助けただけの女」に過ぎないし、すべてを分かっていたとしてもそれは口に出してはいけない。仮に渓が男の正体を誰かに口外してしまったら、確実に政府は男を狙って動くに違いない。少なくとも、犲は容赦しないだろう。彼らはどんな手を使ってでも渓を守るために行動を起こす。そうなれば、男の身に危険が及ぶ可能性は一気に高まってしまう上に、渓の自由は再び奪われる。男もそれが分かっているからこそ、渓と自分を守るため、何一つ言葉にはしないのだ。

渓の目が見えないのは、この件に関しては本当に幸いだった。男のことを聞かれても、見えないから知らない、何も話してくれないから知らないと貫き通していれば、決してそれは嘘にはならない。嘘の苦手な渓にとって、蒼世達を誤魔化しているという事実は心苦しかったのでが、それでも男の温もりは手放せなかったのだ。

しかし、その温もりももしかするともうすぐ手放してしまうかもしれない。渓はぼんやりとそう思い始めていた。
あの夜確かに生まれてしまった小さな溝は、気持ちを抑え切れなかった自分自身が悪いのだと自覚していたのだ。そのことを引きずって暗い顔をしたままでは、また空丸達に迷惑をかけてしまう。だから、渓は寂しさを心の奥底にしまい込んで変わらず笑っていた。その笑顔が昼食の間中絶えることはなく、渓は昔よりほんの少し大人びた表情を浮かべて、空丸の作ったご飯を平らげるのだった。


太陽が傾きかけた頃、曇天はどんどん厚さを増して、ぽつぽつと雨を降らせ始めた。はじめは少量の雨粒だったものの、雨足は一気に強まって、ざあざあと騒がしい音を立てながら地面をあっさりと濡らしていく。いつしか風も吹き荒れ、雨は豪雨に成り代わった。周囲の音は遮られたように聞こえなくなる。

曇家では錦と宙太郎が慌しく洗濯物を取り込む羽目になっていたその日、渓は自宅の縁側で一人腰掛けていた。なんとなく歩きたい気分だったから、雨が降らないうちに買い物に出かけると言った空丸に連れ出してもらって、買い物が終わるまで自宅で帰りを待っているところだった。

縁側から外に放り投げていた両足は、乱雑に跳ね回るしぶきに捕らえられて、驚く間もなくあっという間に濡れてしまった。渓はいそいそと足を家の敷地内に納めると、縁側から少しだけ距離を置いて、深い漆黒の瞳をのろのろと上へ向けた。相も変わらず移りこむのは黒く塗りつぶされた世界だけで、分厚く空を覆う曇天も滋賀の地に降り注ぐ雨も見えることはないのだが、渓にとっては煩わしいほどにうるさい雨の音が今は愛しかった。いつも遠くから聞こえる、滋賀の人々の幸せな笑い声をかき消してくれたからだ。

何も言わずにぼんやりと黒い世界を見つめたまま、どのくらいそうしていたのかは分からないが、それでも随分待ったような気がする。空丸もこの突然の豪雨に足止めを食らっているのだろう、まだしばらく迎えには来れないらしい。渓は乱暴な豪雨が奏でる荒れたリズムを耳にしながら、その心地よさに次第にうとうととし始めていた。こんな所で寝ては風邪をひいてしまうから、せめて部屋の中に入らなければと思うものの、眠気に包まれた体は鉛のように重く、なかなか言うことを聞いてはくれない。そしてとうとう渓の瞼が閉じられかけた、そのときだった。

「こんな所で寝ては風邪をひきますよ」

無機質で煩い豪雨の中、凛と響く声が真っ直ぐ耳に届いて、渓ははっとして目を開けた。目の前に映るのは相変わらず真っ黒な世界だが、こんなところで聞くとは予想もしていなかった聞き覚えのある声に、渓は閉じかけた声帯から何とか思いついた名前を搾り出す。声はかすれていた。

「……芦屋さん?」
「はい、庭から渓さんの気配がしたもので。玄関からやって来ずすみません」

そこには大きな黒い傘を差して庭に立つ芦屋がいた。微笑みに似たような目を作って、驚くばかりの渓を見つめている。なぜこんなところに芦屋がいるのか、渓には皆目検討もつかないので、とにかく硬直する事しか出来ない。眠りかけていた頭をなんとか働かせてみようとするが、昔から変わらず起動の遅い渓の脳みそは、まだ上手く活動をしてはくれないらしい。

「隣、よろしいですか?」

豪雨だというのに、不気味なほど芦屋の声ははっきりと聞こえた。豪雨で冷えたせいか芦屋のせいなのか分からなかったが、自然と鳥肌が立つのを感じながら、渓はおずおずと言葉を返す。

「…どうぞ」
「失礼します」

芦屋は縁側から渓の家に上がりこむと、黒い大きな傘をたたんで雨水を払い、濡れなさそうな場所に立ててから渓の隣に腰掛けて曇天を見上げる。隣に芦屋が座った気配を感じ取って、渓も足を畳んで姿勢を正した。眠気はすっかりどこかへ消え去ってしまった。

「あの、急にどうしたんですか?」

遠慮がちに渓が尋ねると、芦屋はのんびりと答えた。

「ええまあ、ちょっと貴女に届けものが」

言いながら、芦屋は隊服のポケットから一枚の紙を取り出した。その紙はこの豪雨で少し湿気てしまっている。そんなことはお構いなしにその紙を開いた芦屋は、渓の顔を一度も見ることなく続けた。

「政府からの極秘の書状です」
「え…私に、ですか?」
「はい、お読みしても?」
「…はい」

いいえ、と答えられるはずもなく、少しの間を空けてから渓は頷いた。返事を聞いた芦屋は、少しだけ息を吐いてから、淡々と告げる。


「令状、大蛇の眷属の最高峰である蛇の信者の末裔に、視力回復のための大蛇実験を云い渡す」


それは、豪雨の中でもなぜかはっきりと耳に届く、凛とした声だった。突然の告げられた政府からの令状に、渓の頭は完全に思考を停止してしまう。驚きのあまり声すら出せないままで、縛り付けられたように身動きも取れない。二人を世界から遮断するように、雨は激しく音を立てて地面を殴りつけるばかりだ。

「……今、なんて、」
「政府から渓さんへ、極秘の令状です。貴女の大蛇実験は貴女の意思とは関係なく行われることが決定しました」
「だ、って」
「これもすべて、貴女の身を守るためですよ」

言い放たれた言葉の意味を上手く理解できないままで、ただ令状の内容だけが頭の中を行き交っている。相変わらず呑気な芦屋の声がなんだかずっと遠くに聞こえるような、そんな気さえした。指先はやけに重いくせに、お行儀よく畳んだ足は妙にふわふわとしていて感覚がない。渓は信じられないといった表情を貼り付けたまま、次の言葉も見当たらなくて固まったままだ。それでもなんとか言葉を搾り出す。

「身を、守るって……」

言葉が声に変わった瞬間、まるで堰を切ったように次々と震える唇から声が溢れていく。

「私、もう力なんてないんです。誰にも狙われてません。それに、実験をするってことは、大蛇に関わるすべての記憶を消すってことですよね?私、そんなの―――」
「貴女が川路様に攫われたあの日から、隊長の指示で貴女の周りには常に式を飛ばしていました」
「……え?」

渓の唇から、いとも簡単に声が止む。雨の弾ける音がやけに鮮明に感じた。

「だから、貴女が神社を離れて此処で寝泊りしていることも、夜な夜な縁側で"誰か"を待っていることも、我々にはすべて把握済みです」
「な、」
「なぜそんなことをしたか、貴女が危険に巻き込まれないようにです。貴女は夜な夜な"誰か"と会っていた。その"誰か"は貴女に会いに来る度に、必ず式神を何らかの形で破壊して、それ以上追跡出来ないようにしています。貴女にはそれなりに高度な式を飛ばしていたにも関わらず、その僅かな気配でさえ察知されている。つまり、貴女が神社から抜け出してまで会いたいと願っている"誰か"は、それだけの感覚を持ち合わせている。そう例えば、」

一呼吸おいてから、芦屋は続けた。

「生き残りの風魔一党―――」
「違う!」

渓は咄嗟に叫んでいた。沈黙が流れ、少しだけ弱まった雨足が恐る恐るといったように地面に降り注ぐ。渓は唇を噛むと、芦屋に顔が見えないくらいに深く俯いて拳を強く握った。ここで否定するということは、あの男の正体を認めてしまっているも同然だ。分かっているのに、感情はどうしても先走って否定を述べていた。それが彼を追い詰めることになるかもしれないのに。すべてにおいて至らない自分が悔しい、心からそう思った。

芦屋は俯く渓の姿を見つめたまま、少し困ったように首を傾けると、指先でぽりぽりと頬をかいた。そして色々と思慮をめぐらせる。
今は亡き犲の師や隊長である蒼世、天火も愛して止まないこの娘をここで慰めるべきか、この任務を任された犲の一員としてこのまま淡々と用件だけを述べるべきか、様々な方法を考えていろんな言葉をごちゃごちゃと頭の中でかき混ぜてから、ようやく口を開くことにした。結局、うまい言葉は見当たらなかった。そのかわり、やけに饒舌になってしまう。

「仮にその"誰か"が風魔でなかったとしても、高度な式を察することが出来るほどの者ならば只者ではないことは確かです。ここにやって来る"誰か"が貴女にとって害のある人物かもしれない。目の見えない貴女がまた前回のように攫われる可能性も否定は出来ませんからねぇ。大蛇と関わりのある貴女を何かに利用されるわけにはいかないからこそ、今回政府から直接指示が下されたわけです。今貴女に与えられた選択肢は一つ、政府の指示に従うこと。背けば罪人として捕らえられることになる。そうなれば命の保障は出来ません」
「…」
「手荒な真似はしたくはないので、大人しく着いて来て頂けるとありがたいんですが」

縁側の向こう側にいた雨は少しずつ穏やかになり、静かに細い雨を降らせ続けていた。沈黙が重く、痛い。
一向に動く気配のない渓を見て、芦屋は仕方ないと式を取り出して強制的に連行しようとしたのだが、それと同時に渓の腕がぬらりと彷徨うように揺れた。そして力なく目の前の芦屋の服の一部を握り締めると、俯いたまま消え入りそうな声で言った。

「…一晩だけ、ください」

静かな雨にさえかき消されてしまいそうに儚い声に、芦屋も思わず動きを止める。

「式神も何も飛ばさない状態で、一晩だけください」
「…貴女がその夜のうちに逃亡する可能性は?」
「あります」

予想以上に素直な返答に面食らった芦屋は、思わず目を丸くした。渓は相変わらず俯いたままでいるので表情は見えない。床へ向かってだらりと落ちる黒く長い髪が、世界と渓を切り離しているかのようだ。

「でも、きっと、彼はそれを望んではくれない」

そう言って、ようやく渓は顔を上げる。視線は芦屋の目と重なることはなく、ただどこか、見えない何かを捕らえたままだ。その顔に表情らしいものは何もない。背筋がすうっと冷えてしまうほどに、ただただ無が広がっている。

渓という存在には馴染みのない不気味さは、まるで波のない海のようだ。芦屋の頭に『蛇の信者』という単語が浮かんで、すぐに煙のように消えていった。

「…貴女に名前も教えない、声も聞かせない、顔も分からない、そんな男を想うんですか?」
「…想うことは、罪ですか?」
「いいえ、ただ、それなら尚更目が見えるに越したことはないのではないかと」

言いながら、絹のような渓の黒髪に触れた。細く柔らかく滑らかなそれは、するりと手のひらを滑り落ちていく。

「だって彼は、『風魔一党』ではないのでしょう?」
「…」
「なら、貴女の記憶は消えない」

渓が僅かに悲しみを浮かべたことによって、どうにか無だった顔に表情が生まれる。芦屋はしばらく黙ったまま、少しだけ顔を伏せて視線を揺らす渓を眺めていたのだが、呆れたような諦めたような溜め息を吐きながら、ようやく立ち上がった。芦屋の服を掴んでいた渓の手も、あっさりと解けていく。

「一晩だけですよ」
「……え?」

渓は顔を上げて、芦屋の声がする方に視線を寄越すと、小さく声を漏らした。

「女性はずるいですねぇ」
「あ、芦屋さ…」
「ただし一晩です。明ければすぐに式を飛ばして貴女を迎えに来ますから、そのつもりで」

芦屋は傘を手に取り広げると、縁側から雨の中に進んでいく。傘が雨を弾く音が響いた。

「そうそう、一つだけ」

芦屋は振り返って渓を見る。その瞳は、やけに優しかった。

「貴女に飛ばした式の反応を消せば自分の存在を誇示しているようなものだというのに、そんな馬鹿な真似をしてでも貴女に会いに来るなんて、誰かさんはよっぽど馬鹿なのか、もしくはよっぽど貴女の喜ぶ顔が見たいんでしょうねえ」
「え…」
「貴女は笑ってた方がいいですよ、ここへ来る彼の為にも」

では、また明日。そう呟いて芦屋は去って行った。
一人残された渓は、いろんなことに頭が完全に追いつかないままで、ただ、緩やかな雨の音を聞いていたのだった。

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