夜、寄り添う二人の男女。
誰も知らない、誰にも言えない二人の秘密。
それが正しくはないことだと分かっていながら、伝い合う温もりで、想いを確かめ合っていた。

いずれ終わりが来ることを、本当は知っていたのに。


八、膨れ上がる感情


季節は移り変わり、夏をすぐそこに控えていた。桜はすっかり散り終えて、敷き詰められていた淡い桜色の絨毯も六月の雨で綺麗さっぱり消え去った。

七月に入ったばかりの空はいつになく青く、時々梅雨の名残を感じさせながらも、これから訪れるであろう夏特有のじめっとした暑さと楽しさを伝えている。夏休みを前に宙太郎は浮足立っているのだが、一方で空丸は花火大会や祭りで賑わうであろう神社の準備を少しずつ進めていて、当然錦も空丸の手伝いに勤しんでいる。渓はというと、相変わらず曇家の世話になりながら、神社と実家を往復するいつもの生活を送っていた。

そして、毎日ではないものの、男との逢瀬は今も内密に続いていた。頻度はそう多くなく、これまででも片手で数えられるほどしか会っていない。逢瀬といっても特別なことは何もなく、最初の日と何も変わらずぴったりとくっつきながら隣同士で手をつないで、渓が一方的にあれこれと話し、男が時々手を強く握って答えるだけだ。ただ、それを誰かに口外することはない。それはしてはならないことだと、渓は言われずとも分かっていたからだ。

逢瀬が始まってから、渓はよく笑うようになった。食事もしっかりとるようになり、痩せ過ぎて不健康だった体も少しずつ女性らしい肉付きを取り戻しつつある。そのおかげで顔色も良くなったのは言うまでもない。
曇家の人間は渓が突然家に戻りたいと言ったことを不審に思っていたわけだが、彼らにとってはそんなことよりもこうして渓が笑えるようになったことが何よりも重大だったし、何よりも大切なことだった。例え渓が何を隠していようとも、それを暴く気にはならなかったのだ。

自分の家で過ごしたい。
一年間、視界が閉ざされた中で制限された生活を余儀なくされた渓が望んだ、小さな小さな自由だ。いずれにせよ、彼らはそれを無下には出来ないのだろう。結果的に渓の笑顔が戻ったことに空丸も安堵しているし、宙太郎も錦もそれは同じだった。

これでやっと渓一緒に明るい未来へ歩いていける。誰もがそう思っていたそんなとき、さらに一つ喜びが重なった。

「渓さん」

それはある晴れた日の夕方、曇家の縁側に腰掛けていた渓は、錦の声に反応してそちらに顔を向ける。

「どうしたの?」
「牡丹さんと比良裏さんが来られています」

そう告げられた渓は、錦の手を借りて立ち上がると牡丹達がいる部屋に向かった。そこには牡丹と比良裏はもちろんのこと、空丸と宙太郎もいる。どうやら宙太郎は学校終わりに牡丹と比良裏と共に帰宅したばかりらしい。部屋にやって来た渓を見て、牡丹は驚いたように目を丸くしてからすぐに柔らかくほほ笑んだ。

「渓様、ご無沙汰しております」
「牡丹さん、お久しぶりです。比良裏さんも、そこに?」
「おう、久々だな」

渓は錦に導かれて、ゆっくりと腰を下ろした。それを確認してから牡丹が渓に向かって声をかける。

「渓様がお元気そうで何よりです。宙太郎君の云っていた通りですね」
「え?」
「視力をなくされてからもう一年になりますが、なかなか表情も優れなかったので…」
「あ…その節はご心配をおかけしました」
「いいえ、とんでもない!すっかりお元気そうになられて何よりですよ」

牡丹と渓が最後に顔を合わせたのは、会津へ向かう天火の祝いの席だった。明るさを失って影を帯びるようになった渓のことを牡丹も気にかけてはいたのだが、渓自身が抱く悲しみと苦痛を思うとどうしても言葉でうまく伝えられる気がしなかったので、結局繊細な部分に踏み込めないまま、あの日は比良裏と共に帰ってしまった。

何も言えずにいた牡丹の胸にはもやもやとしたものが広がったままだったのだが、すっかり元気そうになった渓を見て、初めこそ驚いたもののその姿に安堵したらしい。以前のような渓の姿が戻っていることが嬉しくて、自然と柔らかな笑みが零れていく。

「ところで、二人が揃って此処へ来るなんて珍しいですけど、今日は何かあったんですか?」
「まあ、何かあったと云えばあったのですが…」

渓からの質問に牡丹は眉を下げながら少し気恥ずかしそうに笑って誤魔化してみせたのでが、比良裏はそんな牡丹の肩を抱き寄せて、その言葉を待っていましたと言わんばかりの笑顔で言った。

「俺達、祝言挙げることになった」

比良裏の言葉に驚きすぎた面々は、一瞬面食らったように動けなくなってしまったのだが、そんな空気を真っ先に破ったのは渓だった。その顔には嬉しそうな笑顔が広がっており、興奮のあまり少し体をが前のめりになっている。

「おめでとうございます!比良裏さんずっと祝言挙げたいって云ってたから、いつになるのかなってこの前錦ちゃんと話してたところなんです!」
「よく覚えてたなそんな話」

あの日以来笑わなくなった渓を比良裏もずっと見てきただけに、そんな話など忘れてしまっているどころか、気にも留めていないだろうと思っていた。だからこそ、渓が覚えていたという事実に対しての驚きは大きい。

少し前の渓は確かに表情も少なくぼんやりとしていることが多かったが、目が見えない分の本能だろう、耳から得た情報は忘れにくくなっていたのだ。しかし、自発的に喋ることがなくなった渓の傍にいた周囲の人間も、当然そんなことには気付けなかったので、驚くのも無理はないのだろう。

「覚えてますよ!本当におめでとうございます!」
「おう。祝いに来いよ」
「はい!ぜひ!」

なぜか当人達よりも嬉しそうな渓の姿を見て、比良裏と牡丹も思わず笑った。空丸がそんな二人に声をかける。

「日取りはもう決まってるんですか?」
「いや、細かいことはまだ決まってないが、近日中には祝言挙げちまいたいとは思ってる」
「何かお急ぎの事情でも?」

さくさくと進んでいるらしい祝言の準備を不思議に思い、錦がきょとんとした表情で疑問を投げかけると、比良裏は牡丹をすっぽりと抱きしめて言った。

「いや、一刻も早く正式な夫婦になりたいだけだ」

そう言い切った比良裏の腕の中で牡丹はむすっとした様子で顔を赤くすると、相変わらず乱暴に比良裏の体を引っぺがした。随分乱暴で可愛らしい照れ隠しに、様子が見えていない渓以外の三人が微笑ましい未来の夫婦を見つめて笑う。牡丹はこほんと一つ咳を零してから、結婚後の事を口にした。

「それと、結婚後はしばらく滋賀を離れようと思っております」
「え?」

驚いて目を丸くする四人を見ながら、牡丹は優しく笑った。

「人になれる可能性が見つかったのです」

放たれたその声は、希望で満ちていた。
六百年もの間、大蛇に縛られ生き続けた牡丹に、比良裏は人になれる方法を探そうと言った。共に老いて、朽ちていくために。そして大蛇が消えてから一年、二人はその方法を探し続け、ようやく一つの可能性に辿り着いたのだという。

「可能性は高くはありませんが、その可能性にかけてみたいと思いました」
「それで滋賀を離れるんですか?」
「はい。滋賀からは随分東の方の山中に小さな術師達の村があるようで、そこに赴いてみようかと。大蛇とは全く関係のない村らしいのですが、術師という存在がほとんどいない今、頼れるのはその方々しかいません。それに、現存している村かどうかも定かではないのですが、大蛇なき今だからこそ、人になれる方法を探しに行きたいのです」

でも、と一呼吸おいて、牡丹はいつものようにやんわりと笑った。

「祝言を挙げるのは、どうしても私達が出会ったこの場所が良かったのです。だからここで夫婦になることを決めました」

どこまでも真っ直ぐで素直な眼差しは、渓以外の三人の心を優しく締め付けた。六百年間、大蛇というものに縛られ続け、使命を全うしてきた牡丹が、ようやく解放されようとしている。それを思うと、やけに温かい気持ちになるのだから不思議だ。空丸は少しだけ息を吐いて背筋を正すと、二人を真っ直ぐに見つめ返して言った。

「比良裏さん、牡丹さん。本当におめでとうございます。お二人には本当にお世話になってきたので、曇神社十五代目当主として精一杯お祝いさせていただきます」
「そんな、とんでもない」
「俺達に手伝えることがあれば何でも云ってください」
「お心遣い、本当にありがとうございます」

深々と頭を下げる牡丹と、それを慌てて止める空丸と、牡丹がいなくなることに対して寂しいと泣き出した宙太郎と、困り果てる錦と、呆れかえる比良裏。ほんわかとしつつもちぐはぐな、よくある曇神社の風景の中で、渓一人だけは切なげに微笑んだままで、まったく動けずにいた。



その夜、渓は縁側で男を待っていた。今日は綺麗な満月で、なぜだか男が必ず来ると信じて疑わなかった。暗闇だけを映し出すその瞳は、ゆらゆらと儚げに揺らいで、まるで泡沫のようだ。すると今にも消え入りそうな渓の傍に、男が現れた。分かりやすく小さな足音を立てて渓に自分が来たのだと知らせると、渓は音を聞いてやんわりと微笑んだ。

「こんばんは」

小さな声でそう言った渓の隣りに男が腰を下ろす。二人の手は自然と引かれ合って、絡めるように繋がれた。渓は俯いたまま甘えるように男の肩にもたれかかると、繋ぎ合ったままの手のひらにきゅっと力を込める。男は少し驚いたように渓を見下ろしていた。いつもなら緊張したようにぎこちなく寄って来る渓が、こんなにも素直に自分にもたれ掛かって来るとは思ってもいなかったのだろう。

「…今日、幸せなことがあって」

少しだけ言い淀んでから、渓はゆっくりと口を開いた。友人の結婚が決まった、とはどうしても言えなかった。

渓も年頃だ。色恋沙汰の話は好きだし、結婚という言葉に憧れはある。しかし、それを望めるような相手は、常に傍にはいてくれない。それが自分の為だと知っているからこそ、ここで結婚の話を持ち出して、男を困らせて、叶わない夢に溺れたくはなかった。ただ、同じ人生を歩き出す牡丹と比良裏を、心の底からめでたいと思うと同時に、羨ましくもあったのは事実だ。

別に結婚を望みはしない。ただ、願えるのなら、ずっと傍にいたい。

欲望も願望も、ずっと言えなかった「好き」の一言も口に出すことが許されない関係だからこそ、心の中でもやもやとしたものが渦を巻く。このままの関係でずっといられるとは思ってもいないし、このまま永遠に傍にいることなど不可能だということもお互いに分かっている。そしてお互いに、分かり合っていることを知っている。知っているから傍にいる。それなのに後一歩を踏み出せないなんて、あの頃と何も変わっていない。

「すごく幸せで眩しくて、私も幸せになって、それで…」

一つだけあの頃と決定的に違うのは、二人はもうお互いの気持ちが通じ合っていることを知っているということだ。それなのに、言いたいことを真っ直ぐに伝えられない現実に苦しめられている。もし少しでも言葉にしてしまったら、一生会えなくなってしまうばかりか、自分も相手も危険に晒されることになる。見てみぬふり、知らないふり、そうすることでこうして傍にいられるのだ。

今確かに触れ合えていること、それ以上のことは、決して叶わない。望むことさえ許されない。伝えたい気持ちはわざとらしく遠回りさせて、核心よりも少し離れた場所にそっと置くだけで精一杯。そんな現実から目を背けることなど出来はしない。

こうして温もりを感じ合えていることが奇跡だと感じながらこの時間を大切にするべきなのだと頭で分かっていたとしても、不安と不満が降り積もる心にその理解は及ばない。だからこうして寂しくなるのは、男に縋りつきたくなるのは、もう仕方のないことだった。

「…あの……あのね、私、貴方のこと、」

渓の口から吐き出されたのは、消え入りそうな声だった。そして次の言葉は、喉の奥でぎゅっと締め殺された。


好き


ずっと、言ってはいけない言葉なのだと思っていた。言葉にしてすべてが変わってしまうのが、どうしても怖かった。なのに想いを分かり合った今になって、言えないということがこんなにも苦しいことだということに気付く。

「……ううん、何でもない。ごめんなさい」

渓の声が震えていたことに、男は気付いていた。そして苦しげに眉を寄せていたことを、渓は当然知るはずもない。男は少しの間の後、寄りかかる渓の顔に自身の顔を寄せた。渓は男が動いたのを感じて顔を上げる。男の柔らかな髪が渓の額に滑り落ちて、鼻先が僅かに触れ合った。そのまま距離は近付きあって、唇が触れ合うまでもう少しというところで、男は躊躇うように動きを止める。

男もまた、渓同様に何かを堪えていた。本来持ち合わせてはいけない感情なのだと、男もちゃんと知っていた。

男は諦めたように小さく笑うと、渓の額に自身のそれを合わせて目を閉じた。渓が堪えていることも望んでいることも知っていながら、それでも導いてやることは出来ない。それでも手放せない温もりの心地よさを、渓同様に感じているから困っているのだ。

男は目を開くと、渓から顔を離して立ち上がった。繋がれていた手がするりと解けていく。渓は何も映さない目で男のいるであろう場所を見つめながら、寂しそうに声を漏らした。

「…また、会える?」

男は渓を一度だけ振り返ったが、手を握って答えることもせずに去って行った。渓は急速に冷えていく体と込み上げる虚無感に耐え切れず、膝を抱えて顔を埋めると、声も上げず音も立てず、一人静かに涙を落とした。
会えなくなることも苦しい、好きだと言えないことも苦しい。牡丹や比良裏のように同じ人生を歩めなくても構わないから、ただずっと傍にいたいだけなのに、その願いを口に出すことも出来ない。胸の中、泡のように浮き上がったそれは、夜に飲まれて消えていくだけだ。


「……好き」


誰もいない家の中、抱え込んだ膝の中に渓は気持ちを吐き出した。誰にも聞こえはしない、小さな小さな声だった。それから、大丈夫と、私は大丈夫なのだとそう言い聞かせながら、止まらない涙で膝を濡らす。

そんな渓の姿を見ていたのは、一匹の犬と、月になれなかった月の、二人だけだった。

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