【23:辿り着いたカプワ・トリム】
フレンに救い出されたユーリたちは、気を失ったままのヨーデルを預けてから、海水でべたつく体を船内のシャワーで洗い流し一時の休息を味わうと、ちょうど一行が目指していたカプワ・トリムまで連れられた。 背中にひどい打撲を受けていたケイは、船に引き上げられたときに傷を確認したフレンがひどく顔を歪めるほどひどいものだったのだが、エステルにしっかり治癒してもらって無事に回復し、その後は日当たりのいい船上の真ん中でぐーすかと気持ちよく眠っていたので、カプワ・トリムに辿りついたころにはすっかり元気になっていた。もう熱も完全に引いたようで、いつもの調子を取り戻し、新しく降り立った街にはしゃいでいる。
カプワ・トリム、通称トリム港は、ノール港と同じカプワと名のついた街で、以前カロルがユーリに説明した通り、帝都があるイリキア大陸ではなく、となりのトルビキア大陸にある。雨ばかり降っていたノール港と違ってトリム港の方は活気があり、人々の表情も豊かで、まさに港街と呼ぶにふさわしい街だった。 カラフルな屋根の建物が並ぶノール港とは違い、茶色いレンガ造りの建物も多く見られ、美しくも可愛らしい印象を持たせる。青い海が太陽に照らされてきらきらと輝き、その光りが街の白い石畳まで届いているためか海辺のあたりは非常に明るく、目を細めて歩かないと眩しいくらいだ。
「綺麗な街ー!」
完全回復したケイは誰よりも早く街に降り立つと、ぐっと伸びをしながら声を上げた。どうやらこの街がお気に召したようで、きょろきょろとあたりを見渡しながら目を輝かせる。港には多くの人々が行き来する商店が並んでいて、ケイの視線と体は完全にそちらに向いてしまっていた。その足は、今にもそちらに向かって進もうとしている。 放っておいたらひとりでふらふらとどこかに行ってしまいかねないので、ケイの次に街へ降り立ったユーリは、離れていく細い腰をがっしりとホールドしてその動きを封じた。ケイは不服そうに首を回してユーリを見上げる。
「ちょっとユーリ、離してよ」 「無理な相談だな」
物珍しいものばかりが溢れる知らない街でケイを好き放題させたら、丸一日は姿をくらまして今後の旅に影響が出る。せっかく魔核を盗んだ張本人がいるという場所に来たのだから、ここで遊んでいるわけにはいかないのだ。好奇心剥き出しの年上の幼馴染にも困ったものだと思いながら、ユーリは腕の中でぶーぶーと文句を言うケイに向かって盛大な溜め息を零した。
そんな二人の後に続いて、エステルたちも船から降り立ち、目の前に広がる美しい港街に目を奪われる。その後に、フレンとヨーデルが船を降りた。気を失っていたヨーデルも船の上で無事に目を覚まし、しばらくは体調面を考慮したフレンが様子を見守っていたのだが、特に異常はないようだったのでこのままトリム港の宿に案内することになったらしい。開かれたブルーグリーンの美しい瞳を真っ直ぐに向けながら、ヨーデルは初めて口を開く。
「先程はありがとうございます。おかげで助かりました」
落ち着きのある柔らかな声でそう言いながら微笑んだヨーデルに、訝しげな目を向けたのはリタだ。リタはエステルに近付くと、こそっと耳打ちする。
「ね、こいつ、誰?」
こそっと耳打ちしていても、その指はあからさまにヨーデルを差している上に、怪しむような視線で射抜いているのだから隠せるはずもない。エステルはそんなリタに苦笑を零しながら、ヨーデルに視線を向けると誤魔化すようにもごもごと言いよどむ。ヨーデルもただ微笑むばかりで何も言わない。そんな様子を見たフレンはヨーデルの一歩前に立ち、何も言わない二人に変わって口を開いた。
「今、宿を用意している。詳しい話はそちらで。それでいいね?」
答えるように頷いたユーリを見たフレンは、ヨーデルを連れて先に宿へと向かって行った。その背中を見送ると、ケイはユーリの腕から逃れようともがきはじめる。しかし力でユーリに敵うはずがなく、結局頬をふくらませて恨めしそうにユーリを見上げるばかりだ。
「いいじゃんちょっとくらい」 「おまえのちょっとがちょっとで済むか?」 「一日くらい」 「却下だな」
ユーリはケチだとわめくケイを完全に無視しながら、ユーリも宿屋に向かおうと歩きだした。その腕にはしっかりとケイが抱えられている。まるで大きな子どもをつれたお父さんのような背中を眺めながら、リタは呆れて溜め息を吐くと、先を行く二つの背中に向かって声を投げた。
「あんたたち、死にかけたくせによくそんな呑気でいられるわね」 「え〜生きてたんだから結果オーライでしょ?」
至って普通に答えるケイに向かって、リタはやっぱり溜め息を零すしかない。そんなケイに向かってエステルも背中から声をかけた。
「でも、ふたりを乗せたまま船が沈んだときは、もうだめかと思ったんですよ」 「ほんと、はらはらもんだったよ。無事でよかった」
カロルも同意して心底安堵したようにそう言った。ユーリが笑って答える。
「思ったよりも早く沈みやがったからな。オレも、さすがにあせったよ」 「ユーリはほんっと無茶したよね!」 「ケイさんに言われたくないな」 「……あんたらの神経を疑うわ」
再び騒がしい言い争いが始まりそうになったので、リタのもうどうでもいいと言わんばかりの返事でこの会話の幕が閉じた。 それでもわいわいと騒がしい一行は、歩くたび目につく店や建物に目移りしながらのんびり宿を目指す。散々死闘を繰り広げ、一時は本当に死ぬかも知れない状況に陥ったのだ。ようやく降り立った新しい街で、少しくらいは今までのことを忘れて楽しみたい気持ちもあったのだろう。 結局ユーリの腕から抜け出したケイがいちいち店の前で立ち止まって、エステルも楽しげなケイに流された結果、二人できゃあきゃあと言い合いながら楽しげにウインドウショッピングをし始める有様で、気付けばそこへリタとカロルも巻き込まれてしまい、保護者代わりのポジションに立たされたユーリはそんなケイたちから目を離すわけにもいかず、仕方なくのんびり宿に向かわざるを得なくなった。
すっかりお祭り騒ぎになった面々を急かしながら、ユーリはラピードと共に四人の足を徐々に宿へと向かわせる。ケイたちのはしゃいでいる姿を見た街の住人は、すぐにユーリたちが旅の者だと理解して、一番暇そうにしているユーリに気軽に声をかけてきては、色々な話をしてくれた。 このトリム港を仕切っているのは、世界の流通を握るギルド、『幸福の市場』なのだそうだ。『幸福の市場』といえば、デイドン砦でユーリたちが出会ったあの赤髪の女性、カウフマンが取り仕切っているギルドだ。このトリム港にその本社まで構えているらしい。話によれば、カウフマンはなかなか凄腕の女社長だという。商売の力で街を動かせるという話には、ユーリも感心したように耳を傾けていた。
その後もケイたちはウインドウショッピング、ユーリは住人たちからの情報の入手に時間を割きながら、一行はようやく宿屋に到着した。その宿屋の前で、ふとユーリはケイの様子に気がついた。 帝都を出てからというもの、エフミドの丘でケイが熱を出して倒れるまでの間に感じていた彼女に対する違和感が、いつの間にか完全になくなっていたのだ。あまりにも自然すぎてまったく気にも留めていなかったのだが、あの大の貴族嫌いのケイが、エステルとも普通に接している。
エフミドの丘でテントを張って過ごした夜、ケイはユーリに対してずっと無理をしていたと暴露した。エステルと仲良くしなければならない、年長者だからしっかりしなければならないと気遣った結果、知恵熱を出してしまったのだと。 思えば、あの日を境にケイが下手な気遣いをしている様子は感じられない。元々何かを考えて計画的に行動するタイプではないのに、帝都を出てからケイがそう言ったことを思えば、今までの違和感がその「気遣い」からのものであると納得がいく。 そこまで考えて、ユーリは妙にすっきりした表情のケイに安心した。熱が下がって元気になり、エステルともうまくやっている。ケイも十分大人だ、心配しすぎてもよくはないだろうと結論づけたユーリは、少し離れた場所で相変わらず騒がしくしている幼馴染を眺めた。
そんなユーリの視線に気付いたケイは、宿屋に入らずにユーリを見ると、とことことユーリに近付いてその顔をまじまじと見つめた。自分を見つめる美しい顔の女をユーリも見返しながら、何事かと首をかしげると、ケイは不思議そうに声を上げた。
「ユーリ、どしたの?ボーっとして」 「ん?そんなふうに見えた?」 「見えた。極悪人とおんなじような顔してた」 「……そりゃ嬉しくねえな」
げんなりとした様子で答えたユーリを見たケイは、楽しそうにくすくすと笑う。その顔は今までずっと近くで見てきたそれと何ら変わりはない。ユーリはふいにケイに触れたくなって、自分よりも小さなその頭をぽんっとなでた。突然の行為に目をぱちくりとさせたケイを見てユーリは笑う。
「ほら、中入ろうぜ。待たせると後が怖いぞ」 「へ?あ、うん」
不思議そうな顔でユーリを見つめたケイは、先に宿へと足を進めたユーリを追いかけて宿の中へと入り、カロルたちもその後に続いた。 つかの間の平和な時間を満喫したユーリたちは、宿屋へと入ったときに気持ちを切り替えて、フレンの待つ部屋へと向かうのだった。
宿屋は木目の床とレンガの壁で出来た趣深い造りになっていた。燦々と降り注ぐ太陽の光が木枠の窓から入り込むんで室内を明るく照らし、柔らかく灯されたオレンジの色のランプがより味わい深さを演出している。その宿の一番奥、最高級の部屋にフレンとヨーデルがいるらしい。 ユーリたちは一番奥の部屋の扉を開く。ヨーデルは木製の立派なテーブルの前に座って、その傍らにはフレンが立っていた。フレンはユーリたちに視線を寄越したのだが、ユーリたちは扉を開いたままで、信じられない光景を前に固まってしまった。先程までの楽しい時間が嘘のように、緊迫した空気が部屋の中に張り詰める。
そこにはノール港で散々な悪事を働いた執政官、ラゴウもいた。ラゴウは当たり前のようにヨーデルのとなりに立ち、何事もなかったかのような顔で現れたユーリたちに視線を向けた。その顔を見て一番最初に表情を歪めたのはリタだ。
「こいつ……!」 「おや、どこかでお会いしましたかね?」
ラゴウがすました顔でそう答えたのを見て、たまらずリタはラゴウに突っかかろうとする。しかし、ユーリは飛び掛らんばかりのリタの前に腕を出してそれを制すと、感情的になっているリタの前に立ち、ラゴウに冷めた視線を向けながら言った。
「船での事件がショックで、都合のいい記憶喪失か?いい治癒術師、紹介するぜ」 「はて、記憶喪失も何も、あなたと会うのは、これが初めてですよ?」 「何言ってんだよ!」
さすがにこれには腹を立てたカロルも感情的になって、思わずそう叫びながら前のめりになる。ケイはそんなカロルを背後から優しく制すると、何も言わずに目の前に立つラゴウを睨みつけた。フレンも一歩前に出て、ラゴウに向かって言い放つ。
「執政官、あなたの罪は明白です。彼らがその一部始終を見ているのですから」 「何度も申し上げたとおり、名前を騙った何者かが私を陥れようとしたのです。いやはや迷惑な話ですよ」
真っ白なひげをなでながら、わざとらしくそう言うラゴウの態度にリタも怒りが収まらない。ユーリの背後から身を乗り出してリタは声を荒げた。
「ウソ言うな!魔物のエサにされた人たちを、あたしはこの目で見たのよ!」
そんなリタを背中で止めながら、ユーリはラゴウを睨むばかりだ。ラゴウは余裕そうににんまりと笑うと、見下したようにフレンに視線を寄越して落ち着いた声で言った。
「さあ、フレン殿、貴公はこのならず者と評議会の私とどちらを信じるのです?」
ラゴウにそう言われたフレンは、ぎゅうっと強く拳を握ると、悔しそうに唇を噛んで俯いてしまった。その姿に、さすがのユーリも声に怒りを滲ませる。
「フレン……」 「決まりましたな。では、失礼しますよ」
ラゴウはフレンとヨーデルに向かって、汚らしいほど優雅に頭を下げると、ユーリたちのとなりを堂々と歩いて部屋を出て行ってしまった。バタン、と扉を閉める音が響いた後、沈黙の響いていた部屋の中でたまりかねたようにリタが叫んだ。
「なんなのよ、あいつは!で、こいつは何者よ!」 「ちっとは落ち着け」
扉に向けて叫んだ後、リタはヨーデルに向かって指を差しながら言った。ユーリが腸の煮えくり返っているリタを止めると、フレンがヨーデルを紹介しようと口を開きかけたのだが、言いよどんで口を噤む。言っていいものかどうか、少し悩んでいるようだ。 そんなフレンを見ていた、エステルは前に出ると、ユーリたちを振り返ってヨーデルを紹介した。
「この方は、次期皇帝候補のヨーデル殿下です」 「へ?またまたエステルは……」
突拍子もないエステルの発言をカロルは冗談だと思ったのだろう、へらへらと笑っている。 それもそうだ、突然目の前の男が次期皇帝候補と言われて、そう易々と信用できるはずがない。 しかし、カロル以外の面々は納得したような表情を浮かべている。カロルはきょろきょろとその顔を見比べて、それが嘘でないことを知ると固まってしまった。ヨーデルは微笑みながら呑気な口調でようやく口を開く。
「あくまで候補のひとりですよ」 「本当なんだ。先代皇帝の甥御にあたられるヨーデル殿下だ」
フレンがカロルに向かってそう言うと、カロルはあまりに突然のことに驚くばかりだ。
「ほ、ほんとに!?」 「はい」
カロルに向かって頷いたヨーデルは、相変わらず呑気に微笑んでいる。ユーリは呆れたように言った。
「殿下ともあろうお方が、執政官ごときに捕まる事情をオレは聞いてみたいね」
ユーリの言葉に、エステルとフレンは顔を見合わせるばかりで答えようとはしない。ユーリはふうっと息を吐くと、そんな二人に背中を向けた。
「市民には聞かせられない事情ってわけか。エステルがここまで来たのも関係してんだな」 「…………」 「ま、好きにすればいいさ。目の前で困ってる連中をほっとく帝国のごたごたに興味はねえ」
吐き出した声には怒りが滲んでいる。目の前でこんなにも簡単にラゴウを見逃してしまったのだ、ユーリが怒るのも無理はない。エステルは思わず俯くと、何も言えないまま足元に視線を落とすばかりだ。そんなユーリに声をかけたのはフレンだった。
「ユーリ、そうやって帝国に背を向けて何か変わったか?人々が安定した生活を送るには、帝国の定めた正しい法が必要だ」 「けど、その法が、今はラゴウを許してんだろ」 「だから、それを変えるために、僕たちは騎士になった。下から吠えているだけでは何も変えられないから」
フレンの言葉はまだ続く。
「手柄を立て、信頼を勝ち取り、帝国を内部から是正する。そうだったろ、ユーリ」
その言葉を聞いていたユーリは、拳を強く握ってフレンを振り返った。その瞳にはエステルたちも見たことがないほどに様々なものに対する怒りが浮かんでいた。低く響く声で、ユーリはフレンに向かって怒りを放つ。
「だから、出世のために、ガキが魔物のエサにされんのを黙って黙って見てろってか?下町の連中が厳しい取立てにあってんのを見過ごすのかよ!それができねえから、オレは騎士団を辞めたんだ」 「知ってるよ。けど、やめて何か変わったか?」
淡々と答えたフレンに、ユーリはぐっと言葉を飲み込む。それはユーリが一番感じていることだった。 騎士団を辞めて、下町で呑気に暮らすようになったはいいものの、大きく変えられたものなどなにもない。法というものに縛られなくなったからこそ自由に動けるようにはなったが、逆に言えば『騎士団』と言う大きな組織で動けなくなったために守れなくなってしまったものもある。 結局、今自分の腕だけで守れるものの大きさなんて、たかが知れているのだ。そんなユーリに向かって、フレンは追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「騎士団に入る前と、何か変わったのか?」
フレンのその言葉を聞いたユーリは、何も答えることなく部屋を出て行ってしまった。慌ててカロルが追いかけようとするものの、ユーリの態度がそれを許さない。 乱暴な音を立てて閉められた扉が、無情なほどに部屋に響く。カロルはひとりおろおろとするばかりだ。フレンはユーリの立ち去った扉を見つめながら溜め息を吐くと、盛大な溜め息を零して頭を抱えた。
「またやってしまった……」
こうしてフレンがユーリを言い負かすことは昔からよくあることではあったが、当然その様子に慣れているはずのないエステルたちは重々しい空気に声も上げられない。 そんなとき、腕を組んで壁にもたれかかったまま、ずっとだんまりを決め込んでいたケイが、のんびりと口を開いた。その顔に笑顔はないが、視線はただまっすぐにフレンを射抜いている。
「フレンの言ってることは正しいよ」 「ケイ……」 「だけどね、ユーリが言ってることも正しい」
放たれたケイの声は、普段の呑気なものとはまるで違うものだった。その場にいる誰もが耳を奪われるほどの凛とした声は、真っ直ぐに唇から零れ落ちて部屋の中をこだまする。まるで魔法にかけられてしまったかのように、ケイという存在にひきつけられてしまうのだ。
「法の下で守る正義、法で守りきれないものを守る正義。結局さ、描いてる正義なんてそれぞれ違うんだよ。例えばフレンはさ、意志が強くて我慢強いじゃん。だから、時間をかけて大きなものを守ることを決めたでしょ。でもそのかわり、必ず見過ごされてしまう守られないものがある。もちろんフレンがそれを見過ごしてるとは思ってないけど、結果的にフレンはそれらを守ることは出来ない」
淡々と言葉を放つケイの瞳の奥は、見えない。
「そして、そういう取りこぼしを見過ごせないお人よしの短気なユーリは、手っ取り早く自分の目に映るものを守りたいと思った。そのかわり、世間や法で説かれる正しさとは反していて、必ず批判の対象になる。守れるものの大きさだって限られてくる」 「分かってるさ……ただ僕は、ユーリに前に進んでほしいだけなんだ。いつまでもくすぶっていないで」 「知ってる。だから言ったでしょ、どっちも正しいって」
フレンの返答に答えたケイは腕をほどくと、壁から体を離した。
「でも、あたしはユーリの肩を持つよ。結局あたしもあいつと同じ、見過ごせないから適当な仕事してる生きてるわけだし、ユーリとそう変わらない生き方してる。だから偉そうに言える立場でもないんだけど、今回の件に関して言えば、あっさりラゴウを見逃しちゃったのはやっぱりいただけないんだ。ユーリだってそうだと思うよ、帝国の人間であるフレンもエステルも現場を見てたってのに、結果としてそれを許しちゃってるわけだしさ」
ケイの言葉に、エステルは眉を下げて顔を伏せた。フレンも唇を噛む。それでもケイの目は揺らぐことがない。
「なんつーかさー、ユーリは羨ましいんだと思うよ。フレンのこと」 「え?」 「あいつにはフレンみたいに後ろで守ってくれる大きなもの……騎士団とか帝国とか、そういうものがないの。それにあの年だからさ、失敗したり間違ったりしたときに、怒ったり庇ったりしてくれる人も、一緒になって無謀な無茶やってくれる相手もそういない。そのくせあの子はバカだから、ちょっとでも頼られると調子付いて、あれもこれも背負って何とかしようとしちゃう。両手で抱えられるもんなんてたかが知れてるくせにね。フレンもよく知ってるでしょ?」 「ああ……ユーリはいつもそうやって、無茶ばかりして……」 「だからね、あたしがいるわけ」
ケイはフレンに背を向けた。ただ、顔だけはフレンたちを見ていて、その顔にはいつもの笑顔が浮かんでいる。
「だって、腕は2本より4本の方が、いっぱい抱えられるでしょ?」 「ケイ……」 「それにこれくらい適当な年上がいなきゃ、あのおにーさん、もっとひねちゃうしね」
そう言いながらケイは悪戯っぽく笑うと、フレンから顔を背け、不安そうに見上げていたカロルの頭にぽんっと軽い調子で手を置いてから、ユーリが出て行った扉に向かって迷うことなく歩いて行く。その背中目掛けてフレンは声をかけた。
「ケイ」 「んー?」
ケイは振り返ることなく扉に手をかける。
「ユーリを頼む」
背中から聞こえたフレンの言葉に、ケイはひとりくすっと笑うと、最後まで振り返らずにひらひらと手を振って部屋を出た。フレンはケイの姿が見えなくなるまでその背中を見送ると、ケイが部屋を出た途端に盛大な溜め息を吐いた。いつになく深いフレンの溜め息を聞いて、フレンのとなりにいたエステルもおもわず遠慮がちに声をかけてしまう。
「あの、フレン……」 「……お恥ずかしいところを」
フレンはエステルに視線を向けてから、諦めたような口ぶりで話し始めた。
「ユーリは彼女に任せておけば大丈夫です」 「頼りにしているんですね、ケイのこと」 「頼り、というには少し違うのですが……ことユーリに関しては、彼女の方が扱いはうまいですから」
苦笑しながら、フレンは再び扉を見た。もうそこには、ユーリもケイもいない。いつもあの二人は、こうしてフレンのそばからいとも簡単に姿をくらませる。 共に騎士団に入団していたときもそうだ。ユーリがやめると宣言したあの日、ケイはユーリを止めるどころか、相変わらずの呑気な口調で一緒にやめると言い出した。そんな突拍子もないケイを、思わずフレンとユーリが一緒になって「考え直せ」と引き止めることになったのは、今となってはいい思い出だ。その後、ケイがユーリを誘わずにひとりで『何でも屋』をはじめた真意を、きっとユーリはまだ気付いていないのだろう。あまりにもケイとの距離が近すぎて。
「本当は、本当に変わらなければいけないのは……」 「フレン?」 「いえ、何でもありません。気にしないでください」
ぼそりと呟いたフレンの顔をエステルはのぞきこむ。フレンは表情を和らげると、ゆっくりとエステルを見て微笑んで、無茶ばかりする二人の幼馴染への想いを、心の片隅に追いやるのだった。
薄暗い宿屋の裏手で、どすん、と壁に拳を叩きつけたユーリは、気持ちを落ち着かせるように深く長い息を吐いた。そしてその口から漏れたのは、珍しく覇気のない弱々しい声だ。
「ったく、痛いところつきやがって」
思い出されるのは、フレンの言った言葉の数々だ。騎士団をやめてからも、何一つ自分は何も変えられていない。 それに比べてケイは、騎士団をやめてからすぐに始めた『何でも屋』を、たった一人であっという間に成功させて、常に平民街でも結構な贅沢が出来る程度の額を稼ぎ、それを下町の住人や貧しい市民たちのために惜しげもなく使い、あまったお金を自分の趣味に回して心の潤いまで保っている。 その分、ケイはユーリ以上に適当でだらしのない生活ばかりしているが、誰ひとりそんな彼女を責めはしない。なぜなら彼女は、きちんと自分の力で生きているからだ。
ならば、自分は? その疑問に辿り着いたとき、すでにはっきりと答えは出ているというのに、情けなさに負けてどうしても言葉には出来ない。
「はぁ……」 「おおっとぉ、いい年して壁と喧嘩ですかな〜!?」
聞きなれた声が、突然ユーリの脇の下からぬっと顔を覗かせた。驚いてユーリがそちらに顔を向けると、ケイがにんまりと笑ってユーリを見上げている。
「口喧嘩に負けたあとは八つ当たりですかな?」 「……見てたのかよ」 「ぜーんぶ、しっかり、焼き付けときました」
ケイはユーリの脇の下をわざわざくぐり抜けてユーリの前に立つと、いつになく声のトーンを抑えて話すユーリに臆する様子もなく、いつもの調子で話し始めた。
「フレンにユーリを頼むって言われちゃった」 「ほっとけ」 「拗ねちゃって」
くすくすとケイは笑うと、ぱっと両手を広げてからかうように言った。
「さあ、慰めてあげるから、おねーさまの胸の中に飛び込んでおいで」 「控えめな胸だな」 「残念でした、着痩せしてるだけ」 「へえ?」 「確かめてみる?」
ケイがわざとらしく胸を突き出すと、ユーリは呆れ顔で息を吐く。そんな姿を見てケイは楽しそうにくすくすと笑うと、ユーリの手を取ってそこに何かを乗せた。ケイよりもずっと大きな手のひらの上には、イチゴ味のキャンディーが乗せられている。ユーリが目を丸くしてそれを見ると、ケイはいつもよりも穏やかに口を開いた。
「昔、手術の前日にお守りだって言ってユーリがくれたの、ふと思い出してさ」
懐かしむようなその声に、ユーリもつい耳を傾ける。
「ほんとは自分のおやつだったのに、食べずにわざわざうちまで届けに来て、手術が終わったら食べてもいいって偉そうに言ったんだよね。覚えてないでしょ?」 「……そんなこともあったっけか」
ぼんやりと、そんなこともあったかと思い浮かべてみる。ケイの見舞いになんて毎日のように行っていたし、早くよくなってもらいたいからとフレンとふたりで自分たちのおやつをケイに渡していたのも決して珍しいことではなかった。手術の前日に、弱気になってほしくないからとわざわざ届けに行ったこともあるのだろう。おぼろげではあるが、なんとなく記憶の片隅には存在しているようだ。
「嬉しかったんだよねあのとき。ほんとはすっごく嫌だったし、失敗したらどうしようって本気で思ってたから。でも子どもって単純だから、これを食べるために頑張らないとって思えた」 「んで、これをオレにくれるって?子どもと同じか?オレ」 「バカだなぁユーリは、なんにも分かってないんだから」
少しむっとした表情を見せたあと、ケイはすぐに、ふわりと微笑んだ。
「ユーリがくれたから、嬉しかったんだよ」
優しい声でそう言ったケイの言葉に、ユーリも思わず黙りこんで、目の前の綺麗な笑顔に見とれてしまった。ケイはユーリにキャンディーを握らせると、すぐに表情を変えて、次には悪戯っぽく笑ってみせた。
「ま、ケイさんは優しいから、今すぐに食べることを許可してあげますけどね?」
言いながらユーリの唇を指先でつまむと、ケイはさっさと歩き出してユーリを振り返った。
「さ、じゃあ行きますか」 「おい、行くって……」 「魔核ドロボウの手がかり、探すんでしょ?」
いつも通りのケイが当たり前のようにそう言った。ユーリも思わず固まってしまったのだが、ふと自分の心のなかのもやがすっかり晴れていることに気付く。 ケイは、元気を出せとも自分が味方だとも言わない。余計なことは一切口にせず、ただそっと寄り添って、優しく息を吹くように簡単にかすんだ景色を振り払ってしまうのだ。 ユーリは眉を下げて、それでも穏やかな顔で笑みを零しながら息を吐く。ケイの前でしか見せない顔だった。
「……そうだな。んじゃ、行くか」 「おー!」
右腕を高らかに上げて元気に返事をしたケイのとなりに立ちながら、ユーリはいつも通りの表情を取り戻して、ひっそりと心の中でケイへの感謝を囁くのだった。
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