【16:守るべきもの、守りたいもの】
ユーリを先頭に、エフミドの丘の獣道を進んでいると、やけに開けた場所に出た。ところどころにビリバリハが咲いてはいるし、魔物の気配があるので休憩スペースにはなりそうもないが、もしも結界魔導器が破壊されていなければ絶好のキャンプ地だっただろう。ようやく獣道を抜けきったことに安堵の息を吐く一行だったが、突然地割れのような音が響いて足を止める。
「ん……なに?」
ユーリの隣を歩いていたカロルがきょろきょろと辺りを見渡すが、周囲には何も見当たらない。すると、道中一言も話さなかったケイが突然声を荒げた。
「みんな!上!」
ケイの声に反応して全員で視線を上へ寄越すと、そこには軽くラピードの三倍はありそうな巨大な獣の魔物が、黄色く鋭い牙をむき出しにしてギラついた目でユーリたちを見下ろしていた。鋭く輝く爪も黄色く、少しくすんでいるのは今までしとめてきた獲物の数を示しているようにも見える。その威圧感にカロルは悲鳴を上げると、怯えたように声を振り絞った。
「あ、あれ、ハルルの街を襲った魔物だよ!」 「へえ、こいつがね。生き残りってわけか」 「カロル、得意のあれ出して」
最後尾にいたはずのケイだったが、前に出て拳銃を構えるとカロルに指示をだした。するとカロルは頷いてスペクタクルズで魔物を覗き込んで詳細を調べる。魔物はガットゥーゾというらしく、この辺では凶暴な魔物として知られているらしい。爪には強力な毒があり、その爪で裂かれると一気に毒が体を蝕むのだそうだ。厄介そうな相手にユーリとケイは表情を強張らせる。
「ほっといたらまたハルルの街を荒らしに行くわね、たぶん」 「でも、今なら結界があります」
リタとエステルの会話を聞いていたユーリだったが、ケイ同様迷うことなく剣を引き抜いてガットゥーゾを見上げた。
「結界の外でも近所にこんなのいたら、安心して眠れねえからな」 「そういうこと、来るよ!」
ユーリたちが構えると、ガットゥーゾは大きく雄たけびを上げて数匹の子分を引き連れて襲い掛かってきた。ユーリはラピードと共に真正面からガットゥーゾに向かっていき、ある程度距離を保ちつつおびき寄せることにした。ケイは高らかに飛び上がると、木の上に身を置いて銃を構え、的確に指示を出す。
「カロル!あいつの弱点は!?」 「えっと…火!」 「リタ!ひたすらあいつに火の玉ぶつけて!出来るだけ距離は保って!」 「分かってるわよ!」 「エステルとカロルは援護!あたしは先に雑魚を片付ける!」
ケイは拳銃の弾を手際よく入れ替えると、木の上からガットゥーゾの手下に狙いを定めて、手際よくトリガーをひいていく。銃口から放たれたのは鉛玉なのだが、それは着火の瞬間に火を吹くように改造されているため、小粒な火の玉のようになって相手に打ち込めるようになっていた。
「またけったいなもん作ったな!」 「ケイさんオリジナル、ミニミニファイアーボールってね!」
横目でその様子を見ていたユーリが木の上のケイに声をかければ、ケイも攻撃の手を緩めることなくそれに答えた。 ケイの放った炎の鉛玉が見事に手下たちの急所をつき、残るはガットゥーゾだけになったもののこれがかなり手ごわい魔物でなかなか攻撃が決まらない。強力な攻撃を放ってくるだけでなくかなりすばやいので、ケイは下手に拳銃を向けることも出来ないのだ。どうしたものかとケイが木の上で考えあぐねていると、グリーンの瞳がある花を捉えた。その瞬間、ケイはハッとしてユーリに向かって声を上げる。
「ユーリ!ビリバリハよ!あれにそのデカブツ誘導して!」
ユーリはケイの思考を理解すると、ガットゥーゾへの攻撃の手をゆるめ、迷うことなくビリバリハに向かって走っていった。手下を倒された怒りのあまり興奮気味のガットゥーゾは、ビリバリハに気付くことなくユーリを追いかける。 ユーリはビリバリハの前まで来ると、くるりと振り返ってガットゥーゾに向き合うかのように剣を構えた。当然ガットゥーゾはユーリに向かって勢いよく爪を振り上げる。それと同時にユーリは真横へと飛びのいた。ガットゥーゾが振り上げた爪はそのままビリバリハに振り下ろされ、爪の先が僅かに触れた瞬間、ビリバリハ一気に花を開いて花粉を撒き散らした。するとガットゥーゾは見事にその花粉を吸い込んでしまったようで、叫び声を上げながらその場に倒れこんでしまった。
「今だ!リタ!」
ユーリが叫ぶと、リタが待ち構えていたかのように大量のファイアーボールをガットゥーゾに打ち込む。するとそれが効いたらしく、やっとのことでガットゥーゾは動かなくなった。ケイは魔物が動かなくなったことを確認すると、木からひらりと飛び降りてまだ座り込んだままのユーリに迷うことなく駆け寄った。
「ユーリ!!」
近付いてユーリの腕を見ると、深くはないもののガットゥーゾの爪にやられたらしい傷がついており、だらだらと血が流れている。それを見て、ケイの背筋は一気に凍りついた。毒に冒されていないだけましだとはいえ、それでも普通なら泣き喚いているくらいの傷であることは間違いないのだ。ケイはすぐにエステルを呼びつけてユーリの傷を回復してもらうと、他にも傷がないかとあれこれ探し始めた。
「ユーリ大丈夫?他にケガとかない?」 「大丈夫だよ」 「ホント?無理してない?」 「してないって」
そう言うものの、ケイはまだ心配そうにユーリの体に傷がないかを確認している。その顔は今までに見たことがないほど不安そうだ。ユーリはこんなにもあからさまにうろたえた様子のケイを見たのも、ここまで分かりやすく心配されたのもこれが初めてだった。ケイの顔がなんだか泣きそうに見えて、ユーリは申し訳なく思いつつもせめて笑ってみせることにした。
「どうしたんだよ、今日はやけに心配性だな」 「だって、あんなに血流してるユーリ見たの、初めてだし……」
ケイはそう言うと、少し俯いてぽそりと悲しそうに声を落とした。
「あたしがおとりになってれば、ユーリはケガしなかったのに」
その声からは、本当に自分がおとりになっていれば良かったという想いがひしひしとにじみ出ていた。ユーリは僅かに眉を寄せると、少しきつくケイに言い聞かせる。
「そんなことされたって嬉しくねえよ。それに、あの場でのケイの指示は正しかったんだ。怪我したのはオレのミス、気にすることないって」 「でも……」
ケイは言いかけた言葉を息を止めて飲み込むと、かわりの言葉を口にした。
「じゃあ、ケガしてもいいから、ユーリはまだ死なないで」
その言葉を聞いたユーリの脳裏に、数年前の記憶がよみがえる。 ケイは15歳のときに唯一の肉親である母親を事故で亡くした。それ以来、妙に明るく振舞うようになったことは今も鮮明に覚えている。もしかすると、ケイは母親を失くしてから大切な人を失うことに対してやけに敏感になっているのかもしれない。そのせいで自己犠牲的価値観が膨れ上がってしまったのだとしたら、なおさら自分が強くなってケイを安心させなければいけない。ユーリはそう自分に言い聞かせると、ふっと笑ってケイの頭に手のひらを伸ばした。
「そんな心配すんなって。そんなに簡単には―――」
ユーリがケイの頭にポンと手のひらを乗せた瞬間、ユーリの表情が一瞬にして凍りついた。それと同時に、ケイも頭に乗せられたその手を慌てて振り払う。それまでいい雰囲気だったのに、突然重苦しい雰囲気になってしまったままで硬直してしまったふたりを、他の三人はただ何事かと眺めることしかできない。ユーリはみるみるうちに表情を強張らせると、睨むようにしてケイを見た。
「ケイ、おまえ」 「なに怖い顔してんのユーリ、ほら、元気ならもう行こーよ」 「待て」
へらへらと笑いながら立ち上がろうとしたケイの手を無理矢理掴んだユーリは、ケイを座らせたままその額に手のひらを当てる。体温計などなくても、ケイの体温が尋常じゃないほど高いことは明らかだった。額から、手のひらから、異常なまでの体温が伝わってくる。
「……おまえ、いつからだ?」 「さあ?」
はぐらかすようにケイは笑うが、本来なら立っていることもままならないほどの熱なのだ。喋ることも笑うことも、ましてや戦うことなど本来出来るはずがない。 エフミドの丘に来てからというもの、妙にケイの様子がおかしかったのはこの高熱のせいだったのだと合点のいったユーリは、呆れと怒りの混ざったような息を吐くと、カロルに視線を寄越した。その目が本気で怒っているものだということは、ケイだけでなく他の三人とラピードにも伝わるほどだ。
「カロル、ラピードが持ってる袋から過眠用の毛布出してくれ」 「え、う、うん」
カロルは言われたとおりに仮眠用の毛布を取り出してそれをユーリに手渡すと、ユーリはそれをケイの体に巻きつけた。そして有無を言わさず自分の背中にケイを乗せて立ち上がる。
「ちょ、ユーリ」 「カロル、ノール港まではまだかかるか?」
抗議の声を上げるケイのことなど無視をしてユーリはカロルに声をかける。
「う、うん。もうちょっとかな。エフミドの丘を越えればすぐだけど……」 「じゃあなおさら急ぐぞ。このバカ、ひどい熱だ」 「ええ!?」
三人は驚いたように立ち上がる。エステルは慌てて背負われたままのケイの手を取って、その熱を確かめる。軽い微熱とはいえない熱さだったので、エステルは慌てて背負われたままのケイに治癒術をほどこすものの、風邪はそう簡単に治せないらしい。 リタもケイの体に触れて、その体が異常なほどに熱いことに眉を顰めると「バカじゃないの」と暴言を吐いて歩く速度を速めた。カロルも心配そうにケイを見上げている。
「ねぇユーリ、あたし別に大丈夫……」 「こんなに高熱で無理してここまで来たのに、オレには無理してないかなんて、よく言えたもんだな」 「だってあたし、無理なんてしてな、」 「いいから大人しくしとけ病人」
それでもケイは少し抵抗したものの、エステルやリタにも休んでいろと言われたため、諦めて全身の力を抜くと、ユーリの背中にぐったりともたれ掛かった。
「……心配かけたくなかったのになぁ」
ユーリの肩に顔を埋めながら、ケイはひとり小さく呟いた。その声はケイを背負っているユーリにだけは聞こえていたようで、ユーリもケイにだけ聞こえるような小さな声で答えた。
「少しは頼れって言っただろ」 「……そーね」
ケイは静かに答えると、すがりつくようにユーリの首に腕を回して、きゅっと弱々しく抱きついて目を閉じた。これがケイなりの精一杯なのだろう。弱っていると少しは素直らしいケイに苦笑を零しながら、ユーリは背中から伝わるケイの体温を、必ず守ってやろうと決意するのだった。
ガットゥーゾを倒した場所からは上り坂が続いていた。ユーリはケイを背負ったまま、涼しい顔で坂を上っていく。決して小柄だとは言えないケイだ、それなりに筋肉もついているので軽いと言うには少し違うが、それでもユーリにとっては決して苦な重みではなかった。背中にいるケイはすでに意識を失っていて、すべてをユーリに預けている状態だ。ケイがこうして弱さを全部他人に預けることなどそうそうない。だからこそ、今自分を頼っているケイの重みがユーリには愛しかった。
ようやく坂を上りきると、そこは海が見える丘の上に繋がっていた。心地よい涼やかな風が吹き、太陽の光が海に降り注いできらきらと数多の光を反射している。そのあまりにも美しい光景に、ユーリたちは言葉を失って立ち止まった。ゆったりと響く波の音がより穏やかさを強調している。しばらくその景色に魅入られていた一行だったが、エステルが目を輝かせて丘の端まで駆け出して、それからユーリたちを振り返った。
「ユーリ、海ですよ、海!」
随分と弾んだエステルの声にユーリも笑みを零しながら近付いた。風がユーリの髪をふわりとなびかせる。
「わかってるって。……風が気持ちいいな」 「本で読んだことはありますけど、わたし、本物をこんな間近で観るのは始めてなんです!」 「普通、結界を越えて旅することなんてないもんね。旅が続けば、もっと面白いものが見られるよ。ジャングルとか滝の街とか……」
カロルの言葉を聞いたエステルは、思わず声を漏らした。
「旅が続けば……もっといろんなことを知ることができる……」 「そうだな……オレの世界も狭かったんだな」
エステルが呟いた言葉に答えるようにユーリも声をもらした。そして、ケイを背負う腕に自然と力がこもる。
「これがあいつの見てる世界か……」
ひとり小さく呟いてから、次ははっきりと続ける。
「もっと前に、フレンはこの景色を見たんだろうな」 「そうですね。任務で各地を旅してますから」
ユーリに答えたのは隣に立っているエステルだ。ユーリは僅かに表情に寂しさを滲ませて、柔らかな声で吐き出すように言った。
「追いついて来いなんて、簡単に言ってくれるぜ」 「エフミドの丘を抜ければ、ノール港はもうすぐだよ。追いつけるって」 「そういう意味じゃねえよ」
カロルらしい返答に笑いながらユーリが答えると、背中のケイが分かりやすいほどぶるりと身震いした。カタカタと歯を鳴らして、ぎゅっとユーリの背中にしがみ付く。ほんの少しだけ意識を取り戻したらしい。
「……さむい」
弱々しく震えた声で呟くと、ケイはぼんやりした目で海を見た。しかしすぐに目を閉じる。意識ははっきりしておらず、朦朧としているようだ。本来ならエフミドの丘に着いた時点ですでにこんな状態だったのだろうが、よく涼しい顔をして我慢できたな、とユーリは思う。そしてそんな状態だったと気付けなかった自分自身にも腹が立っていた。ケイはユーリの背中で縮こまりながら、もう一度同じ言葉をくり返す。
「ユーリ、さむい……」 「ああ、もう行こう」
ユーリは振り切るように海に背を向けると、じゃれあうリタとカロルに声をかける。
「さあて、ルブランが出てこないうちに行くぞ。ケイも寒がってる」 「そうだね。ノール港はここを出て海沿いの街道を西だよ。もう目の前だから」
そういってとことこと走っていくカロルの後をのんびり歩いて追いかける。しかしエステルはまだ丘からの景色が名残惜しいようで、まだ海をじっと見つめたままだ。そんなエステルを振り返って、ユーリは声をかけた。
「海はまたいくらでも見られる。旅なんていくらでも出来るさ、その気になりゃな。今だってその結果だろ?」 「……そうですね」
ユーリの言葉にエステルは微笑むと、海を背にして美しいその場を後にした。
エフミドの丘を下り、ようやく出口まで来た辺りで、リタが何かを見つけた。それを手にとって首をかしげていると、カロルがあっと声を上げた。
「あ、それ、テントだよ。これがあれば、宿屋でなくても休憩できるんだよ」
カロルがテントについて説明する。どうやら魔物の嫌いなにおいを発しているので、一晩くらいなら魔物を遠ざけてこれで休めるらしい。雨風もしのげるので、旅には欠かせないアイテムなのだそうだ。 その話を聞いたユーリは、ケイの容態が思わしくないことや、ここまでの度重なる戦闘でみんなが疲労していることを考慮して、ここで一晩休むことを提案する。当然誰も反対するものはおらず、今夜はここでテントを使って休むことになった。
旅慣れていて手際のいいカロルを筆頭にして焚き火やテントの準備を終えると、ユーリは真っ先にケイをテントの中に連れて行き、がたがたと震える体に仮眠用の毛布を改めてしっかりと巻きつけた。ケイの顔は熱で赤みを帯びているのに、唇は色を失ってしまったかのように真っ白だ。額に手を当ててみると、相変わらずの高熱がケイを蝕んでいることが伺える。ユーリはいつになく弱々しいケイの姿につい離れがたいと感じてしまうものの、それを振り切って立ち上がると、エステルにケイを任せて料理の準備を進めることにした。
その夜、ユーリが作った温かなスープとサンドイッチを食べ終えたエステル、カロル、リタの三人は、疲労と満腹感であっという間に夢の中へと旅立ってしまった。テントの隅で三人で体を寄せ合ってすやすやと寝息を立てている。ユーリはそんな三人の無邪気な姿に笑みを零すと、取り分けていたケイの分の食事を持って目を閉じているケイのそばに腰を下ろす。そして子犬の毛並みのような柔らかな髪を撫でながら、静かな声で名前を呼んだ。
「ケイ、起きれるか?」 「……ぅん……」 「飯、少しは食べないともたないぞ」
ケイはぼんやりと目を開くと、かすれた声でユーリの名前を呼んだ。ユーリはケイの体を支えるようにして起こしてやると、ケイに温かいスープを手渡した。ケイは手にしたスプーンでのろのろとスープを掬うと、それをゆっくりと口に運ぶ。
「……おいしい」
自然と綻んだケイの顔を見てユーリも小さく笑うと、出来るだけ優しく答えた。
「そりゃよかった。食べれるだけ食べて、あとは寝とけ」 「うん」
素直に頷いてケイはスープを口に運ぶ。食欲はあるようで、ケイはうつわによそわれたスープをのんびりと全部平らげた。下手に食欲をなくされて何も口にしないでいるとそれこそ回復は遅くなるので、食欲があるのは幸いだった。 さすがにサンドイッチまで食べる気力はなかったようだが、温かいものを食べて体も温もったのか、ケイの表情も少し和らいでいることにユーリも安堵の息を吐く。
「ケイ、これ飲んどけ」 「なに……?」 「解熱剤。カロルが緊急用にって持ち歩いてたのが余ってたらしい」 「さすがカロル、頼りになるね〜」
弱々しい口調ながらも軽口を吐くあたりがケイらしい。ユーリは粉末の解熱剤をケイに手渡すと、ケイは素直にそれを口に含んで水で一気に飲み干した。その顔は非常に不機嫌そうである。
「……マッズ」 「良薬口に苦しってな。睡眠作用もあるらしいから、このままゆっくり寝てろ」
ユーリは熱いくらいのケイの体を支えながら再び横たわらせると、しっかりとその体に毛布を包んでテントを出て行こうとする。しかし、ケイが力なくユーリの手首を掴んで引き止めたので、ユーリは驚いたようにケイを見た。ユーリを見つめるグリーンの瞳は熱で潤んでいて、その中に不安を携えていた。
「ユーリ」 「ん?」 「さむい……」
確かにケイは相変わらずカタカタと震えている。しかし仮眠用の毛布もケイに使っているこの一枚とカロルが持っていたもの一枚だけで、カロルの分は密集して寝ている三人が使っているためさすがに引っぺがすことも出来ない。ラピードに添い寝でもさせようかと思ったものの、ラピードもこのテントのにおいはあまり好きではないらしく、少し離れたところで呑気に眠っていたことを思い出す。どうしたものかとケイの頭をなでていると、ケイが泣きそうな声で言った。
「ユーリ……」
絶世の美女と謳っても構わないであろう女の、熱で火照った顔に潤んだ瞳、それですがるように名前を呼ばれたら、そこらの男はひとたまりもないだろう。せめてケイに熱があってよかったと言い聞かせながら、ユーリは苦笑してケイと同じ毛布に潜り込んだ。ひどく火照った体をきつく抱きしめてさすってやれば、震えも徐々に収まってきた。
女性にしては背の高いケイだが、ユーリの腕の中にはすっぽりとおさまってしまう。普段は酒飲みで自由奔放で無茶ばかりをするし、戦闘での分析力は人一倍優れているだけに、最近はあまりか弱い印象を持っていなかったが、こうしてみるとケイは思っていたよりもずっとか弱い女の子であることを、ユーリは改めて感じた。
昔はずっと肺を病んでいて体が弱かったのだから、いくら丈夫な体になったとはいえ根本は変わっていないのだろう。騎士団を辞めてからは隣に住んでいたからといって、毎日四六時中ずっと一緒にいることはなかった。もしかすると、自分の知らないところでずっとこうして体を崩していたのかもしれない。他人の前では、どんなに辛くても元気に振舞っていただけだったとしたら。そう思うと、今腕の中で自分にすがりつくケイの存在が、たまらなく儚いもののように思えた。
ケイは平気な顔で無理をするし、大切なもののためならどんな無茶だってする。自分の命さえ軽々しく扱いかねない。だからこうして他人に素直に甘えることも、弱さを見せることもない。それでも、ほんの僅かだったとしても、自分にだけはその弱さを預けてくれたのだ。ユーリはケイを抱きしめる腕のほんの少しだけ力をこめて、ぽんぽんと甘やかすように優しく頭をなでてやる。
「まだ寒いか?」
ユーリの問いかけに、ケイは首を横に振る。ならよかった、とユーリは呟いて、時々寒そうに自分に擦り寄ってくるケイの体をさすってやった。そのまましばらく沈黙が続き、ケイももう眠っただろうとユーリが思ったとき、小さな声が腕の中から聞こえて来た。
「ねぇユーリ」
くぐもった声は、ユーリの返事を待たずに続ける。
「ユーリはさ、優しいね」 「え?」 「優しすぎて、痛い」
ケイはユーリの腰にやんわりとしがみつくと、息を吐いてから眠たそうな声で素直な気持ちを吐露した。
「……あのね、あたし無理してた。エステルと仲良くしなくちゃとか、しっかりしなくちゃとか。なれない気遣いなんてするもんじゃないね」
そう言って、ケイはユーリの腕の中からユーリを見上げてくすくすと笑う。幼い頃寝たきりだったケイがよく見せていた笑顔に似ていた。
「気遣いすぎた結果の、ただの知恵熱。すぐ治すから、心配しないでね」
すぐ治すから、心配しないで。 幼い頃のケイも、いつもそう言って笑っていた。思えばあの頃からそうやって笑う癖でもついていたのかもしれない。ユーリは自分の顔を見上げたケイの頬に触れた。まるで壊れ物を扱うかのような優しい手つきで。
「大人になってから随分変わったと思ってたけど、おまえ、やっぱり何にも変わってないな」 「そう?」 「そう」
強くなって守らなければと、いつもそう思わされる。そうやって自分を強くさせてくれるのは、いつだってケイの存在があったからこそだ。
「ふふふ」 「なに笑ってんだよ」 「二回目だね」 「なにが」 「こうやってユーリと一緒に寝るの」 「そうだっけ?」 「お母さんが事故で亡くなった次の日、あたし全然眠れなくてさ、水道魔導器のとこで夜ずっと空ばっかり見てたらユーリが来てくれて」
ユーリの脳裏に、幼いケイの姿が浮かぶ。 真夜中、水道魔導器のふちにちょこんと腰掛けて、寂しげな眼差しを星の見えない空に向かって真っ直ぐに向けていた。窓から見たその姿が、まるでいなくなった母親を探す小さな子どものようで、どうしても放っておけなくなって家を飛び出したのだ。
「ああ、そうそう。それで風邪ひくからって無理矢理ケイを家まで送ったら、どうしても寝れないっていうから、それで一緒に寝たんだっけ」 「うん、一緒にベッド潜り込んでさ、頭から布団かぶって、眠るまでいろいろ話したんだよね」 「なに話したっけ」 「覚えてない?」 「忘れた」 「じゃあ、内緒にしとこ」
ケイは悪戯っぽく笑うと、ユーリの胸に顔を埋めて目を閉じた。
「あたしだけの秘密にする」 「なんだよそれ、教えろって」 「忘れるほうが悪いんだよ」
おやすみ、そう言ったきり、ケイは何も言わなくなった。ユーリも諦めて、腕の中の柔らかなぬくもりを抱きしめて目を閉じる。
「……おやすみ」
ミルクティーブラウンの柔らかい髪に口付けながら、ユーリはそう囁いて、穏やかな眠りの底に沈んでいった。
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