【08:少年カロルと花の街ハルル】
エステルが目を覚ましたのは、明け方に迫る夜の終わりの頃だった。普段出歩かないお姫様が、かなりの距離を移動したのだ。慣れない緊張感やプレッシャーもあったのだろう。のろのろと体を起こすと、ラピードが枕代わりを買って出てくれていたようで、エステルの起床に合わせてラピードも目を覚ました。体には薄いタオルケットのようなものがかけられていた。夜通し目を覚ますことがなかったのは、これで寒さをしのいだかららしい。
「ハァイ、エステル。おはよ」
声を掛けられて、まだ動ききらない頭で声を方を見れば、ケイが座ったまま、笑顔でひらひらと手を振っていた。その膝の上にはユーリの頭があって、どうやら眠っているらしい。ここへ来る前に少しだけ眠っていたため、ケイは2時間ほど眠ったあとにぱっちりと目を覚ましてしまい、ユーリと見張りを変わったのだ。ユーリの寝顔はとても穏やかで、起きる気配もない。それだけケイに信頼を寄せていることが伺えた。
「ずいぶん疲れてたみたいねぇ。すっかり一晩過ぎたわよ」 「…え!?」
ケイの言葉を聞いたエステルは、一気に頭が覚醒した。急いで知らせなければならないと思って慌てて出てきたのに、眠って一晩を越してしまったのだから無理はない。
「い、急がないと!」 「まぁまぁ落ち着いて。起きてそんなすぐ動いたって、体に負担かかるだけなんだから」 「で、でも!」
忙しなく立ち上がってさっさと行こうとするエステルを、ケイはやんわりとなだめる。
「気持ちは分かるけど、朝まで眠っちゃうくらい疲れてたってことでしょ。あたしもユーリもラピードも一緒。ここで体力しっかり回復させとかないと、後で倒れても厄介だよ」 「……そう、ですね。すみません、焦ってしまって」
エステルは大人しく腰を落ち着けると、ケイとユーリを見た。ケイの手は優しくユーリの頭をなでていて、なでられている本人はそれが心地いいのか、エステルが声をあげても目を覚まさない。そんなエステルのまじまじとした視線を受けて、ケイはニヤリと笑った。
「なぁに、エステル?やきもち?」 「な!や、やいてないです!」 「んふふふ、照れちゃって」
ニヤニヤと口元に手を当てながらからかうケイに、エステルは顔を真っ赤にさせながら抗議する。可愛らしいエステルの様子を見ながら、これくらい素直になれたら良かったのにな、とぼんやり思いつつ、エステルに言った。
「ところで、もう体は大丈夫なの?」 「はい、もう平気です。たぶん、エアルに酔ったんだと思います」 「あそこから突然、高濃度のエアルが飛び出してきたってことね。危なそうだから、もう近付かないようにしましょ」 「そうですね、気をつけます」
エアルは魔導器を動かす燃料のようなもので、大気中に紛れていて人の目には見えないのだが、濃いエアルは人体に悪い影響を及ぼすことがある。エステルもケイもそれを知っていたので、ケイも大して驚いた様子はなく続けた。
「呪いの噂って、あの魔導器が原因かもね」 「そうかもしれません…エアルが突然吹き出してくるなんて、誰も思いませんから」
そうだね、とケイは同調すると、いまだに膝の上で眠るユーリを見た。そろそろ起こさないとな、と思いながら、なでていた手を止めてユーリの頭をポンポンと優しく叩いて、耳元に顔を近づけて、おーい、とやんわり呼びかける。
「ユーリ、起きて」 「……」 「ユーリ、朝だよ」 「……ん」
小さく声を上げたユーリは、膝に頭を乗せたままで寝返りをうつと、眠たそうな目を僅かに開いてケイを見た。
「ハァイ、ユーリ。おはよ」 「……はよ」
朝一番に拝むのが綺麗なケイの笑顔というのも悪くはないな、と思いながら、ユーリは起き上がって欠伸をこぼしながら伸びをする。ごしごしと子どものように目をこする姿は、いつも余裕のあるユーリからは想像できなかったエステルだったが、なんとも可愛らしいその姿に、胸がきゅっとなるのを確かに感じた。
「…エステルもおきてたのか。おはよう」 「あ、おはよう、ございます」 「もう大丈夫か?」 「はい。もう平気です」
咄嗟に答えたエステルの頬が僅かに赤らんでいたことに気付いたケイは、寝起きのユーリに言った。
「ユーリ、朝ご飯作ってよ。エステルもお腹すいてるって」 「なんだ、作ってやんなかったのか?」 「エステルもさっき起きたとこ。せっかくだから、ユーリのサンドイッチ食べさせてやりたくて」 「なんだそりゃ」
ユーリは呆れたように笑うが、作ってくれるようで準備を始めた。エステルはユーリが料理を作れるということに驚いているようだが、先に城のシェフと比べるなよ、とユーリに釘を刺される。手際よく作られたたまごサンドを手渡され、エステルはまじまじとそれを見つめた。たまごだけが挟まれたシンプルなサンドイッチなど、エステルは当然口にしたことがないのだろう。パクリ、とそれを口に運んでもぐもぐと噛みながら、エステルは感動したように目を丸くしてユーリを見た。
「すごくおいしいです!」 「でしょー?」 「なんでおまえが自慢げなんだよ」
自分用に分けられたたまごサンドにかぶりつきながら、ケイは幸せそうに笑った。結局その笑顔にほだされるユーリは、まぁ幸せそうならいいか、と思いながらその笑顔を見つめた。
「ケイもお料理は作れるんです?」 「簡単なのはね。でもユーリの方が上手だと思うよ」 「でも、ケイの作るお菓子は最高にうまいんだぜ」
今後はユーリが自慢げにエステルに言う。ケイも肩をすくめて笑った。
「お城のシェフには適わないけどね」 「ケイの作るお菓子も食べてみたいです!」 「んー…じゃ、今度機会があればね」 「はい!楽しみにしてますね!」
若干乗り気ではないケイだが、エステルは期待しているようなので、ユーリは口を挟まなかった。そんな会話をしていると、ふとラピードが立ち上がる。どうやら魔物の気配が近付いているらしい。今まで魔物に襲われなかったのは奇跡だな、と思いながら、ユーリが立ち上がるのに習ってケイとエステルも腰を上げた。火を消して、魔導器には近付かないようにしてユーリたちはようやく歩き出す。
出発時には明け方を過ぎていて、森の中はわずかに白み、朝特有の湿っぽさと冷たさが肌を刺す。魔物たちは寝静まっているようで、あまり活発ではなさそうだ。今のうちにさっさと森を抜けてしまおうと、足早に進んでいると、エステルが口を開いた。
「フレンが危険なのに、ユーリたちは心配ではないんです?」 「ん?そう見える?」 「……はい」 「実際、心配してねぇからな。あいつなら自分でなんとかしちまうだろうし。あいつを狙ってる連中にはほんと同情するよ」 「え?」
首をかしげるエステルに、ケイは懐かしむような声で答えた。
「子どもの頃から、あたしたちの中ではいっつもフレンが一番だったもんね。かけっこも、剣も、あと勉強も」 「その上、余裕かまして、こう言うんだぜ?大丈夫、ユーリ、ケイ?ってさ」 「うらやましいな……わたしには、そういう人、誰もいないから」 「自分がその気になれば、ちゃんと答えてくれる人が見つかるよ」
ケイの言葉は、どことなく重みがあって、エステルはそれ以上口を開けなかった。
そして森のさらに奥を抜け、森の出口に近付いたときだった。最後尾を歩いていたラピードが、グルルルと唸り声をあげたのだ。ユーリたちが何事かと振り返ると、乱雑に生い茂る草むらの中から、えらく可愛らしい声が聞こえた。
「エッグベアめ、か、覚悟!」
震えた声でそう言いながら飛び出してきた声の主は、まだ幼い少年だった。少年は小さな体に似合わない、錆びた大剣を振り回すはじめると、遠心力がかかって止まれなくなってしまったのだろう、その場で一人騒ぎながら止まる様子もなくぐるぐると回り続けている。
そんな少年を様子をしばらく伺っていたユーリたちだったが、いい加減見ていられなくなったのだろう、ユーリは剣を鞘から抜いて、タイミングを見計らうと少年が振り回す大剣を勢いよく弾いた。すると大剣は見事に折れてしまい、少年は衝撃に耐え切れずによろけると、その場にばったりと倒れてしまった。
「う、いたたた……」
その少年にラピードが近付くと、少年はラピードの顔を見てひいっと甲高い悲鳴を上げた。すると寝転んだままで目を瞑って、今にも泣き出しそうな声で抗議し始めた。
「ボ、ボクなんか食べても、おいしくないし、お腹こわすんだから」 「ガウッ!!」 「ほ、ほほほんとに、たたたすけて。ぎゃあああ〜〜〜〜〜!!」
怖がる様子の少年を見て、どうやらラピードはからかって楽しんでいるらしい。いい性格してるイヌだな、と思いながら、ケイはなかなか珍妙な光景をしっかりとグリーンの瞳に納めていた。
「忙しいガキだな」
ユーリも呆れたようにその様子を見ながら口を開く。エステルはとことこと少年に歩み寄って、寝転がる少年の傍らに座り込んだ。
「だいじょうぶですよ」 「あ、あれ?魔物が女の人に」
エステルの声にようやく目を開けた少年は、驚いた様子で桃色の髪を見上げている。しかし視線を少し逸らせば、そこには相変わらずラピードの姿もいて、少年は慌てて飛び起きた。
「ったく。なにやってんだか」
肩を落としながら言うユーリの声は溜め息まじりで、すっかり面倒くさそうな様子に、ケイは小さく笑った。
寝転んだままの少年を起こしてやると、ようやく落ち着いたようで、自己紹介をしてくれた。少年の名前はカロル・カペル。赤いスカーフを巻いて大きなかばんを肩にかけた、小柄で茶髪の可愛らしい少年だ。年はまだ12歳だという。聞くところによると、カロルは魔物を世界を渡り歩く『魔狩りの剣(マガリノツルギ)』というギルドの一員だそうで、誇らしげに胸を張って見せた。
「ふーん、こんな子どもでも、ギルドってのに所属してんのね」
ケイは興味があるのかないのかも掴めない口調でそういうと、目の前の小柄な少年をまじまじと見つめた。ユーリは自己紹介をされたから返す、くらいの事務的な物言いで、全員の名前をカロルに教えると、くるりと踵を返した。
「んじゃ、そういうことで」 「バァイ、カロルちゃん」
何事もなかったかのようにすたすたと去っていく二人の後姿を、エステルも慌てて追いかける。当然、その場に残されたのはカロルだけで、ポカンと三人と一匹の背中を見つめていたのだが、ハッと駆け寄るとバタバタと駆け寄ってその背中を追い越した。振り返って三人を見上げる。
「待って待って!みんなは森に入りたくてここに来たんでしょ?なら、ボクが……」 「残念、あたしたち森を抜けてここまで来たの。今から花の街ハルルに行くのよ」 「へ?うそ!?呪いの森を?あ、なら、エッグベア見なかった?」
どうやらカロルはエッグベアというものを探していたらしいのだが、当然ユーリたちに思い当たる節はない。見てないということをカロルに告げれば、あからさまに肩を落として、ひどく落ち込んだようにうな垂れた。
「そっか…なら、ボクも街に戻ろうかな……あんまり待たせると、絶対に怒るし…うん、よし!」
ぼそぼそとそう呟くと、ぱっと顔をあげたカロルは、自慢げに胸を張ってこう言った。
「みんな、この辺の地理詳しくないでしょ?心配だから、魔狩りの剣のエースであるボクが、街まで一緒に行ってあげるよ。なんたってボクは、魔導器だって持ってるんだよ」
自慢げに大きなかばんを見せ付ける。どうやら、彼の魔導器はこのかばんらしい。しかし三人はなんてことないように顔を見合わせた。三人とも左の手首に、同じように腕輪タイプの魔導器を身に着けているからだ。もちろん、ラピードも首輪が魔導器になっている。少年は貴重な魔導器を全員が持っていることにびっくりしたようで、なんで持っているのかと言いたげな表情で三人を見つめた。答えたのはケイだ。
「ユーリは騎士団やめた餞別に、あたしのは形見の品、ラピードは前のご主人さまの。エステルは貴族のお嬢様だから、持っててもおかしくないでしょ」 「そ、そうなんだ……なら、これならどうだ!」
かばんから出して掲げたのは分厚い一冊の赤い本で、ユーリはカロルに近付いてその本をぱっと取り上げると、その本を開いた。本には魔物の情報が丁寧にイラスト付きで記載されている。弱点や耐性までみっちりと書き上げられているそれは、どうやらカロルの手作りらしい。
「へぇ、丁寧に書いてるのね。イラストも分かりやすい」 「でも、途中から全部白紙ですよ?」
ユーリが開いた本を覗きこみながら、ケイとエステルが口を開くと、カロルはムッとしたように声を上げた。
「こ、これからどんどん増えていく予定なの!…ってちょっと、ねぇ、勝手に書き込まないでよ!」 「書いてないよ」
ページをめくるしぐさが、小さなカロルには書き込んでいるように見えたのだろう。頭を揺らして憤慨する様子がなんだか可愛らしくて、ケイは笑いながらそう言った。ユーリはそんなカロルの様子は気にもとめていないようで、かわりに試すように声をかける。
「エースの腕前も、剣が折れちゃ披露できねぇな」 「いやだなあ。こんなのただのハンデだよ」
人差し指を左右に揺らしてから、カロルは折れた剣を拾い上げて振ってみせる。すると、小柄な体にはちょうどいい具合の長さになっていたようで、先ほどよりもずっと軽々と剣を振れるようになったことに驚いていた。
「…優しいですね、ユーリさん」 「なんのことやら」
ユーリは、先ほどわざとカロルが持ちやすいように剣を折ったのだ。ケイには見抜かれていたらしいが、ユーリはわざとらしく誤魔化して、嬉しそうに剣を振るカロルを置いたまま歩き出した。ケイたちも後を追うが、カロルが追ってくる様子はない。仕方ないな、と振り返りながら、ケイはカロルに向かっておーいと声をかける。
「魔狩りの剣のエースさーん、置いていきますよ〜」 「え?わ、ま、待ってよ!」
慌てて追いかけてくるカロルにくすりと笑うケイを見て、ユーリも眉を下げて笑った。
「優しいですね、ケイさん」 「なんのことやら」
ハルルの街は北だよ!と騒ぐカロルを加えて、すっかりにぎやかになった一行は、クオイの森を抜けて花の街ハルルへと急ぐのだった。
カロルの案内でハルルの街に到着したユーリたちは、初めての街に興味津々な様子であたりを見渡した。花の街というだけあって、自然と共生しているような美しい街だった。街の中心には大きなハルルの樹があり、そのハルルの樹に向かって坂道が続いている。坂道に連なる家や店も、帝都のようにぎゅうぎゅうと隙間なく並んでいるのではなく、余裕を持って点々と存在していた。帝都よりもずっと田舎らしい印象を与える街だが、ゴミのようにが人溢れる帝都とは違い、穏やかで暮らしやすそうな街だった。
しかし、ユーリたちは眉を寄せる。なぜならこの街には、結界がないからだ。結界がないために、魔物に襲われたのだろう。ケガをした街の住人たちが、あちこちで座り込んで体を休めている。カロルの話によると、ハルルの樹が結界になって街を守っているらしいのだが、毎年満開の季節が近付くと、一時的に結界が弱くなるらしく、それがちょうど今の季節なのだが、そこを魔物に襲われて結界魔導器がやられてしまい、こんな惨状を招いてしまったのだという。魔物は退けたようなのだが、樹が徐々に枯れはじめてしまっているとカロルは言った。
「樹の結界なんて、聞いたことねぇけどな」
ユーリの問いに答えたのはケイだった。
「魔導器の中には、植物と融合して有機的特性を身に着けることで、進化するヤツがあるの。その代表が、ハルルの樹」 「へぇ……意外と博識だったんだな」 「…まぁね」
驚いたようにユーリがケイを見ると、ケイは意味深に笑ってみせたが、その笑顔の意味など、ユーリに伝わるわけがない。ユーリは僅かにいつもと違う雰囲気を漂わせるケイに、肩眉を吊り上げたが、あえて何も言わなかった。
「あ!」
すると突然カロルが声を上げたので、三人は同時にカロルを見た。
「ど、どうしたんです?」 「ごめん!用事があったんだ!じゃあね!」
エステルが声を上げたカロルに驚いて尋ねると、カロルは三人に向かってパチンと両手を合わせて、笑顔でバタバタと立ち去ってしまった。自由な子だなあ、と呑気にケイが思っていると、ユーリも同じようなことをぼそりと呟いた。
「エステルはフレンを探すんだよな……」
そう言ってユーリがエステルを見た途端、エステルはいきなり走り出した。ケガをしている人々を見て放っておけなかったのだろう。彼らの治療をするために、座り込む人々に声をかけている。
「……大人しくしとけって、まだわかんないのかしらね、あの子」
ケイの吐き出した言葉はずいぶん苦々しく、トゲがあるものだった。睨むようにエステルを見る視線は、随分と冷めている。ユーリも同じような感想を抱いたのだが、ケイがここまで露骨に態度で示すと、自分まで同じようなことを言うのは躊躇われて、仕方なく飲み込んだ。
駆け出したエステルの後を、二人は歩いて追いかける。ケガをした人々に治癒術を施していくエステルの様子を伺う二人の視線は、すっと細められた。
「ケイ、気付いてるんだろ?」 「まぁね。あの子の魔導器、反応ないんだもの」 「魔導器を使わずに魔術を使う、か……」
ユーリとケイは、エステルの魔導器を見つめていた。本来、魔導器は技や魔術を使う際に必要なもので、使用する際は魔導器が光り輝くのだが、エステルの魔導器はそれがなかった。つまり、エステルは魔導器を使うことなく魔術を発動しているということになる。魔導器を身に着けているのは、恐らくそれを隠すためのカモフラージュなのだろう。
「ま、いろいろあるんじゃないの?お城に住まうお嬢様なんだから。いちいち、あたしたちが探るようなことでもないわ」 「……そうだな」
そんな会話をしている間に、エステルの治療は終わったようで、住人から次々に感謝の言葉を述べられていた。治療費を払えるだけのお金がないと住人は困ったように言うのだが、エステルはそんなものはいらないの一点張りだ。エステルの謙虚さに胸を打たれたのはハルルの長で、ポロリと騎士団にも見習ってほしい、と零した。その言葉に、住人たちは怒りを露にしながら賛同する。
「まったくですよ!騎士に護衛をお願いしても、何もしてくれないんですから!」 「まあ、帝国の方々には、私らがどうなろうと関係ないんでしょうな」
その言葉に愕然としているのは、当然エステルである。騎士に守られ城で過ごしたエステルは、帝都の外での騎士の態度が信じられなかったのだろう。僅かに唇を震わせながら、次々に飛び交う騎士団への不満を耳にしていた。
「あ、でも、あの騎士様だけは違ってましたよね?」 「おお、あの青年か。彼がいなければ、今ごろ私らは全滅でしたわ」
街の女性の言葉に、ハルルの長はありがたそうに述べる。今年は結界の弱まる時期が早く、護衛を依頼したギルドが来る前に魔物たちに襲われてしまったのだが、そのとき偶然街に滞在していた巡礼の騎士たちが、魔物を退けてくれたのだ、と嬉しそうに声にした。ユーリとケイはその言葉を聞いたあとに顔を見合わせると、ハルルの長の元に近付いた。
「その騎士様って、フレンって名前じゃなかった?」 「ええ、フレン・シーフォと」
ユーリの問いに、住人が答える。さすがは優等生、とケイが心の中で呟いていると、エステルがハルルの長に近寄って、ずいっと顔を近づけた。ようやく得たフレンの情報だ、興奮するのも無理はない。
「フレンは、まだ街にいるんですか!?」 「いえ、結界を直す魔導士を探すと言って旅立たれました」 「行き先まではわからないか」 「東の方へ向かったようですが、それ以上のことは……」 「そうですか……」
期待をしていただけに、エステルのショックも大きいのだろう。あからさまにガックリと肩を落としてしまった。
「まぁ、そう落ち込まないで。魔導士探しに行ったってことは、見つかれば戻ってくるんだから」 「そうそう。よかったな、追いついて」
ケイとユーリの言葉に、エステルはようやく顔を上げた。確かに、ここで待っていれば会えるのだ。ようやく顔をほころばせて、エステルは頷いた。
「はい、会うまでは安心できませんけど、よかったです」
やっとエステルを引き渡せることに、ケイも一安心の様子だ。しかし、ケイの中では懸念もあった。ここでエステルを逃がしてしまっていいのだろうか、という懸念だ。当然ユーリたちにケイの心の中が知れるはずもなく、ユーリは相変わらずのすかした笑みでハルルの樹を指差した。
「じゃ、一段落したことだし、ハルルの樹でも見に行こうぜ」 「え、でも、ユーリたちはいいんです?魔核ドロボウを追わなくても」 「樹見てる時間くらいはあるって」
ユーリの言葉に押され、エステルもハルルの樹を見に行くことにしたらしい。ケイはそんな二人の後ろを、二歩ほど離れてラピードと歩く。クゥン、と心配そうに声を上げてケイを見つめるラピードは、彼なりに少しいつもと違うケイを気にかけているようだ。ケイはそんなラピードにふっと笑いかけると、心配ないよ、と伝えるように、青く柔らかな毛並みをなでた。
坂を上ってハルルの樹を目指している途中、橋の上でがっくりとした様子で座り込むカロルの姿があった。負のオーラを体中から放つ姿に、ユーリたちも思わず立ち止まる。ぶつぶつと何かを言っているようだが、聞こえるわけもなく三人は顔を見合わせた。
「カロル、どうしたんです?」 「どこ行っちゃったんだろう。ほんとに行っちゃったのかな。ボクだってちゃんとやってるのに……」 「カロル?」
完全に自分の世界に浸ってしまっているカロルには、エステルの声など聞こえていない。膝に顔を伏せてぶつぶつと囁く姿は、非常に陰湿そのものである。
「…ひとりにしといてあげましょ」
ケイの言葉は何かを悟ったようにひどく優しいもので、ユーリとエステルもそれ以上何も言えなくなり、カロルを横目に橋を渡ってハルルの樹へと向かった。
坂を上りきると、目の前には荘厳な出で立ちの巨大な樹がユーリたちを出迎えた。そのあまりの巨大さに、三人は感嘆の息をもらす。
「近くで見るとほんと、でっけ〜」 「もうすぐ花が咲く季節なんですよね」 「どうせなら、満開の花が咲いて街を守ってる姿、見たかったね」
ケイはラピードと共にその場に座り込みながら、ハルルの樹を見上げた。満開の花が咲く姿がどれほど美しいのか、ケイには想像など出来なかったからこそ、見てみたいと思った。自分と同じこの樹が、一体どれほど美しいのかを、見てみたかった。
「わたし、フレンが戻るまでケガ人の治療を続けます」
エステルがユーリに向かってそう言うと、ユーリは何か思いついたようで、エステルに提案する。
「なあ、どうせ治すんなら、結界の方にしないか?」 「え?」 「魔物が来れば、またケガ人が出るんだ。今度はもっとたくさんの人間が大ケガするかもしれねぇ」 「それはそうですけど、どうやって結界を?」
ケイはそんな会話を耳にしながらラピードにもたれかかって、ぼんやりと枯れかけているハルルの樹を見上げたままで声を発さない。儚い眼差しで樹を見上げるケイが何を思っているのかは、ラピードにも分からなかった。心配そうにケイを見つめながら、その頬を一度だけペロリと舐めてやる。ケイがここにいるのを、確かめるかのように。
ユーリとエステルは、巨大なハルルの樹が魔物に襲われた程度では枯れないはずだ、と考えて、他の原因を探ろうとハルルの樹を触ってみたりしている。それでも動かないケイの様子を、ユーリは訝しげに見た。手伝う素振りも見せず、ただじっと枯れかけた樹を見上げるケイの姿は、この場では異質だ。
するとそこへハルルの長がやってきた。ユーリたちの様子を伺いにやってきたらしい。樹が枯れた原因を調べているのだと告げれば、長は困ったような顔をして答えた。どうやらフレンも枯れた原因を調べていたらしいのだが、その原因は分からなかったらしく、それで魔導士を探しに出掛けたのだそうだ。
そんな話をしていると、すっかり落ち込んだ様子のカロルもハルルの樹の近くにやってきた。俯く横顔からわずかにのぞく表情は暗く、森での明るさも消え失せてしまっていた。
「あ、カロル!カロルも手伝ってください!」
声をかけたのはエステルで、カロルはのろのろと呼ばれた方に顔を上げた。
「……なにやってんの?」 「ハルルの樹が枯れた原因、調べてるの」
樹を見つめたままのケイが、ぼんやりと答えた。ユーリもいよいよ心配になって、ケイを見る。エステルと会って帝都の外に出てからというもの、ケイの様子がいつもと違うことが多く、ユーリも調子を狂わされていた。やはり、帝都からケイを出したのは間違いだったのではないか、と今さら後悔が募る。
「なんだ、そのこと……」 「なんだ、じゃないです」 「理由なら知ってるよ。そのためにボクは森でエッグベアを……」 「ん?どういうことだ?」
俯いてぽつぽつ話すカロルの言葉に、ユーリは視線をケイからカロルへと移した。
「土をよく見て。変色してるでしょ?それ、街を襲った魔物の血を、土が吸っちゃってるんだ。その血が毒になって、ハルルの樹を枯らしてるの」 「その毒をなんとか出来る都合のいいもんはないのか?」 「あるよ、あるけど……誰も信じてくれないよ……」
カロルはすっかり自信がなくなってしまっているらしく、理由を話そうとはいない。ユーリは俯くカロルに近付くと、しゃがみこんで笑顔でカロルの顔をのぞきこんだ。
「なんだよ、言ってみなって」 「…パナシーアボトルがあれば、治せると思うんだ」
パナシーアボトルというのは、毒などの治療に使われる万病の薬で、一般的にも出回っているものだった。 ぽそっと答えたカロルの言葉を聞いて、ユーリは立ち上がる。
「パナシーアボトルか。よろず屋にあればいいけど」 「行きましょう、ユーリ!」
そう言うがはやいか、エステルは先にパタパタと走って行ってしまった。やれやれとユーリはその背中を見送ると、いまだにぼんやりと樹を見つめるケイを見た。ラピードにもたれ掛かったままで、動く気配がない。
ユーリはケイに近付いてそっと手を差し出すと、ケイはようやくユーリの顔を見て、それから差し出された手に視線を移す。差し出された手を握り返すと、いつものようにユーリが力を入れてケイを立たせた。ケイは立ち上がると、心配そうに自分を見つめるユーリの瞳を見返した。
「…よろず屋いくんでしょ?」 「ああ。……大丈夫か?」 「うん?なにが?」 「びっくりするほど、ぼんやりしてたぞ」 「いやぁ、ハルルの樹があんまり綺麗でねぇ。これで枯れかけっていうんだから、驚きだなと思って」
いつもの調子でケイは笑うと、よろず屋に向けてしゅっぱーつ!とこれまたいつも通りに言って、さっさと行ってしまった。ユーリとラピードは顔を見合わせて、つかみどころのないケイの様子に、二人で首をかしげるのだった。
prev - next
|