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決断力は私も彼女もしっかりしていた。
変な話だが失うものが無いからだと妙な確信があった。
優柔不断に迷えば今後が見えず、余計に不安に駆られ目立つことを選択してしまう。
それを私たちは無意識に避けていたのだ。

とりあえず、料理がそれほど得意ではないらしいので料理の当番は私が。
まあ、彼女が水仕事をして手が荒れられても困るしな。
だから洗濯も私が請け負った。

苗字さんはひどく困った顔をしていたが、ずっと1人でしてきたことだし、寧ろ抵抗は無かった。
彼女は綺麗好きらしいので掃除をお願いすると嬉々としてそれを受け入れた。
ただし風呂掃除は最初から最後までゴム手袋をつけるようにきつくきつく言いつけた。


通勤は私は車、彼女はバイクだった。
同じ時間に家を出ても渋滞やら信号やらでいつも彼女が先に着くので問題はなかったし、彼女自身最近異動して来て友人もいないことから怪しまれることはなかった。


そしてありがたいことに先日の仕事の功績が認められ、出世の代りにまた彼女を仕事を組めることになった。
まあ出世をしてどうこう言われたくないのもあるが…、殺人鬼が二人一般人と組むことになるのもあまり平穏ではないと判断したからだ。
まだ勉強不足の面があるとかもっともらしい理由をつけて別の仕事を得ることとなった。


「よかったですね、吉影さん」

「そうだね、名前」

一緒に住むようになって2週間。
彼女は私を吉影と呼び、私もまた名前と呼ぶようになった。
社内ではお互い苗字呼びだが、そもそも殆どが“君”とか“先輩”といった形式的な呼び方しかしていないので業務に支障は来たさなかった。


はじめて名前に“彼女”を見せたとき、驚く様子もなく“はじめまして”なんて挨拶をしたのには笑った。
そういう点で普通の人間とはずれているんだろう。
名前は家で本を読みたいというので、今日は私1人で…いや、“彼女”と買出しに出かけた。


しかし、いつもならこの美しい手に興奮するというのにどうしても家にいる名前が気になって仕方が無い。
気が付けば名前のためにハンドクリームだとかマニキュアなどを買い込んでいた。


ああ、早く会いたい。
そう思うようになったのは彼女が私に似ているからなのだろうか。





















「ただいま」

玄関の扉は開いていたが一向に誰も出てこない。
前まではそうだったが、今は名前がいる。


「名前?」


本来なら心配するだろうが、彼女に限ってそういった身の危険はないだろう。
寧ろ手を出した人間のほうが危機にさらされる。




居間に行くと彼女はいた。
縁側の窓を開け放ち、すやすやと寝息を立てている。
5月といえどまだ肌寒いのに。風邪をひいたらどうするんだ。
そんならしくもないことを考えながらブランケットを彼女の肩に被せた。
その時、彼女の携帯が小さく着信を知らせた。
見る気はなかったが、メッセージがトップ画面に出てくるので目を向ければ必然と内容が読み取れた。


『死ね ブス』


短く用件を伝えたメッセージ。
彼女にこんな言い方をするなど、と怒りが湧き上がる。
・・・何故怒る?何故私が?


「ん…吉影さん?」

名前は眠そうに目をこすり、上体を起こした。
そして、現在人の性か、すぐに携帯に目を遣り、そして私を見た。


「すまない。見る気はなかったんだが」

咄嗟に謝ると、名前はさほど気にした様子も見せず微笑んだ。

「慣れてますから平気です。吉影さん、モテますもんね」

名前は眠気眼で先程のメールに“生きますけどね”と返信していた。なかなかな煽り方をするものだ。

「私が、モテる?」

「そうですよ、吉影さんファンからの妬みメールです。よく来ますよ」

「それは、なんだかすまないね……」

「いえ、謝ることじゃないです。私に責任があるようなメールもありますからね」

名前は肩をすくめて笑った。

「君にも?」

「はい、なんだか社内恋愛中の方からなんですけどね?その人の彼が私を好きとか言い出したらしいんです。でも私はその“彼”は知りませんし、とんだ迷惑ですよ。これもモテるって言うんですかね?」

よいしょ、と立ち上がり私の手から荷物を取る。

「ねぇ、今日は一緒にお夕飯作っちゃダメですか?」

その声はとても優しく溶けだしそうで、思わず頷いてしまった。
彼女はそれを見て嬉しそうに笑う。

予備のゴム手袋を使ってもらえばいいだろう。
手のケアも今日は念入りにしてあげよう。

そんなことを考えながら彼女に続いてキッチンに向かった。









「吉影さん、次はどうしたらいい?」

「ああ、ちょっと鍋を混ぜながら火加減を調整してくれるかい?」

「はぁい」

名前は私に確認を取りながら調理を進めた。
おそらく私が彼女の手を気に入っているのをわかっていて、そのボーダーラインを知るためなのだろう。
おかげで、私は彼女の手がなるべく傷つかない範囲で手伝いを頼めたので内心ホッとしている。

「味見していいですか?」

「いいよ」

今日はシチューだ。
パンが安かったのでそれをつけて食べよう。

「美味しいかい?」

「とっても!」

口元に少しシチューを付けたまま名前は嬉しそうに笑った。
今は調理中で手が離せない。


躊躇いはなかった。


今までの“彼女”とは出来ないその行為は、異様に私を高ぶらせた。


唇ではないにしろ、私は彼女の口の端を舐め上げたのだ。
しかし、名前自身も嫌がるそぶりを見せずそれを受け入れた。

「ああ、確に美味しいね」

「でしょう?」

先程の行為は、まるでただの挨拶だったかのように、名前はふんわりといつもの微笑みを零した。

夕飯はいつも通りの他愛もない会話で、いや、今まで一人暮らしだったことを考えれば“いつも通り”というのはおかしいかもしれない。
しかし、そう考えてしまうほど、私と名前の生活歯車は上手く噛み合った。


「吉影さん?」

「...なんだい?」

「ぼーってしてたからどうしたのかなって」

「ああ」

テレビを見ていた彼女はいつからか私を見ていたらしい。
焦点の合わない目で遠くを見ていたものだから不審に見えただろうね。

「なに、君との生活が思った以上に順調でありがたいと考えていたのだよ」

本音だ。この吉良吉影が誰かと生活をするなんて思ってもみなかったし、その生活が実に心地いいものだった。

「私も思いました。人と暮らすのって煩わしいと思っていたんですが案外楽しいもんですね」

肩をすくめて幸せそうに笑う彼女。
思わず抱き寄せたくなり手を取ると、彼女は笑ってそのまま私の頬にその綺麗すぎる手を這わせた。
一緒に住み出してから怠ったことのない手のケアのおかげで出会った時より格段に美しくなった彼女の手首。
このまま口に含んだら彼女は引くだろうか?逃げるだろうか?

「吉影さんは触れてくれないんです?」

彼女は少し不服そうに私を見た。
そっと彼女の頬に右手を這わせると、とても嬉しそうに頬ずりをしてきた。
ぞくり、と興奮に似た何かが背筋を奔る。

「舐めてもいいかい?」

気がつけばそんな言葉を口走っていた。
名前はその言葉を聞いて目を瞠ったがすぐに、いつもの微笑みを取り戻した。


「私も舐めていいです?」

彼女は小さく赤い舌で私の親指を舐めた。
嗚呼まただ、背中に奔る興奮...いや、快感か?
今まで得ることのなかったそれが体中を埋め尽くす。埋め尽くし、体内から溶かしていく。

「名前...っ」

むしゃぶりつくかのように彼女の手に食らいつけば、名前は快感を得たような甘い声を出し、それを抑えるように私の手へ食らいついた。
舐めあげれば舐めあげるほど、彼女はまるで私の手を溶かしそうなくらい唾液を垂れ流した。
普通なら汚いと思うのにそれは、その姿はとても妖艶で、唾液とともに彼女の色気とも言えるものも流れ出していた。

手を舐めながら私は思わず願ってしまった。





『君を抱きたい』






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