main | ナノ




名前が提案した噂は、一時しのぎにはなったが、やはり吉良と名前の話題は社内を横行していた。
それなりに女性社員に人気があった吉良と、地方からやってきた線の細い、儚いイメージの名前。
社内にそういった女性がいなかったので、“吉良の好みは、ああいうのか”程度の認識が多かったが異正社員にそれなりの人気があった2人ともなるとやっかみも多い。

「吉良さん、ちょっといいすか?」

「なんだい?」

「苗字さんに手出すのやめてくれませんか?俺も彼女のこと、その、気になってまして…生半可な気持ちで付き合うとかそういうの嫌なんスよね」

「…ところで君は彼女に何らかのアプローチはしたのか?」

「え?あ、いや…今度、ご飯に誘おうと思ってて…」

「なら君の行動が遅かったことを後悔するといい。私は彼女とたまたま仕事が一緒になり、会話や食事も増えた。そして性格的波長もあった。もし君が誘いたいのなら彼女を誘うことになんら文句は言わない。彼女が君とのほうが波長が合うのならそれも運命だろう。君のほうが若いしね」

「なっ…」

吉良は“付き合っている”という明言は避けたが明らかに自分たちが親密であることを話した。


一方名前は


「あんたさ、吉良さんに色目使うのマジやめてくんない?迷惑なんだけど」

「はあ」

「何その態度!?ホントに腹が立つわね!」

「色目を使う、とは貴女方のような人たちを指すと思っていましたが…そんなに言うのなら部長なり何なりに吉良さんと組ませて欲しいって直談判したらどうですか馬鹿馬鹿しい」

「な、何よその言い方!」

「毎日このやりとりに付き合わされる私の身にもなってくださいよ。では…」

名前は女性社員達の文句には特に大きな反応を示さなかった。
いっそ結婚でもしてしまったほうが楽だろうか。
いや、でも結婚ってのは簡単にするもんじゃないし、さすがにそうなれば自身の両親に会わなければならないし…。

とにかく、名前にとって罵詈雑言はどうでもいいと思える領域のものだった。
周りは、過激派女性社員に名前が絡まれ、可哀相だなとは思うも誰も助けなかった。

ただ1人、吉良吉影だけは酷く不快そうにしていたが。









吉良宅。

「もう会社を辞めたらどうだい?私1人でも君がこの家にいる以上辛い思いはさせないように働くよ?」

「んー、仕事が嫌いってわけではないですし、今も仕事で大きなプロジェクト受け持ってますからね〜。切りがつかないと無責任ですもん」

「はあ。私がどれほど君を心配しているのかわかっているのか?」

「えへへ、ごめんなさい吉影さん」


名前はいつもそうだ。
それなにりつらいという自覚もあるはずなのに、何故こうも平然と笑っているんだろうか。
過去の出来事に比べれば、という自分の中の基準があるのかもしれないが、その基準はおかしいんだ。
私が彼女を支えていきたい。
自分の中に湧き上がる感情はもうどうにも抑えられないんだ。


「いいかい?つらくなったら言うんだよ?少しでも、だ。わかったね?」

「はぁい」

嗚呼、きっとわかっていない。
でも、今彼女と結婚という人生の分岐点に立つことを恐れている自分がいる。
どうしてだ?
それなりに経済力もある。
彼女のためなら今まで避けてきた出世のコースにだって乗ってやる。
なのに


「…もうすぐ、30日、ですねぇ」


小雨の降る外を見ながら名前は呟いた。


ああそうだ。
彼女の心のしこりを取り除かなければ、“私たち”に平穏は訪れない。



























吉良が心配してくれることに関して、名前はとても感謝していた。
彼から貰ったネックレスを磨くのが日課になったし、おはようやおやすみ、何もないときにもキスをするようになった。
それだけで幸せだったし、それ以上望むのはおこがましいことだと言い聞かせていた。

そんな、ある日。

吉良が休日出勤をしたので振り替えで平日に休みを取った。

いつもどおり、彼がつくったお弁当を持って、いってきますのキスをして、名前は出社した。


11時57分。部長が呼んでいる、と同僚から言われ、部長のもとに行くと呼んでいないといわれた。
デスクに戻ると時計が12時を廻っていた。昼休憩の時間だ。
名前ははやる気持ちを抑えながら弁当袋に手を伸ばす。


「…あれ?」


袋はあるが、空だった。
あるはずなんだ、彼が朝渡してくれた手作りのお弁当が。

慌てて引き出しや別の鞄、ロッカーも探すが見つからない。


「どうして…」

そのとき、クスクスと笑う耳障りな声が聞こえた。



「何してるの?苗字さん?」

散々吉良に色目を使うも悉く敗れ去ったことで有名な霧島という女性社員だった。
名前より3つ上で先輩にあたり、性格もキツく、その影響でおこぼれに預かりたい取り巻きもいた。


「霧島…先輩…」

「何かしら?」

今日の取り巻きは、霧島が一際お気に入りな末田と袖山だった。
二人ともとにかく霧島に賛同し、持ち上げ、彼女の紹介してくれた男を貪るという生活をしていた。
その二人もまた、クスクスと笑っている。

「…ちょっといいですかね?」

名前はなるべく平穏を装い、場所を移すことを促した。

女という生き物は自分に味方がいるというだけで数倍も精神的に強くなるので、霧島はかまわないと鼻を鳴らして笑った。




















殆ど使われていないD会議室。
そこに名前を含めた4人がいた。



「で?何かしら?」

「…とぼけないでください。私のお弁当、どこにやったんですか?」

「クスクス…何の話かしら?もしかしてあの茶色い安っぽそうな箱のこと?あれお弁当だったのぉ?」

やだぁ、ゴミかと思った、と霧島は笑い、末田と袖山も便乗して笑った。



あの弁当箱は、吉良が選んで買ってくれたものだった。
決して安物ではなく、“長く使うならいいものとデザインを重視しないとね”とそれなりに値の張る弁当箱だった。
茶色、というよりこげ茶に近く、小さな花がデザインされており、落ち着きながらも女性らしい可愛いデザイン。
小食の彼女のためにちょっと小ぶりのそれは、吉良も名前も気に入っていた。
その時、同じメーカーのものを吉良も購入し、メーカーだけで見れば“お揃い”だった。それを、


“お揃いと意識するとなにやら恥ずかしいな”


とはにかむ吉良の顔が頭をよぎった。




名前の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。


霧島に対して壁ドンよろしく右手を顔面スレスレを通過させ壁に当てる。
その勢いたるや取り巻き二人おろか霧島すら声を上げることが出来なかった。


「な、何…ぐっ」

空いている左手で胸倉を掴む。
名前の目はいつもの温和なそれではなく、氷点下まで冷え切った目をしていた。

「霧島先輩、」

小さな唇から零れ落ちる言葉すら、まるで氷柱のごとく霧島に突き刺さる。

いつもの調子で名前を煽ろうと言葉を巡らすがいい案が出てこない霧島。
そして取り巻きの二人すら恐怖でその場から動けずにいた。

そう、名前は殺人鬼だ。
しかも連続殺人鬼。
殺気に関しては年季が違う。
からかい程度なら流せるくらいの寛容さを持ち合わせていたが、その矛先が吉良も関わるものへと向いたと判断するや否や、30日にしか見せない顔を覗かせたのだ。


「離し、て…」

「口を閉じろ、うるさい。いいか?もう二度と関わらないでいただきたい。出来たら手荒なまねはせず穏便に済ましたかったのに…小学生みたいなあんたらのせいだからね?で、お弁当箱はどこ?」

ちらり、と横目で末田を見る。
末田は名前と同い年で、小さく悲鳴を上げた後“給湯室のゴミ箱”と答えた。


「そ。わかった。…二度とこういうことしないって誓えますかね?今度したら…」





『殺すぞ』




殺人鬼の“殺すぞ”宣言はなかなかに重みがあり、開放された霧島はヘナヘナとその場へ座り込んだ。



「じゃあ、失礼します」


動けない3人を放置し、名前は給湯室へ向かった。





























ゴミ箱から弁当箱を救出し、洗っているとあっという間に時間は過ぎた。

さきほどの霧島たちの悪事を知っている他の社員から謝罪とばかりに菓子パンを渡され、名前はありがたくそれを頂戴した。





























「と、いうことがありまして…すみません、吉影さん…お弁当箱に傷が…」

「いや、使っていたら傷はいずれ出来る。それより君に怪我が無くてよかったよ」

家に帰り、事情を話す。
吉良はなにより名前の体を案じ、無事なことを確認すると安堵の息を吐いた。


「ありがとうございます吉影さん、私は無事ですよー」

にこりと微笑みながらぎゅ、と吉良の腕に飛び込む。
吉良もよかった、と彼女を無事を再確認するように体を抱きしめた。





















6月30日、土曜日。
いつもならとても気が立って仕方ないのに、今日はとても落ち着いていた。

名前は不思議な感覚に頭をひねる。


「あ、吉影さん」

「おはよう名前。…ん?今日は確か30日のはずだが…」

落ち着いた彼女の様子に目を瞠る。
名前も不思議そうな顔をして吉良を見た。

「そうなんですよ、驚きです。なんだか今日は、その…落ち着いてるというか…“そういう時間”に時間を割くなら、吉影さんと過ごしたいです」

「…なら一緒に過ごそう。美味しいお店に行かないか?噂で聞いた体の調子が良くなるレストランなんだが」

「あ!そこ前から気になってました!是非!」

















体の調子がよくなるレストラン…もとい、トラサルディー。

噂どおり、食べれば突然体に異変が起き、そして不調が解消される。
二人の疲れ目や肩こり、腰痛など、綺麗さっぱりなくなってしまった。
そして味も良い。

「うわっ体が軽い!」

「名前、すごく血色が良くなったね、とてもいい顔色をしている」

二人で体調がいいことを確認しあい笑みを溢した。
店長であるトニオに礼を言い、最近話題の恋愛映画を見た。。
恋愛映画は、なんでも名前が原作者のファンらしく、名前本人は終わってから興奮しっぱなしだった。

「まさかあのシーンがあのように再現されるとは…!驚きました、素敵でした!」

「ストーリーも凝っていて面白かったね、恋愛映画なんていつぶりだろうか」

「楽しめたようでよかったです!」

「名前、出来たらその作者の本を貸してくれないか?私も読みたい」

「もちろんですよ!あ、新刊が出るので本屋寄ってもいいですか?」

「ああ」

名前と吉良は本屋に立ち寄り、本を物色する。
嬉しそうに新刊コーナーに向かう名前を目で追う。
いつもなら、本を読む女性の手を凝視するだけの場なのに、今は嬉しそうに新刊を手にし笑う名前しか見えなかった。

“ありました!”とジェスチャーし、そのままレジへ向かう。

吉良は適当に料理の本を立ち読みしながら名前の戻りを待った。



(夕飯はこれにするか)


ページをパラパラとめくり献立を考える。
さながら主夫である。





















帰宅し、二人で料理をし、食事をする。
名前が先に風呂に入り、吉良も入れ替わりで風呂に入る。




明日は日曜日だ、なにをしようか。


いつも考えないようなことを考えながら布団で寝返りを打つ。
すると、もぞり、と布団が動いた。


「あ、あの、吉良さん…」

「!驚いた、どうしたんだい?ここは私の布団だよ?」

隣の布団で眠っていた名前が申し訳なさそうに吉良の布団へもぐりこんできた。
きゅ、と吉良のパジャマの袖を掴む。

「なんだか、その、なんていいますか…すごく吉良さん良い匂いしてて…我慢できなくて…今日だけで良いので一緒の布団じゃダメですか…?」

「それは…その…私にも理性というものがあってね?」

そういえば、暗闇でもわかるくらい顔を赤らめる。
その反応に吉良は苦笑した。

「大丈夫、なにもしな「いいです」…え?」

「吉良さんになら、私、してほしいです」





名前の勇気の篭った小さな告白が、寝室に響いた。








prev *next