その言葉で、 | ナノ
これこれの続きのような。


 クロバットの背に身を預けるシルバーは、眼下遥か下に広がる、シンオウの景色をじっと見つめていた。
 齢十五になった日にジョウトから――正確にはワタルの元から旅立ち、もう二年の月日が過ぎ去っている。真っ白な状態でもう一度旅を始めようと決め、ジョウトからもカントーからも遠ざかっていたが、結局旅に連れて行ったのは、かつてウツギ研究所をスタート地点にした旅と同じメンバーだった。
 一人で旅をしている筈が、行く先々で他人の手を借り、助けられ、時にはシルバーから手を差し出すこともあった。ただ、無計画に飛び出したにしては、随分と充実したものだったと思う。
 徐々に遠ざかっていくシンオウ地方に目を細め、シルバーは腕につけたポケギアを撫ぜた。
 ポケギアにセットされたコール機能と、メールアプリの履歴を遡っても、その殆どがワタルであった。旅に出た当初は過干渉な程に連絡を寄越してきたワタルも、一年を過ぎた頃からは少しだけ距離を置いてシルバーを見守るようになっていた。それでも、ポケギアは旅の最中ワタルとシルバーを繋ぐ、唯一の手段であったため、シルバーも口では文句を言いつつワタルとの通信を楽しんでいた節もある。
 そして、先日シルバーがジョウトに帰るとワタルに告げた時の喜びようは、今思い返してもシルバーの口許を綻ばせてしまう。
 そろそろそっちに帰る、と言った瞬間の、虚を突かれたような声音から一転して、ワタルは酷く上機嫌でその日は必ず迎えに行くと笑った。迎えにと雖もそう簡単にワタルはリーグを離れられず、またシルバーがどの時刻に帰還するかも明白ではない。天候が悪ければ空路を取れるか分からない上、空路であればあったで気流やクロバットの体調も影響する。
 ただ、シルバーはそう分かっていても、ワタルは迎えに来るだろうと確信していた。この二年の間に、どこかの地方ではコール機能が進化しテレビ電話機能が付いた通信機器が出たと聞いたが、シルバーの持つポケギアは生憎映像対応はしていない。
 しかし、ポケギアから聞こえるワタルの声だけで、シルバーははっきりとワタルの表情までもが脳裏に浮かんだ。それは、きっとワタルも同じことだろう。


 長時間の飛行をしていれば、如何に鍛えたクロバットといえど疲労するだろうと、シルバーは手を伸ばしてクロバットの頭に触れた。
 天候は悪くはないが、空は曇り模様だ。上昇すればするほどに空気が冷え、低い位置にある雲に差し掛かれば、冷えて細かな粒となった塵が頬を弾いていく。
 ぱちぱちと弾けるそれは、シルバーの脳裏にいつの日かワタルと飲んだソーダ水を思い起こさせていた。
 夏の夜、きんと冷えたグラス、弾けて消える炭酸、空に浮かんだ月――そして、ワタルに二度、告げられたあの言葉。
 シルバーが知らないのを承知で、否、知っていても良かったのかもしれないが、ワタルは月を愛で、それを口にした。
 あれでいてロマンチストなところもあるワタルの事だ、シルバーはその時はただ夜景を楽しんでいるだけだと思っていたが、ホウエンを回り切りシンオウに移動して暫くの後、ミオという街にあった図書館で偶然その意味を知ったのだ。
 シルバーにその意味を説いたスーツの男性は、薄い色がついた眼鏡の奥で微かに笑っていた。もしかしたら、シルバーの事を最初から知っていたのかもしれない。
 後日その男性が誰であったか知った時、シルバーは怒っていいやら恥ずかしいやら、そしてその感情をどこにぶつけたらいいのかも分からず頭を抱え身悶えしたものだ。
 当時の事を思い返してみると、ふつふつと沸くような怒りと、そして込み上げる期待感が浮かんでくる。ワタルの元への期間を決めた時、シルバーはワタルに意趣返しをしようと目論んだのだ。
 ワタルから、月を愛でる言葉を二回受け取っている手前もある。ワタルと出会った五年前とも違い、そしてワタルの元を離れた二年前とも、シルバーは違っていたかった。

 健気にまだ飛べると翼を羽ばたかせるクロバットを宥めすかして休ませつつの道程は長く、シルバーが漸くカントー地方を視界の果てに移せるようになった頃には、もう陽が沈もうとしていた。
 あと一息だが、早朝からシルバーを乗せ飛行しているクロバットも、いよいよ疲れが隠し切れなくなってきている。
 クロバットにとっても、ジョウトと、そこから地続きになっているカントーは生まれ育った地である為、逸る気持ちもあったのだろう。そして、何よりもシルバーの気持ちを慮ったに違いない、空を切るように進むその速度は、クロバットが出せる最高速度に近いものを維持し続けていた。
 どちらかといえば夜行性である為に視界には何ら影響はないだろうが、あと一息だからといってここで急がせてもクロバットを疲弊させてしまうだけだろう。
 すぐそこまで目的地が見えている以上、急いたとて何ら利点はない。シルバーは思案の後に、クロバットに降りるよう指示を出した。
 都合の良い事に、目下には小さな町がある。どうせセキエイリーグに着くのが夜になってしまうのならば、ここで夕飯を摂っても良いかもしれない――、そこまでシルバーが考えた時、ゆっくりと高度を落とし始めていたクロバットがキィ、と鳴き、再びぐんと高度を上げた。そればかりか、最後の力を振り絞らんばかりに翼を宙に叩きつけて先を急いでいる。
 急激に高度も速度も上昇した事と、もう降りるものだとばかり思っていた事が徒になり、シルバーの体が大きく傾いだ。クロバットの背から落ちてしまうようなことはないにしろ、変化についていけずに息が詰まり、弾ける細かな氷の粒に晒された目は確りと開けていられない。
 シルバーは眼前に手を翳し、何事かとクロバットに問いかけたが、クロバットはただ羽ばたくのみで、シルバーに答えようとはしなかった。
 耳元で空気が渦を巻き、きらきらと夕陽を反射する粒子が視界を煙らせる。
 まるでソーダ水の中に放り出されたような心地がして、シルバーはクロバットへの制止を諦め、最早止まりかけた思考に身を任せる事にした。風に撫でられ冷たくなった体は、グラスに沈んだ氷に似ている。
 汗をかいたグラス、カラカラと揺れる砕氷、立ち上る炭酸、ほろ苦いライム――。
 脳裏に渦巻く記憶に意識が揺さぶられ、シルバーは咄嗟に瞼をこじ開けた。揺れる炭酸の闇が、そこまで迫っている。
 大きな塊のような、漠然とした恐怖を抱いたが、しかしシルバーの視界に映ったのは燃えるような夕陽であった。夕闇の色を背に、赤色が煌めいている。
 こうして思えば、世界はあのカクテルグラスそのものだった。シルバーは細く長く息を吐き、力を抜きクロバットの背から手を放す。
 支えるもののなくなったシルバーの躰は大きく揺れ、そして炭酸水の中を落下し始めた。

 シルバーが砕氷であるならば、あの広がる夕闇は、赤色は、

「おかえり!」
 シルバーを包む、あの雄々しい命の色である筈なのだ。
 抵抗もなく真っ直ぐに地へと落下していくシルバーを捉えた腕は、その痩身をきつく抱きしめ胸へと引き寄せた。次いで降る聞き慣れた声は、耳鳴りに掻き消されることなくシルバーの鼓膜を叩く。
 どれだけ高速で空を駆けてここまで来たのだろうか、冷え切ったシルバーの体を抱くワタルの腕も凍えるほどに冷たかったが、シルバーは不思議と寒いとは感じなかった。寧ろ、暖かいと感じる程だ。
 シルバーが背から落ちても動じなかったクロバットが、ワタルを背に乗せたカイリューと挨拶を鳴き交わし、そして自らシルバーの腰に佩いたボールへと戻っていく。人間よりもずっと優れた知覚を持つクロバットは、いち早くワタルの接近に気付いたのだろう。
 道理でシルバーの命令を無視した訳だと、健気な主人思いの行動にシルバーは苦笑し、そっとボールに手を遣った。微かに揺れるそれも、シルバーを暖める。
 一頻りシルバーを腕の中に収めて気が済んだらしいワタルは、暫くの後に随分と危険な事をする、とシルバーを窘めた。ただ、クロバットが己に気付いての行動であったことは分かっているらしく、その表情は穏やかだ。
 良く躾けられているカイリューの背の上で、シルバーはじっとワタルの顔を見つめた。ワタルの面持ちは少しだけ齢を重ねたような気があったが、それでもワタル自身は何一つとて変わっていなかった。
 シルバーの視線を真っ向から受け止めたワタルは緩く笑みを浮かべ、そっと頬に掌を伸ばしてくる。ちらりと横目に見えたその指先には所々に青くペン染みが見られ、それだけでワタルがどうやって今日、この時間にシルバーを此処まで迎えに来れたのかが顕著だった。
 互いに吐き出す吐息は口許から白く棚引き、シルバーは視界が白濁に煙るのに任せてゆっくりと目を閉じる。
「…このまま死んでもいいと、思った」
 そのままワタルの気配が近付き、唇が軽く触れ合う距離になった所でシルバーはそう、唇に乗せた。刹那、ワタルの呼気が止まり小さく息を呑むのが分かる。
 それは先刻の答えでもあり、二度に渡り受け取ったワタルの想いへの返事でもあった。そのまま暫しワタルは黙ってシルバーを見詰めていたようだったが、その内に背を震わせ、そして堪えきれなくなったのかくつくつと喉すら鳴らして笑い出す。
 出会った時からそうだった様に、ワタルにとってシルバーが何をどう考えているかなど、手に取るように分かってしまうのだろう。それでも、少しでも意趣返しになっただろうかと考えたところで、それを口にすることは叶わなかった。
 呼吸を塞ぐような口付けは凍えきって酷く冷たかったが、どこか暖かな命の味がする。
 明日も、明後日も、空に浮かぶ月は甘美な死を伴い、美しく煌るに違いない。



END
その言葉で死んだわけじゃない!


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