声、大きいから
0時、0時、0時。
ジョッキ片手に、迫り来るタイムリミットをぶつぶつと呟いていれば、怪訝な視線が真正面から突き刺さる。
「……涙華さん、」
「何」
「そんなぶつぶつ言うくらいなら、断れば良かったじゃないですか」
「それが出来ない人間だからこうしてぶつぶつ言ってんでしょうが」
「ですよねー」
分かったから、離して。
我ながら、吐き出した声だけは冷静だったけれど、脳内はこれまでにないほど焦っていて、気付けばそんな言葉を音にしていた。
勿論そのお陰で焦りの原因であった腕はすんなり解放されはしたけれど、一難去れば新たな一難が生まれるのは世の常。
解放の見返りに人質として奪われた携帯を諦めれば、今日という日は乗り越えられるだろう。しかしそれは愚策でしかない。
個人情報の巣窟(そうくつ)である携帯を当然見捨てる事など出来るわけもなくて、0時きっかりに迎えに来ると告げたあの男の言葉にただただ頷く事しか出来なかった私はこうして止まらぬ時の流れに苛(さいな)まれている。
「あのぉ、涙華さん。余計なお世話だと思うんすけど、」
「……ん、」
「あの人って、アレですよね?涙華さんが唯一付き合った事のある人、ですよね?」
ぐび、と。
泡の消えたビールを一口飲んだあと、そこそこの大きさの唐揚げを丸々頬張った目の前の彼はさながらハムスターのようで何とも愛らしい。
「涙華さんが俺とセックスはしてくれるのに付き合ってはくれない原因になった人、ですよね?」
しかし、もふもふと動くその口から発せられる言葉には微塵も愛らしさは感じられない。
寧ろ、悪意を感じる。
「声、大きいから」
「俺的には嘘でも否定して欲しいんすけど」
端的に言えば、軽薄。
そんな見た目に反して無駄に聡(さと)い彼は、自身の発言を確定して上で、にやりと悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「もう、俺にしちゃいません?」
「しちゃいません」
「頑固っすねー」
話の流れでその類(たぐ)いの言葉を彼から向けられるのはさして珍しい事ではない。
初めて想いを告げられた時は真剣な眼差しと共に愛を差し出されもしたものだが、それを丁重にお断りしておきながらアルコールに負けて何度か身体を重ねたりしたせいか何かにつけて彼は会話の中に挟むようになった。
「一応、これでも焦ってんすよ?俺」
基本、無邪気。けれどもきちんと場の空気も読めて気も使えるし仕事も出来る。
愛嬌もあって愛想も良い。ノリだって良い。煙草は吸わないし、ギャンブルもしない。
何より、彼には芯がある。
普段はへらへらしていて、その見た目からチャラいだの軽いだの言われてしまう彼だけれども、夢を語る彼の瞳がキラキラと輝いていたのに気付いたあの時から、少なくとも私は彼に対する心象が大きく変わった。
「……そんな必要ないよ」
「……」
「言ったでしょ?私、」
「"恋愛はしたくないし、出来ない"でしょう?」
だからこそ、というには些(いささ)か語弊があるかもしれない。
相手が誰であろうと恋愛はもうしたくない。そしてきっと出来ない。
その見た目とは裏腹に確固たる夢を持ち、人生これからという彼が相手となれば尚更だ。
「……けど元彼さんは、例外っすよね」
「ない。あり得ない」
「……どうっすかね。涙華さんにそう思わせてる張本人なんすよ。そんだけ、涙華さんの中で元彼さんの存在は大きいって事でしょう?」
「……」
「ほら、図星」
ぐび、と。
残り僅かなビールを喉へと流せば、いつもなら美味しいと感じていたはずの苦味が、どうしてだか今は本当に苦く感じた。
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