それが最大のメリット


怒り、というにはどこか物足りない。

しかし恨みや憎しみだとかとは少し違っていて、殺意だなどとは間違っても言えない。


「おはよう。荒れてるね」

「おはようございます、オーナー。ええもう、台風より荒れてます」


嗚呼、もう。

頭も心もぐちゃぐちゃだ、と荒ぶる内側をさらけ出すわけにもいかず静かな外側を必死に装いながら寝不足の顔を引っ提げて出勤すれば、オーナーである矢上(やがみ)さんにくすりと笑われた。


「おっはようございます!って、あれ?涙華さん、どうしたんですか?顔恐ぇっすよ?」

「あらそう。ありがとう。あと、おはよう槌谷(つちたに)くん」


それだけならまだしも、ほんの数拍ほど遅れて出勤してきた槌谷くんの言葉によってさらに、ずん、と心が重くなる。

しかしいくら心の重さが増えようと時間は止まらない。

その他の同僚も出勤し、店は開く。

一見(いちげん)さんから常連さんまで様々なお客様が来店と退店を繰り返し、そうして終えた本日のお仕事。


「……よぉ、」

「……」

「頼むから、無視はやめてくれ」


今日、飲みに行きませんか?と太陽のような笑顔を咲かせながら誘ってくれた槌谷くんに、いいね、と小さく微笑んだのはつい数分前の話で。

お疲れ様でしたー、とオーナーに挨拶をして裏口から彼と一緒に出たのが数十秒前の話。


「乗れよ。送る」

「乗らない。送られたくない」


裏口の扉から視線を外して振り向いたのが数秒前。

無論その先に、昨日の男とそいつのものと思われる見るからに高級な車が見えたのも同刻だ。


「……俺よりその男を選ぶのか」

「あんたを選ぶメリットが見当たらないので」


ちらり、男の視線が槌谷くんに向かう。

しかしそれは一瞬で、すぐに私の方へと戻って来た。


「なら聞くが、そいつにはどんなメリットがあるんだ」

「"あんた"じゃない」

「……」

「それが最大のメリット」


ぴく、と動く男の眉根。

あからさまな不機嫌を張り付けたその表情のまま、男は口を開く。

おそらく、反論でもしようとしたのだろう。

しかし音は吐き出されず、僅かに開いていたそれはすぐさま閉ざされた。


「…………行こう、槌谷くん」

「え、でも、」


小さくため息を吐いて、槌谷くんの背中を押す。

黙ったという事はつまりそういう事だ。これ以上、こいつには関わりたくない。

え?ちょ、涙華さん?と慌てふためく槌谷くんの背中をさらにぐいぐい押して歩いた。


「……涙華」

「っ」


けれどもそれが出来たのはほんの数秒間だけで、いとも簡単に捕らえられてしまった腕によって私の足は止まる。

振り払おうと腕を振ろうにも動かす事すら出来ず、地味に痛いそこへと視線を落とすと同時に、どくりと大きくはねた鼓動。



「……嫌な言い方をして、悪かった」

「……」

「……チャンスを、くれないか、」

「……」

「……頼む、」


駄目、袖が。

そう思うよりも先に、本能的に口が開いた。
 



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