ガラスの靴は落とさない
それは本当に突然だった。
「…………る、か……?」
互いの気持ちを晒し出し合い、互いが持つ疑念や不安を吐露し合ったあの日から半ば強引に同棲を始め、もうすぐ一年。
何の記念日かと銘打つのは難しい。だが強(し)いて言うなれば、彼女の恋人へと戻れた日だ。
近付くその日を特別なものにしたいと最近はそればかりに気を取られていて、俺は忘れてしまっていたのだろう。
「……っ……る、か、」
カーテンの隙間から射し込む月明かりに照らされた不自然に空間のあるクローゼットを見つめながら彼女の名を呟いてみても、当然返事などない。
あの日彼女の持っていたキャリーケースを紐解いても、このクローゼットが埋まったのは六分の一ほどだった。この不自然な空間は彼女が元より持っていた服が吊るされていた場所だったのだろう。
いらない、着れない、と嫌がる彼女の言葉を無視して強引に買い与えた服だけが見事なまでに置き去りにされている。
「……記憶……もど……っ、たんだな、」
強がって嘲笑を混ぜてみても、詰まる言葉。
力の抜けた手のひらから、するりと鍵が抜け落ちた。
「……やっぱり、」
新たに購入したマンションで同棲を始めた日からから今日まで、一度も使った事のなかった合鍵。
外から見上げれば、住人が居ることを物語る明かりのついた窓。
鍵の開いている玄関を不用心だと思いつつも開ければふわりと香る料理の匂いとお帰りなさいに寄り添う笑顔。
たったの一度も欠ける事のなかったそれらが、何一つとして存在していない現状の意味する事など考えるまでもない。
「……消える……っ……の、か」
いつか。
いつかこんな日が来ると分かっていた。
"次も見付けてくれるって信じてます"
そう言ったあと直ぐに慌てて繕う言葉を紡ぐ彼女にそうだなと肯定の意を示しはしたものの、いざそうなると真っ先に生まれたのは躊躇いだった。
自分の事だから間違ってはいないはずだと彼女は言ったけれど、命の危険さえあったあの状況で防衛本能よりも拒絶を優先した彼女を思えば、いくら本人の言葉といえど信憑性には欠ける。
僅かに意識を傾けるだけで容易に浮かぶ、あらゆる負の感情を混ぜ孕(はら)んだ瞳。
床にぶつかるその瞬間まで逸れる事なく向けられていたそれを踏み潰してでも、彼女を取り戻したいと思う気持ちに嘘はない。
しかしそれが彼女にとって苦痛でしかないのなら、やはりこれ以上は関わるべきではないのだろう。
彼女は幸せになるべきなのだ。
出来る事ならばそれを与えるのは己でありたい。
そう願うだけならば、残酷なほどに簡単なのに。
「…………っ……涙華、」
ゆらりと歪む視界。
咳をするように喉から出た言葉に誘(いざな)われ、目尻から溢れたそれは頬を伝い、顎先から床へと静かに落ちていった。
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