ガラスの靴は落とさない
ずっと彼女が流し続けていた涙を、拭うどころかもっと見たいと決して傷口を塞がせなかった過去の自分。
何があろうと彼女は己から離れたりしないのだという根拠のない自信は、まさに傲りと呼ぶに相応しい代物だった。
失ったのだと気付いた時、残っていたのは簡単に捨ててしまえるものばかりだった自分に吐き気がしたのを覚えている。
自分の事しか考えていなかったあの頃。
自分から居なくなった彼女が探して欲しくないと思っているかもしれないだとか、そんな事は一切思わなかったぐらいに見つければ全てが元に戻るのだと信じて疑わなかった。
だがその結果、彼女を傷付け、記憶喪失へと追い込んだ。
自分さえ現れなければ、彼女は傷付く事もなく、記憶を失う事もなく、あの軽薄そうな男と何だかんだ言いつつ共に人生を歩んでいただろう。
恋愛だけが人生ではないし、女の幸せイコール結婚という定義を推しているわけでもないが、見目に反してブレない軸を持っているあの男となら彼女も幸せを掴めたはずだ。
違(たが)えたまま来た道を引き返す事など出来ないが、これから歩まんとする道を選ぶ事は出来る。
簡単だ。
見つけ出して連れ戻してどこにも行けないように閉じ込めてしまおう、なんて、汚く淀(よど)んだ感情を抱えてひとりで生きていけばいい。
「……っ、無理だろ。そんなの、」
そう思う心は確かに存在しているのに、都合良く解釈された彼女の言葉がそれを無惨にも一瞬で潰した。
何もかもが駄目になるのだと言った彼女の言葉に偽りがないのならば、共に堕ちてくれと願うのは己のエゴでしかないだろう。
やはり俺は、最低な男だ。
薄く自嘲を浮かべ、不自然に物の少なくなった彼女の部屋から玄関へと向かう。
携帯を操作しながら靴を履き、四コール目で応答した相手に仕事だと吐き捨てながら扉を開けた。
「七分と三十三秒」
「っ」
「あと二分半遅かったら、本気で逃げてた」
「る、か、」
瞬間、するりと手から滑り落ちた携帯。
「でも」
「っ涙華」
「って、ちょ、ま、はなっ」
「涙華……っ涙華、」
足元で何かが跳ねて何かを叫んでいるような音が聞こえた。
だがそれを気にする余裕など当然ありはしなくて、視線の先で怒った表情を浮かべた彼女へと手を伸ばしてきつく抱きしめる。
苦しいと身を捩(よじ)られても離すなんて出来ない。
彼女の肩に顔を埋(うず)め、狂ったように彼女の名前を何度も呼び続ければ、そろりと背中に何かが触れた。
「焦った?私が居なくて」
「死にかけた」
そ?じゃあこれでお互い様、おあいこね。
そう言いながら彼女は、ぽん、ぽん、と子供をあやすように背中を軽く叩く。
それに少し腹が立って顔を上げれば、僅かにあいた隙間のせいか、重なった視線の先で焦げ茶色の瞳がゆるく弧を描いた。
「黙って居なくなったように見せたのは、仕返し。今までのね」
「……」
「慌てふためけばいいって思ってたけど泣いてもくれたみたいだし、満足したから仕返しは完了。これまでの事はもう掘り返さない」
ふふっ、と悪戯に笑う彼女に返す言葉は見つからない。
先程よりももっときつく、すり抜けてしまわないようにしっかりと抱きしめて、彼女の名前を呼んだ。
「好きだ、愛してる」
もう二度と離さねぇし、逃がさねぇ。
唸るように宣告すれば、腕の中の彼女はくすりと笑う。
「……期待してる、」
きゅ、と背中に回された華奢な腕に加わる微弱な力。
そのせいでまた、無性に泣きたくなったなんて事を悟られたくなくて、再び彼女の肩へと顔を埋(うず)めた。
【END】
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