私は、あなたじゃないと、
そろそろかな。
「涙華」
なんて思った数秒後に、それが現実になったものだから思わず肩が揺れた。
「……ふふ、」
「……おい……?」
「ごめんなさい。まさかね、って思ってた事がそのまさかだったから可笑しくて」
背後から聞こえたその声に応えるように振り向けば予想通り頭の中で描いていた彼が居て、笑った私に怪訝な表情を見せる。
何なんだお前、とでも言いたげなそれに唇を結べば、訪れる沈黙。
どうしてですか?と問いたいところではあるけれど、私がこうしていた目的は生憎それじゃない。
どくどく、どくんどくん、と加速する鼓動を痛いほど感じながら閉じて間もない口を開いた。
「橘さん」
「……何だ」
「来てくれて、ありがとうございます。半信半疑でしたけど、すごく嬉しいです」
「……」
「連絡先を知らないとはいえ、こんな方法を取ってすみませんでした。でもどうしても、お別れが言いたくて」
「……ああ」
「色々と、ありがとうございました。結構、色んな事をうじうじ悩んでしまって、たくさん迷惑かけてしまいしたけど、私……もう、決めたので、」
「……ああ」
じわり、目頭が熱くなる。
ぐにゃり、視界が歪む。
まだ、まだよ。
泣くのは、一人になってからじゃないと。
「……っ、橘、さん」
詰まった言葉なんて、今さら気にしない。
今日しか、今しか、もうチャンスはないのだからと続く言葉を添えて、ゆっくりと息を吐き出した。
「っ好き、です、」
「……」
「……ご婚約されているのは知ってます。でも、伝えておきたくて……私は、あなたじゃないと、橘さんじゃない、と……っ」
「……」
「……っ、駄目、み……っ、」
声が震えているのも気にせずに伝えたい事を吐き出していれば、伸ばされた彼の腕。
それはまるで蔦のようで、絡め取られるかのように抱き締められているのだと脳みそが理解したのは、数秒経ってからだった。
「……プロポーズ、されたんだろ」
「……こと、わりました……結構……もめました、けど、」
「……そうか。俺も婚約なんてしてねぇ。その話はあったが、断った」
ふ、と左斜め上には彼が笑った気配。
何ですかそれ、なんて皮肉染みた笑いをこぼせば、密着していた二つの身体にほんの少しだけ隙間が生まれる。
「なぁ」
「はい」
「聞きてぇ事も、確かめてぇ事も、不安も、馬鹿みてぇにある」
「私も、少しあります」
「けど、聞いたところで、確かめたところで、不安がったところで、結局、俺の方がお前が居ねぇと駄目だ、ってぇのは変わんねぇんだろうなって思うんだ」
目線を上げれば、重なる視線。
困ったように眉を下げて、お別れじゃなくなったな、なんて言って新しい笑みを浮かべた彼が堪らなく愛しい。
「涙華、」
「はい」
「好きだ」
「……っ、は、い。私もす……っ、」
好きです。
その一言を伝える為に薄く開いた唇は塞がれ、音を失う。
最後まで言えなくて残念に思う気持ちは確かにあるのだけれど、唇から伝わる彼の熱に溺れたくて、私はそっとまぶたを閉じた。
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