電源切ったままだった


会話が途切れたのはきっと、気を遣われたからだろう。


「…………戻るといいな」

「……え」

「記憶」


沈黙を破るように再び音が奏でられたのは、車が停まってからだった。

着いたぞ、の一言を皮切りに向けられた彼の言葉に力なく肯定の意を示せば、ゆるりと上がる口角。


「……幸せにな」


車を降りて、ありがとうございましたと頭を下げた瞬間、酷く小さな音が頭上にこぼされる。

慌てて顔を上げるも既に車は発進していて、テールランプの赤が視界を彩った。


幸せに、か。

視界から赤が消えて、一呼吸置いてから呟いてみたけれどそれは口外に出る事はなく、口内で小さく響いて消える。

漠然としているそれに内心首を傾げながら、それでも歩むべき道はひとつしか残されていないのだからと、振り返り、マンションの入り口へと視線を向けた。


「……っ……こ、うせい、くん、」

「……」

「……びっくりした……どうしたの、こんな時間に」


瞬間、移り変わる視界の中に人影を捉えて、びくりと跳ねた肩と心臓。

すぐにその正体が分かったから叫ばずに済んだものの、街灯のみのそこに立ち尽くされたままだと知った顔だとしてもやはり多少の恐怖心は生まれてしまう。


「……連絡、つかなかったんで、心配で、」

「…………あ……ごめん、私……携帯……電源切ったままだった」

「……何で……切ってたんすか」

「……あー……えと、実家っていう訳じゃないんだけどね、昔住んでた所に行ってて、何ていうか、誰にも邪魔されたくなくて」


一歩、また一歩。

ゆっくりと彼が近付いてきて、ようやく暗闇が生んだ恐怖心は薄れた。


「……ごめんね?心配させ」

「邪魔」

「え」

「されたくなかったのは、」

「……」

「あの人と、居たから、ですか、」


けれど今度は、違う意味でどくりと心臓が跳ねる。


「……昔……された事の記憶が消えた、ってだけで、」

「……」

「無条件に、あいつを選ぶんすか……っ、」


ガシッと掴まれた肩に這う地味な痛み。

目前に迫った彼の瞳がゆらりと揺れる。


「……っなん、で、っすか、」

「……こう、せ……っ、」

「俺は……っ……俺を、選んでくれた、って、」

「……」

「……言った、じゃな、い……すか、」


そこに孕(はら)んでいるのは怒りではなく悲しみだと一目で分かったけれど、詰まらせながら彼が吐き出した言葉の意味は分からなかった。
 



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