頭の中がぐちゃぐちゃで


彼はきっと、魔法が使えるのだろう。

ちちんぷいぷいだとか、あぶらかたぶらだとか、そんな呪文は必要のない魔法。

ほら行くぞと手を握られても、彼のものと思われる車の助手席に押し込まれても、見せかけの抵抗すらさせない。そんな魔法だ。


「……で?」

「……え」

「今回は何が原因で泣いてたんだ」


送る。

その一言を吐き捨て、私の返事など聞いていないと言わんばかりに車を発進させた橘さんは、高速道路へ入るためのETCゲートを通過してようやく口を開いてくれた。

瞬間、ハッとする。

泣いてなんて、と嘯(うそぶ)こうにも私の顔面はどろどろのぐちゃぐちゃだ。

ふってわいた羞恥心から、バックを顔の真横まで持ち上げて彼の視線を断つ。


「……運転中は前しか見てねぇよ。見たとしても一瞬だけだ」


見られたくなくて起こしたその行動を視界の端にでも感じたのか、吐き出したその言葉通り、彼は前を向いたままくつりと笑う。

走行中の余所見は確かに命取りだ。

命懸けで見るほどの価値なんて私の横顔にはないのだけれど、それでも不様な顔面を晒すのはかなり抵抗がある。


「涙華」


しかしそれさえも、彼はお得意の魔法を使って自分の意のままにしてしまう。


「……記憶を、取り戻したくて、」


すとん、と膝上に落ちたバックとそれを持っていた手。

その二つに視線を留め、小さく言葉を吐き出した。


「……橘さん、おっしゃってましたよね……記憶をなくす前の私はあなたを憎んでいた、と」

「……ああ」

「だから、取り戻さなくちゃ、と……思ったんです」

「……」

「だけど、取り戻せなくて……何も……思い出せなくて、」

「……」

「…………頭の中がぐちゃぐちゃで、ごめんなさい、こんな……ご迷惑をかけてしまって」


本当にすみませんでした。

告げながらちらりと視線だけを運転席へと向ければ、当然、見えるのは橘さんの横顔。

彼の視線は前へ向けられたままで、これぐらい何ともねぇよ、と当たり前のように吐き出されたその言葉に涙腺がまたゆるみかける。


「……っ私、」

「……」

「……お付き合いしている人にプロポーズされて……それで、受けようと、思ってるんです、」

「…………そうか、」

「……でも、今のままじゃ、駄目なんです」

「……」

「……記憶をなくす前の私じゃないと、」

「……」

「……あなたを……っ……橘さんを、憎んでる私じゃないと、」

「……」

「……駄目……なん、です、」


過去だとか、未来だとか、全部投げ捨てて目の前の彼に手を伸ばしたい。

だけど、過去の抜けた未来を本物だと呼びたくはない。


「…………そうだな」


記憶を失う前の私が選んだのが目の前の彼ではないのならば、きっとそれが正しい未来なのだろう。

その思いに添って吐き出した言葉は、何故だと問われる事もなくすんなりと受け入れられた。


「…………は、い、」


その事実に、私の胸が痛みを孕(はら)んでいるのはどうしてなのか。

誰か、教えて。
 



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