まるで、他人事ね、
ふわりと白い息が舞って、ああそういえば、なんて言葉が浮かぶ。
けれどもそれはすぐに、薄れて消えた息と同じように脳内から追い出される。
酔っている?
いいや、酔ってなんかいない。
確かにバーで四杯ほど嗜んだけれど、気温は低いのに身体が少しだけ暑いけれど、酔ってはいないんだ。
ただ、こうするべきだと思ったからこうしているだけ。
「……ここを捨てるほど、嫌だったんだよね、きっと、」
ぽつり、呟けば、またしても生まれる白い息。
プロポーズの返事の期限が明後日に迫っている今日、自分が逃げ出した故郷へと私は朝から足を運んでいた。
「……まるで、他人事ね、」
小学校や中学校、高校も見に行ったし、大学も見てきた。
受験の時に入り浸った図書館や、息抜きに通っていたカフェにも行った。
けれど、それらのどこにも橘さんが居る思い出はない。
この地を離れる際、一方的に連絡を経ったであろう友人達の事は次から次へと思い出すのに、脳内で再生される情景の中に彼の姿はちらりとも現れない。
「……手首だって、こんなになってるのに、」
するりと袖を少しだけ上げて、醜い手首へと視線を落とす。
刻みに刻まれ、残った線に盛り上がった肉。
全てを捨てるほど、自身を傷付けてしまうほど、私は彼が嫌で、憎んでて、恨んでもいたのだろう。
きっとそれが正しい私で、今の私は私という皮を被った紛(まが)い物。
だからこそ、彼の事を思い出して本来の私に戻って、恋人の元へ戻る為に駅へと向かわなければいけないのに、私の足は歩道の途中で動かなくなる。
意図せず、自然と向いた視線の先には街灯も覚束ない石畳と砂利。
数メートル先には鳥居があって、そこからさらに数メートル先にはそれほど大きくない神社がある。
ああ、そういえば。
夏になるとここは縁日が開かれて、花火も上がって、普段はひっそりとしているけれどその時だけは華やかで賑やかだったな。
なんて、昔を思い出しながらゆっくりと歩を進めれば、薄暗い視界の端に写った一本の樹。
神社へと向けていた足をその樹へと向け直し、ひっそりとした神社にしては立派な幹のそこへと背中を預けた。
小さく息を吐いて、空を仰ぐ。
葉の落ちて剥き出しになった枝の隙間から見えたのはじっくり見ないと見落とすくらいに小さな光。
儚いな。
そう思った瞬間、じわりと滲む視界。
拭(ぬぐ)うよりも先に目尻からポロポロと零れたそれの理由は、私にもよく分からない。
分からないのに止められなくて、ずりずりと背中が幹を滑る。
トン、とお尻が地面について、ひんやりと冷たい感触に鼻の奥がツンとして、ああもうわけが分からない。
「っ……たち……ば、な、さん、」
膝を立てて、腕を置いて。
「……っ会い……っ、たい……よ……っ」
そこに顔を埋(うず)めて、馬鹿みたいに泣いた。
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