歩きたい気分だから


正解か不正解か。

どちらだろうかと問われれば、すまない忘れてくれと微笑んだ橘さんが正解で、静止に入った矢上さんに憤(いきどお)りを感じた私が不正解なのだろう。

だって、橘さんには婚約者がいる。

そして私には恋人が。


「涙華さん」

「……」

「結婚、して下さい」


否、私の方も婚約者になるのかもしれない。

無論それは、私次第、だけれど。


「俺のワガママだっていうのは分かってます。でも、俺……どうしてもこのチャンスを逃したくなくて」

「……お店を持つのはキミの夢でしょう?そう思うのは当然よ。ワガママだなんて思わないわ」

「……」

「……でも、結婚は……悪いけど、すぐには決められない。籍を入れる入れないの問題だけじゃないから、」

「……です、よね。フランスは遠いですから、簡単について来て貰えるとは思ってないです。でも俺、不安で、」


不安。

眉を垂れ下げ、拾って下さいと訴える子犬のような瞳で私を見つめながらそう告げる彼に、不安がる必要なんてないのにと言えないのは、その要素を十分過ぎるほど持っていると自覚しているからだ。


「……元セフレだものね、私達。その辺は信用されなくて当たり前よね」

「っ、ちが、そういう意味じゃ、」


私の言葉を必死に否定する彼の事は、自分なりに愛していると思っている。

恋人らしくデートもするし、キスもして、セックスだって当然する。

愛を囁かれれば鼓動も速くなるし、触れられれば甘い声だって生まれる。

だけどいつだって、彼は頭の中から消えてくれないあの人の影に容易く埋もれてしまう。


「……ちゃんと考えて、答えを出したいの。どれくらい……時間、貰える?」


ふとした瞬間に思い出してしまう程度ならば、私だって所詮その程度だと自嘲して終われた。

でも、そうじゃない。


あの人には婚約者が居て、自分には恋人が居る。

決して交わる事のない、過去にすがっているだけの一方的な想いなどさっさと潰して忘れてしまえよと思うのに、あのパーティーから半年経った今でもそれはずっと私の中に鎮座して動く気配すらない。

恋人である彼と、手を繋いでデートをしていても、ソファーに座ってキスしている時も、ベッドでシーツを乱している時も、頭の中ではあの人が微笑んでる。


「……一ヶ月……短いかもっすけど、手続きとかあるんで、これ以上はちょっと、」

「ううん。十分よ、ありがとう。ごめんね、無理言って」

「……いえ。この場で断られなかったんで、良かったです。緊張し過ぎて心臓すげぇ痛かったんすけど、落ち着いてきました」


そんな状態で恋人という肩書きを振りかざしている現状からして失礼だというのに、よもや結婚だなんて。


「……今日はもう、帰るわ。お邪魔しました」

「あ、送りま」

「ううん。大丈夫。まだ陽も落ちてないし、一人で歩きたい気分だから」


考えたところで、変わるものは何もないだろう。

それなのに時間を要求したのは、彼への情か、己の保身か。

気を付けて、と小さく手を振る彼に背を向けて、ゆっくりとため息を吐き出した。
 



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