っ嫌!


鋭い痛みを感じると同時に、光が射し込む。

ゆっくりとまぶたが上がる感触は、自分が眠っていたらしい事を暗に語る。


「……すり……切れてる、」


目前に手首がふたつ並んで見えるのは、おそらく体勢のせいだろう。

意識を孕(はら)んで目を開けるよりも先に感じた鋭い痛みは、この赤く滲むすり傷がもたらしたのだろうと容易に想像出来た。


ただでさえリスカの痕があって醜い手首なのに、昨夜の事でさらに輪をかけるはめになるとは。

小さく息を吐いて、のそりと身体を起こす。

持ち上がった視界に写ったのは、昨夜、あの男の肩越しに見えた景色とはどこか違う景色。

生まれた違和感に誘(いざな)われるまま、ぐるりと辺りを見回せば、ドアが見えて、エレベーターと直結していた昨夜の場所とはどうやら違うようだと静かに結論付けた。


いや、場所なんてどうでもいい。

重要なのは、今この場にあの男が居ないという事。

逃げるなら今しかないとシーツを身体に巻き付け、ベッドから降りてドアへと向かう。

音を立てないようにドアを開けてそろりと顔を出せば、左右に伸びた廊下と対面する真っ白な壁。

廊下へと出て、後ろ手でドアを閉めながら視線を巡らす。

右には突き当たりとその手前にドアがある。

左にも同じ構造なのか突き当たりとその手前にドアがあるけれど、右と違うのは対面する壁が途切れている、という事だ。

ドアがあるわけではないけれど、壁もない。

この場所から逃げるならばきっとそこだ、と完全に勘でしかないそれに突き動かされて、一歩を踏み出した。


「……涙華?」


瞬間、背後から聞こえたその声。

びくっ!と肩が跳ねたのと、足が床を蹴ったのとではどちらが先だっただろう。

捕まって堪るかと振り返る事もせずに一目散に途切れ目のそこを目指して走る。


足を動かす度に揺れ動く視界。

その中で見えた途切れ目の向こう側はどうやら階段のようで、一体どんな構造なんだと要らぬ思考が働いた。


「っ涙華!」


階段へと踏み出そうとした瞬間、掴まれた手首。

それを引かれて、くるりと身体が半回転したものだから視線がかち合う。


「っ嫌!」

「っ、おい」


捕まったら、二度とここから出られない。

出さないと言われたわけでもないのに何故かそんな強迫観念に駆られ、掴まれていない方の手が思いきり男の身体を押した。


「っ」


刹那、支えのなくなった踵が落ちて、後ろへと傾く身体。

重力に導かれるそれを、恐ろしいほどに冷静な思考は分析して、自分がこれからたどるであろう未来を決定付ける。


「涙華!」


流れる視界に伸ばされた手が写って、本能的に私の手はそれを掴もうと動く。

しかしその手を取るぐらいならば、と伸ばしかけた手をもう一方の手で掴み、自分の胸元へと引き戻した。
 



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