何とでも、言えるよね


一旦、落ち着きたい。

そう言ったのは紛れもなく自分自身だけれども、どうしてこうなった?と問いたくなるのはどうにもこうにも予想だにしない事態が現実として今まさに起こっているからだろう。


「……え、と、あの、しゅん……た、」

「……ん」

「指、離して、くれない……?」


玄関より中に入られてしまった時点で、追い出すのは物理的にも精神的にも無理だと早々に悟った私は、出ていけとは言わずにリビング経由でキッチンへと向かった。

上がれば?なんて愚かな言葉は勿論かけやしなかったけれど、そこはほら、甘やかされて育ったお坊っちゃまですから勝手に上がってくるのは計算済みだ。

お客様ではないから、お客様用のものは使わない。お気に入りのマグカップに自分のコーヒーを、プレゼントで貰ったはいいもののお気に入りがあるから一度も使った事のなかったマグカップに彼のコーヒーを入れて、リビングのテーブルにそれらを置くまでについたため息は残念ながら数えていない。

二人がけのカウチソファーに腰をおろしてから、リビングと玄関へ繋がる廊下の境界線でもあるドアに寄り掛かって立っていた彼に、飲めば?と視線だけを向ければ、何を思ったのか躊躇いもなくヤツは私の隣へと腰をおろした。

そして、ジ、と私の目を数秒見据えたあと、私の左手の薬指を親指と人差し指で掴み、残りの指で私の小指を掴んで、握る、という奇妙な器用さをひけらかしながら、ゆっくりと口を開いた。


屁理屈を言って悪かった、元通りにさせる、と。


あ、うん、と気の抜けた返事を吐き出した私の顔はさぞかしマヌケ面だった事だろう。

何だよコーヒー必要なかったじゃないか、というかものの数秒で話はついたじゃないか、と事実であるが取り立てて考えるような事ではないそれらを脳内で巡らせていれば、薬指に走った馴染みのない妙な感触。

はっとして視線を落とせば、掴まれたままの薬指を男の親指がすりすりと撫でていた。


「……嫌……か……?」

「……え、や、だって、片手塞がってるとコーヒー飲みにくいし」


嫌ではない、なんて言えるわけがなくてそれらしい理由にすり替えたあと、またしてもはっとしたが時既に遅し。


「……分かった」


ふ、と。

薄く笑う彼を見て、そこは嘘でも嫌だ触るなと拒絶の意を示しておくべきだったと後悔の文字が重くのしかかる。

ほら、とテーブルから私のコーヒーを取って持たせてくれる彼の口角がまだ微かに上がっているように見えるのは気のせいだと思いたい。

お礼を言いながらそれを受け取り一口すする。ごくりと喉を流れたほろ苦いそれは思ったより冷めていなくて、ほっ、と小さく息を吐いた。


「……好きだ」


刹那、真横から聞こえたその言葉。

鼓膜に直接刻み込むかのように囁かれたそれに、どくりと鼓動がざわめき始める。

マグカップの中でたゆたう褐色のそれに落としていた視線を上げる事が出来なくて、どくん、どくん、と自分の心音だけがやけに響いた。


「ずっと、探してた。跡形もなく消えられて、三年もかかっちまったけど、やっと、見つけたんだ」

「……」

「無理矢理、食事に連れて行ったのも、仕事が終わるのを待ち伏せてたのも、悪かったと思ってる」

「……」

「けど、お前の姿を見たら衝動を止められなかった……お前が、他の男と居るのを見たら、気が狂いそうだった、」

「……」

「……諦め、られねぇんだよ。お前を、誰にも渡したくねぇ、」

「……」

「……お前の側に、居てぇんだ」


三年前の私なら、彼の紡いだその言葉にときめいて、涙を流した事だろう。

もう無理だ、でも離れたくない、でも苦しい、でも、でも、でも、と相反する自分と自分の狭間で葛藤し続けていたあの頃にそんな言葉を囁かれていたらきっと現在(いま)の私は居なかっただろう。


「……口では、何とでも、言えるよね」


はは、とこぼれ落ちた酷く乾いたその笑みに、自分はこんな笑い方も出来たのかと少しだけ驚いた。
 



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